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(33)

原敬(1856ー1921)

政治家原敬は、盛岡藩(岩手県)の武士の家に生まれました。父は敬が9歳のときに死にましたが、祖父は藩の家老をつとめた家がらでした。しかし、盛岡藩は、明治維新に幕府がわについて朝廷軍と戦ったため、朝敵とよばれるようになり、明治時代をむかえたころには、原家も落ちぶれてしまっていました。

家は落ちぶれても自分の希望だけは失わなかった敬は、15歳で東京へでました。そして、まず神学塾でキリスト教を信仰しながらフランス語を学び、やがて、政治家への道をめざして司法省法学校へ進みました。

ところが、法学校では校長と争って3年めに退学させられ、そのごは新聞記者、役人、外交官などの道を歩み、40歳をすぎたときには大阪毎日新聞の社長になっていました。

「新聞人から代議士へ、代議士から大臣へ……」

敬は、心に、このように決めていたということです。

1900年、伊藤博文を中心にして立憲政友会という政党が結成されると、新聞社を去って党へ入り、数か月ごには早くも逓信大臣に任命され、2年ごには衆議院議員選挙に当選して、自分のこころざしどおりに政治家へのスタートをきりました。

そのごの敬は、人をおそれないすばらしい政治力で、つねに政友会をまとめ、大正時代の中ごろには、ついに大きな夢を果たしました。西園寺公望内閣、山本権兵衛内閣で内務大臣をつとめたのち、1914年には政友会の総裁となり、つづいて1918年に、原内閣を誕生させたのです。

「むかしの薩摩藩、長州藩などで力をもっていたものや、貴族院の貴族たちにあやつられる政治ではだめだ」

敬は、政党の力による、じゅんすいな議会政治をのぞみました。そこで、内閣は、外務、陸軍、海軍の3大臣をのぞいて、すべて政友党の政治家たちで固めました。また、内閣が歩み始めると、衆議院や政党をおさえるためにおかれていた貴族院の、頭の古い貴族たちの考えを少しずつ改めさせ、政党の力を強いものにしていきました。

じっさいの政治では、国防、教育、産業、交通などに力を入れました。しかし、おおくは、民衆のためよりも国と資本家の利益にむすびついたものでした。民主的な選挙がおこなわれるための普通選挙の実施などには反対しました。そのため、原内閣をひはんする人びとが現われ、1921年11月4日、65歳の敬は18歳の少年に、東京駅で暗殺されてしまいました。

政党政治をうちたてたことが、歴史に残した偉業でした。


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