オンラインブック せかい伝記図書館 巻末小伝
(32)

陸奥宗光(1844−1897)

江戸幕府を倒した明治政府にとって、いちばん頭のいたい問題は、1858年に江戸幕府が、アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシアの各国と結んだ通称条約でした。外国人が罪をおかしても、治外法権ができたことによって日本の法律でさばくことができませんし、外国からの輸入品に関税をかけるのも、自由に決められないという、たいへん不平等な条約だったからです。この条約を改正するという難問に取り組み、解決へ努力したのが、のちに日本外交の父といわれた陸奥宗光でした。

1844年、宗光は、和歌山藩士伊達宗広の6番目の子としてうまれました。藩の政治にたずさわり、国学にもすぐれていた宗広の血を受けついだ宗光は、本を読んだり、議論をしたりすることが大好きな少年でした。

18歳のころ、京都で坂本龍馬と知り合った宗光は、龍馬の組織した海援隊に入り、討幕運動に加わりました。

明治維新ののち、政府の役人となった宗光は、持ち前の能力と、おうせいな行動力で、外国事務局御用係、地租改正局長を歴任し、1875年には元老院幹事に任命されました。しかし、薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)の出身者による政権の独占に不満をいだいて、役人をやめてしまいました。

西南戦争のおこった1877年、宗光は政府を倒す計画に参加したとして、投獄されました。そして、獄中にあった5年のあいだに宗光の考えは、大きく変わりました。

「政府を外から変えようとしてもだめだ。それよりも、政府のなかにいて仕事をとおして変えていこう」

宗光は、刑期を終えると、ヨーロッパへ留学しました。外国の政治を、自分の目でたしかめたいと思ったのです。

2年後、帰国した宗光はふたたび役人となり、伊藤博文内閣の外務大臣に就任しました。このとき「政府を倒そうとした男をなぜ大臣にするのですか」といわれた博文は「そのくらいの人物でなければ、あの仕事はつとまらない」と言ったと伝えられています。博文の言ったあの仕事とは、明治政府がかかえていた最大の難問、5か国との不平等な条約を改正することです。

宗光は、各国とねばり強く交渉をつづけ、1894年ついにイギリスと、治外法権をなくすという条約改正に成功しました。そして、よく年、清国(中国)との講和会議が下関(山口県)で開かれたときには、博文とともに全権として、日本に有利な条件で講和条約を結びました。しかし、講和会議の2年後、病気のため53歳で亡くなりました。


もどる
すすむ