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(34)

河口慧海(1866-1945)

仏教学者の河口慧海は、桶や樽を作る職人の子として大坂の堺に生まれました。本名は定次郎といいました。慧海は、24歳で出家してからの名です。父に「職人の子に学問はいらぬ」と小学校を退学させられ、そのご『釈迦一代記』を読んで心をうたれた慧海は、自分もシャカのようにきびしく生きることを誓い、仏教の世界へ近づいていったといわれています。

私塾で勉強をつづけたのち東京へでて、貧しさとたたかいながら哲学館(いまの東洋大学)に学び、卒業まえに、東京本所の五百羅漢寺の住職になりました。しかし1年ごには宗教団体に不満をいだいて、住職をしりぞいてしまいました。

「正しい経典をさがしに,チベットへ行こう」

26歳の年、慧海は、こんな決心をしました。住職をやめたのちも、一切蔵経などを読んで修行をつづけるうちに、日本の経典にはあやまりのおおいことに気づき、チベットへ行けば正しい原典を手に入れることができるのでは……と、考えたのです。

ところが、チベットは、鎖国のように国を閉じていた時代です。しかも平均4000メートルの高山と高原の上にある国です。「チベットは野蛮人の住む国だ」と信じている人びとから、旅をあきらめるように、何度も忠告されました。でも、きびしく生きようとする慧海の心は、もう変わりません。

1897年、31歳の慧海は、神戸から船に乗りました。しかし、そのままチベットへ入ったのではありません。途中、インドで1年、チベット語を学び、さらに、ヒマラヤ山中の村で、やはり1年、チベット仏教を学び、やっとチベット国境を越えたのは、日本をでてから4年めでした。このとき慧海は、身なりも言葉も、すっかりチベット人になりきっていたということです。

チベット人になりすました慧海は、ラサ大学に学び、法王にも会うことができました。ところが、2年ごにはチベットを命からがら脱出しなければなりませんでした。日本人であることを見やぶられそうになったのです。慧海は、目的を十分に果たさないまま、1903年に、日本へ帰ってきました。

慧海は、つぎの年、ふたたびチベットへむかい、こんどは11年ごにおおくの経典やチベット民族の資料を持ち帰って、ついに、大きな夢をなしとげました。

そのごの慧海が、79歳で亡くなるまでに、たくさんの仏教の本を著わし、正しい仏教の普及に大きな業績をのこしたことはとうぜんです。しかし、仏教学者としての功績いじょうに、勇気あるチベット探検の成功が、いまも高くたたえられています。


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