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(32)

西園寺公望(1849−1940)

1919年(大正8年)、第1次世界大戦の講和会議が、パリで開かれました。このとき、日本の首席全権として、すぐれた外交手腕を発揮したのが、西園寺公望です。

公望は、ペリーが浦賀(神奈川県)に来航する4年前の1849年に、京都の公家、徳大寺公純の次男として生まれました。そして、3歳のとき、公家の西園寺師季の養子となりました。

格式の高い家に生まれ育った公望は、幼いころから学問ずきで、わずか13歳のころには、のちの明治天皇に仕え、1867年12月の王政復古ののち、19歳の若さで、政府の参与という高い地位につきました。さらに、よく年には越後府知事を任ぜられるという、すばらしく早い出世でした。しかし、公望の心の中には、ひとつの思いがうずまいていました。

「これからの日本は、世界に目をむけなくてはいけない。そのためには、もっと外国のことを知る必要がある」

福沢諭吉の『西洋事情』を読み、外国に対するあこがれを、よりいっそう強いものとした公望は、ヨーロッパへ旅立つ決意をかためました。

1871年、公望はパリの空の下に立ちました。おりからパリの空気を支配していたのは自由民権の思想でした。それから10年のあいだ、ソルボンヌ大学の学生として学問にはげみ、自由な思想を心にやきつけて帰国した公望は、日本でも国民が政治に参加することを求める運動が、板垣退助らによって高まっていることを知りました。そして、1881年には、パリで知り合った中江兆民とともに『東洋自由新聞』を創刊して社長となり、退助らのおこしていた自由民権運動を支持する姿勢をしめしたのです。公望の行動は政府をたいへんおどろかせました。公家の出身でありながら、政府に反対する運動を助けているのですからむりもありません。

政府の猛反対にあった公望は、社長をやめて、ふたたび政府の役人となりました。そして、外国の憲法を調査するため、ヨーロッパへ渡る伊藤博文に同行して、皇室制度を調べました。

帰国ごは、博文の内閣のもとで文部大臣をつとめ、科学の重要性と自由な教育の必要性を説きました。そのごは、1906年(明治39年)と1911年の2度、総理大臣となり、大正時代からは総理大臣を天皇に推せんする役目の元老になりました。日本の政治を、明治・大正・昭和にわたって、見つめてきた公望は、日本が第2次世界大戦に参戦するおよそ1年前に、その生涯を閉じました。91歳でした。


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