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(33)

森鴎外(1862ー1922)

姉の安寿と弟の厨子王の美しい愛情をえがいた『山椒太夫』。自殺をはかって死にきれずにいる弟を、自分の手で安楽死させてやった喜助の罪に問題をなげかけた『高瀬舟』。このような名作をおおく残した森鴎外は、明治時代の幕が開く5年まえに、石見国(島根県)の津和野で生まれました。父は藩の医者でした。

鴎外は、5歳のころから漢学を学び、また、10歳のときに父とともに東京へでると、ドイツ語に力を入れました。そして、2歳たりない年齢をごまかして12歳で東京医学校予科(いまの東京大学医学部)へ進み、医学の道を歩み始めました。このころ、政治家を夢見たこともあったということです。

医学校を終えた鴎外は、陸軍の軍医となり、22歳の年に軍の命令でドイツへ留学しました。そして、この留学が、小説家鴎外を生みだすことになりました。衛生学の勉強をつづけるかたわら、西洋の文学、哲学、美術、演劇に親しみ、4年ごに帰国して、ドイツで交際した女性をモデルに小説『舞姫』を発表すると、近代人の苦悩をえがいた名作として人びとにたたえられたのです。また、外国の有名な詩を集めた『於母影』や、アンデルセンの小説『即興詩人』なども翻訳出版して、すぐれた文学者としての才能を、世にしめしました。

しかし、医学を捨てたのではありません。日本人の体にあった衛生学を説き、さらに、帝国大学や陸軍軍医部などが大きな権力をもってきた医学界に反対して、日本の医学の民主的な発展をとなえました。ところが、33歳で軍医学校長に任命された4年ごに、九州の小倉の師団へ行かされてしまいました。軍医部への批判が軍のじゃまになり、高い官職にありながら小説を書くことを口実にして、東京を追われたのだといわれています。

40歳で、やはり軍医としての才能を惜しまれて東京へもどりました。そして、4年ごに軍医総監の地位にのぼると、ふたたび創作を始めました。昼は、総監の仕事を十分に果たし、創作は夜おそくという日課です。やがて、若者の心の苦しみをえがいた『青年』や、学生の淡い恋心をつづった『雁』などを発表して、新しい文明にめざめた人たちを、ひきつけていきました。

そのごの鴎外は、明治天皇の死に乃木大将夫妻が殉死した事件に心を動かされて、『阿部一族』『寒山拾得』などの歴史小説や、あまり名もない『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』などの伝記を発表して、1922年に60歳で亡くなりました。54歳で陸軍をしりぞいてからは、帝室博物館長もつとめています。医学と文学に生きた、大きな生涯でした。


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