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(33)

尾崎行雄(1858ー1954)

権力をふるう政治をにくみ、憲法を守る正しい議会政治をうちたてるためにたたかった「憲政の神さま」。

このようにたたえられた尾崎行雄は、相模国(神奈川県)で生まれ、慶応義塾で1年半、工学寮(のちの東京大学工学部)で1年学んだのち、24歳で政治の世界へ入りました。

大隈重信が新しく結成した立憲改進党に加わったのが、その第1歩です。行雄は、党が発行する『郵便報知新聞』の論説委員をつとめ、国民の自由と権利を守る政治を広く訴えました。

ところが、29歳のとき、東京を追われてしまいました。伊藤博文内閣の政治に反対したため、内閣が反対者をしばらく遠ざけるねらいで作った保安条例に、ふれたのです。

「数年、東京に住めないのなら、このさい外国へ行ってこよう」

行雄は、それからおよそ2年のあいだ、アメリカやイギリスをまわって、進んだ国ぐにの政治を学びました。

1890年、日本で初めての衆議院総選挙がおこなわれると、三重県から立候補して当選しました。このときはまだ31歳でしたが、そのごの行雄は25回もの連続当選の記録をつくり、90歳を越えるまで63年ものあいだ、衆議院議員の道を歩み続けました。

行雄は、文部大臣、司法大臣などをつとめ、45歳のときから10年間は東京市長の大任も果たしました。最もはなばなしく活やくしたのは、日本に軍国主義の芽がではじめてからです。

1912年の12月に、軍隊と強くむすびついた桂内閣が生まれると、行雄は、憲法を守る憲政擁護運動の先頭に立ってたたかいました。そして、国会で「あなたは天皇のかげにかくれて憲法に反することばかりしてきた」と叫んで桂首相をきびしく叱り、やがて内閣を総辞職に追いこみました。

1914年には、海軍が軍艦を買うときに外国の会社からわいろをもらっていた事件で、山本権兵衛内閣をたたき、1920年には、国民が平等に選挙権をもてるようにする普通選挙運動に立ちあがり、民主政治のために力をそそぎました。また、日本が大陸への侵略を始めると、戦争反対を叫びつづけました。軍隊からどんなににらまれても、自分の考えをかえませんでした。

第2次世界大戦が終わって8年すぎた1953年の選挙で、行雄は、初めて落選しました。もう95歳だったからです。しかし、このとき国会は、明治、大正、昭和の3代にわたって活やくした行雄をたたえて、衆議院名誉議員の名をおくりました。

アメリカの首都ワシントンでは、行雄が東京市長のときにおくった桜が、いまも、春にはうす桃色の花を咲かせています。


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