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(33)

高峰譲吉(1854ー1922)

1854年3月、江戸幕府は、日本へやってきたアメリカ海軍将官ペリーと日米和親条約をむすび、1639年から215年のあいだつづけてきた鎖国をやめて、外国とのまじわりを始めました。

高峰譲吉は、日本が国を開いた、この歴史に残る年に、越中(富山県)高岡で生まれました。父は加賀藩の医者でした。

日本の新しい足音を聞きながら育った譲吉は、11歳のときから長崎と大阪で英語や医学を学び、18歳で工部大学校(いまの東京大学工学部)へ入って、6年間、応用化学を勉強しました。また、卒業と同時に国からえらばれてイギリスへ渡り、3年のあいだ、外国の進んだ化学を学びました。

日本へ帰ってくると農商務省に入って、和紙の製造や酒の醸造などの研究を始め、33歳のときには人造肥料会社をおこしました。農商務省の出張でアメリカへ行ったときに過燐酸石灰に目をつけ、それを持ち帰って、日本で初めて燐酸肥料の実験と製造に成功したのです。

いっぽう、母の実家が造り酒屋だったため少年時代から酒の造り方に興味をもっていた譲吉は、酒のもとになるこうじの研究をして、36歳のときに新しいこうじの作り方を発明しました。

やがて、アメリカのウイスキー会社にまねかれ、譲吉は、シカゴへ渡りました。そして、麦芽を使わないウイスキーの製造に成功して、高峰式ウイスキー醸造の名を高めました。

ところが、麦芽業者のはげしい妨害にあい、譲吉は殺されそうになったうえに、工場を焼かれ、会社は、なみだをのんで高峰式ウイスキーの製造を中止してしまいました。

譲吉は、アメリカでの仕事を失いました。しかし、みじめな思いのまま日本へ帰ろうとはしませんでした。それどころか、小麦のこうじから取りだしたジアスターゼに、脂肪やたん白質をこなす力のあることを発見して消化剤を発明、自分の名の高をとってタカジアスターゼと名づけて、アメリカの製薬会社から売りだしました。また、ニューヨークに高峰研究所を建ててホルモンの研究をつづけ、動物の体内からホルモン結晶体のアドレナリンを取りだすことに、世界で初めて成功しました。

そのごも譲吉は、アメリカに住み、68歳で亡くなりました。

亡くなる10年ほどまえ、日本の政府から学士院賞を受け、いちど日本に帰国しました。そのとき「日本にも、ひとつくらい科学研究所がなければいけない」と訴え、理科学研究所建設のきっかけをつくりました。譲吉はアメリカにいても、心はいつも日本の発展を思っていたのです。


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