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(33)

岡倉天心(1862/63ー1913)

茶道をとおして、日本人の心や日本の文化を外国に紹介した有名な本に『茶の本』があります。岡倉天心は、この名著を著わしただけではなく、明治時代の日本の文化と文明の発展に大きな功績を残した人です。

天心は、江戸時代があと数年で終わろうとするときに、横浜に生まれ、本名を覚三といいました。天心は号です。

幼いころから英語、漢学を学び、やがて家族とともに東京へでた天心は、わずか11歳で東京外国語学校へ入学しました。そして、さらに東京開成学校から東京大学文学部へ進み、このとき、アメリカから日本へきていた哲学者フェノロサに、哲学や文学や美術を学んで、思想と知識を深めていきました。

18歳で東京大学を卒業すると文部省へ入り、音楽取調掛を2年つとめたのち、フェノロサとともに、古い神社や寺院の宝物調査をおこないました。22歳のときに、秘宝とされていた法隆寺夢殿の救世観音菩薩像を見る機会にめぐまれ、たいへん心をうたれたということです。

「東洋の美術は、世界で、もっともすばらしいものだ」

このように確信するようになった天心は、9か月ほど、アメリカやヨーロッパの美術を視察してきたのち、東京美術学校(いまの東京芸術大学)の創立にくわわり、28歳から校長として、学校の経営と学生の指導に力をつくすようになりました。

ところが、8年ごには、校長をしりぞかなければなりませんでした。天心の、自由な考えや強い個性に反対する人びとが現われ、学校を追われたのです。しかし、そのまま、日本の美術を見捨てるような天心ではありません。なおいっそう心をもやした天心は、美術学校で育てた横山大観、下村観山らをひきつれて、日本美術院をつくり、新たな美術運動を始めました。

39歳のときには、インドへ旅をして、インド独立をめざして戦う人びとに心をよせました。また、3年ごには、招きを受けてアメリカのボストン美術館の顧問をつとめ、さらにそのごも、何度も太平洋、大西洋を越えて、世界じゅうに、日本の美術のすぐれていることやアジアの解放を、となえつづけました。ニューヨークで、英文の『茶の本』を出版したのも、このころです。やはり英文で『東洋の理想』『日本の目覚め』なども著わしています。

自分の思想のために力のかぎり生きた天心は、1913年に50歳の生涯を終えました。味わい深い日本文化をたたえる思想は、いまも『茶の本』のなかに生きています。


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