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(33)

新渡戸稲造(1862ー1933)

「もし天が許せば、太平洋の橋になりたい」

新渡戸稲造は、東京大学に学んでいたころ、このように語っています。日本と外国との交わりを進めて、世界における日本の地位の向上に役だつことを、心にちかったのです。

明治時代が始まる5年まえに、盛岡藩士の家に生まれた稲造は、15歳のときに、札幌農学校(いまの北海道大学)へ入学しました。この学校をつくるために招かれていたクラーク博士が、キリスト教の精神と「少年よ大志を抱け」という言葉を残してアメリカへ去った、すぐあとのことです。同期生の内村鑑三らと洗礼を受け、クリスチャンとして生きるようになりました。

農学校を終え、さらに東京大学で勉強をつづけた稲造は、22歳のとき「太平洋の橋」になる夢を心にひめてアメリカへ渡り、経済や歴史や文学を学びました。また、そのあとつづいてドイツへも留学して、農業に関する政治や統計学を研究し、28歳で帰国すると、札幌農学校の教授にむかえられました。

「太平洋の橋」の夢をまずひとつ果たしたのは、そのご、アメリカで静養していた37歳の年の『武士道』の出版です。日本人の心や道徳についての考えを英文で伝えると、おおくの外国人に、日本への目を開かせました。

1901年、稲造は、日本の植民地となっていた台湾へ渡り、総督府の殖産技師の任につきました。そして、植民地を力で支配するのではなく、人びとに新しい文化を伝えるという大きな心で、熱帯地産業の発展に力をつくしました。稲造の心には、すべての人間への愛が、あふれていたのではないでしょうか。

やがて日本へ帰った稲造は、こんどは、京都帝国大学(京都大学)の教授にむかえられました。また44歳の年から7年間は東京帝国大学(東京大学)の教授をかねながら、第一高等学校の校長をつとめました。のちには東京女子大学の学長もつとめています。大学教育にたずさわっているあいだ、いろいろな雑誌にやさしい論文を発表して、はたらく青年や、婦人たちにも、自己の人格をみがかなければいけないことを、よびかけています。日本人のかがやかしい将来を、期待していたのでしょう。

稲造は、60歳ちかくなってから 「太平洋の橋」 の願いを、大きく果たしました。およそ7年にわたって国際連盟事務局事務次長として世界の舞台に生き、また、太平洋問題調査会の理事長として世界の平和に心をかたむけ、そのあいだに、日本の国際的な発展に命をもやしたのです。太平洋問題会議にでかけたとき、太平洋のむこうのカナダで、71歳の生涯を終えました。


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