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(33)

小村寿太郎(1855ー1911)

1904年に、日本とロシアのあいだで起こった日露戦争は、陸軍が満州(いまの中国東北部)でロシア軍を退却させ、海軍が日本海でロシア艦隊をげきめつして、日本が勝ち進みました。しかし、1年もたつと、兵力も武器も底をつき、戦争をつづける力を失ってしまいました。そこで日本は、アメリカに戦争を終わらせるための仲だちをたのみ、1905年8月にアメリカのポーツマス軍港で、ロシアと話し合いをすることになりました。

このとき、日本の全権としてポーツマスにのりこんだのが、明治政府の外交官、小村寿太郎です。

寿太郎は、日向国(宮崎県)の飫肥藩につかえる身分の低い武士の子として生まれました。無口で忍耐強く、ひとりで静かに本を読むのがすきな少年でした。

寿太郎は、15歳で大学南校(いまの東京大学)に進みました。そして、卒業後、文部省の留学生にえらばれてアメリカへ渡り、25歳で帰国すると4年ほど司法省で裁判所の仕事をしたのち、外務省へ入りました。でも、37歳までは目だたない仕事がつづき、外務省の役人としてはめぐまれませんでした。

寿太郎が外交官のスタートをきったのは、38歳のときに外務大臣の陸奥宗光にみとめられて、清国(中国)におかれていた日本公使館の、代理公使に任命されてからのことです。それは、日清戦争が起こる1年まえのことでした。

そののちの寿太郎は、朝鮮、アメリカ、ロシアなどの公使をつとめながら、むずかしい外交の役を果たし、とくに、南へ領土を広げようとするロシアをおさえることに力をつくしました。

46歳で、桂太郎内閣の外務大臣に迎えられました。ところが、ロシアは、満州や朝鮮へ手をのばそうとするのをやめず、ついに、日露戦争が始まってしまいました。そして1年ののち、寿太郎がポーツマスの講和会議にのぞむことになったのです。

会議は20数日もつづき、寿太郎は、日本に少しでも有利な条件で講和がむすばれるように、全力をつくしました。しかし、戦争をつづける力がない日本を救うためには、ロシアの示す条件も受け入れて、調印を終えるよりしかたがありませんでした。

日本へ帰ってきた寿太郎は、国民から「国賊だ」「小村は腰ぬけだ」 と、ののしられました。国民は、政府や寿太郎の苦しみを知らなかったのです。寿太郎は、国の実情はけっして口にせず、なにひとつ、べんかいもしなかったということです。

寿太郎は、そのご、1910年の韓国併合にも努力し、明治時代の幕がおりる前の年に亡くなりました。まだ56歳でした。


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