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(33)

内村鑑三(1861ー1930)

7歳のときに明治時代を迎えた内村鑑三は、12歳から数年、東京で英語を学び、15歳で、札幌農学校へ入学しました。

「少年よ、大志をいだけ」クラーク博士が、このことばを残してアメリカへ帰ったばかりの農学校には、キリスト教の精神がみちあふれていました。

鑑三は、初めは、キリスト教を強くこばみました。しかし、上級生たちのえいきょうで17歳のときに洗礼を受け、やがて仲間と教会を建設するほど、キリスト教を深く信仰するようになっていきました。

優秀な成績で4年間の学業を終えた鑑三は、水産学者になる夢をいだいて、水産物の調査をする役人になりました。ところが、それから3年のちには、わずかなお金をふところに入れて、太平洋を越える船に乗り込んでいました。神の前で永遠に愛しあうことをちかった妻との結婚生活に、半年でやぶれ、神にそむいた罪を背負って、アメリカへ渡ったのです。

鑑三は、4年のあいだ、はたらきながら大学や神学校でキリスト教を学び、罪をつぐなうために神の子として生きることを心に決めて、27歳で日本へ帰ってきました。

1890年、鑑三は第一高等中学校の講師になりました。でも、わずか半年でやめさせられてしまいました。

学校で、明治天皇からくだされた教育勅語をいただく式がおこなわれたときのことです。箱に入った巻物に、教師も学生も頭をさげましたが「わたしがおがむのは、ただひとつ、キリストの神だけだ」と、自分にちかっていた鑑三は、頭をさげませんでした。天皇は生きた神だとされていた時代でしたから「鑑三は国賊だ」と、ののしられ、学校を追われてしまったのです。

そのごの鑑三は、貧しさとたたかいながら、キリスト教と日本文化のむすびつきや、日本人の心について深く考え『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』などを書きつづけました。また各地での講演で、心をたいせつにする正しい人間の生き方と、自分より人を愛するキリスト教の教えを説きつづけました。

日露戦争が起こりそうになったときには「人を殺す戦争は大罪悪だ」と叫び、1904年に戦争が始まると、日本が勝つことよりも、ただひたすらに平和を祈りました。

鑑三は、勇気ある生き方を人びとに示して、昭和の初めに69歳の生涯をとじました。「人間がこの世に残すことのできる最大のものは、金や名誉ではなく、勇ましい高尚な生涯だ」。これは講演「後世への最大遺物」のなかの、鑑三のことばです。


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