オンラインブック せかい伝記図書館 巻末小伝
(33)

嘉納治五郎(1860ー1938)

「敵をたおして勝つことだけが目的ではない。技をみがきながら、人間の心とからだをきたえるのが柔道だ」

このように信じて講道館柔道をおこした嘉納治五郎は、摂津国(兵庫県)で生まれました。家は、大きな造り酒屋でした。

8歳のときに明治時代を迎えた治五郎は、それから3年のちに東京へでて英語や漢学を学び、やがて東京大学へ進んで政治、哲学、経済学を勉強しました。また、大学へ入るまえから天神真楊流の福田八之助の道場へ入門して、柔術を習っていました。少し背が低いうえに、からだが弱かった治五郎は、人に負けない強い心と、たくましいからだが、ほしかったのです。

きびしいけいこで、いつも、からだじゅうのすり傷に万金膏というこう薬をはっていた治五郎は、友だちから「万金膏の嘉納」と、あだ名をつけられていました。

大学を卒業すると学習院の先生になりました。でも、柔術への情熱は燃やしつづけ、東京下谷の永昌寺に道場を開きました。これが講道館の始まりです。治五郎は、まだ22歳でした。

柔術を柔道と改めた講道館には、治五郎の人格をしたっておおくの門人が集まりました。そして、柔道をばかにしていた警視庁の柔術との試合に2度も勝って、講道館柔道の名を日本じゅうに広めました。29歳のときに、本郷真砂町に大きな道場を作ったころには、入門者は1500人を超えていたということです。

教育者としてもすぐれていた治五郎は、やがて、第一高等中学校(のちの第一高等学校)の校長をへて、33歳のときには東京高等師範学校(今の筑波大学)の校長になり、それから26年あまりのあいだ、教師として巣立っていく若い人びとの教育に力をつくしました。体格も人格もりっぱな日本人を育てることが、治五郎の生涯の願いでした。

1909年、フランスのクーベルタン(近代オリンピックをおこした人)にたのまれ、日本人として初めて国際オリンピック委員になりました。そして、1912年にストックホルムで開かれた第5回大会には、マラソンの金栗選手らをつれて参加しました。日本がオリンピックに参加したのは、これが初めてでした。

治五郎は、こうして日本人がスポーツをとおして世界の人びとと手をむすぶことにも、努力をつづけました。しかし1938年にエジプトのカイロで開かれたオリンピック委員会から帰るとちゅう、治五郎は、太平洋の船の上で亡くなってしまいました。

柔道は、1964年の東京大会からオリンピックの正式種目になりました。治五郎が講道館をおこして82年ごのことでした。


もどる
すすむ