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黒田清輝(1866-1924)

黒田清輝は、明治、大正時代に生きた洋画家です。1866年に薩摩藩(鹿児島)の身分の高い家に生まれ、幼くして、おじの子爵、黒田清綱の養子となると、少年時代を東京ですごしました。

清輝は、小学生のころから、絵をかくことにすぐれていました。でも、早くから画家をめざしたのではありません。

1887年に、21歳でフランスへ留学したときは、政治、法律を学ぶことが、大きな目的でした。

パリの学校で学んでいたときのこと。ある日、やはり日本からきていた画家の藤雅三に、通訳をたのまれました。相手の人はパリでも名高い画家のラファエル・コランでした。すると、コランの絵に、すっかり心をうばわれてしまいました。

清輝は、法律などの勉強のかたわら、コランのアトリエへかよって、絵を習い始めました。そして、しばらくすると、ほかの勉強はうちすてて、絵ひとすじにうちこむようになりました。少年時代にみせた絵の才能が、コランの光をうけて花開き、画家の道へ足をふみ入れていったのです。

清輝は、およそ2年、コランのもとで学んだのち、パリのはずれのグレー村で、人物画や風景画にとりくみつづけました。そして、本を読みふける娘をえがいた『読書』が展覧会に入選すると、わずか数年で、新しい画家としてみとめられました。

1893年、27歳で日本へ帰ってきた清輝は、日本洋画家たちをあっとおどろかせ、たちまち、人気画家のひとりになりました。そのころの日本の洋画は、黒や茶色などをおおく使った暗い絵の時代でしたが、清輝がパリでえがいてきた絵は、どれも、日本の画家にはとても想像できないほど、明るい色彩につつまれていたからです。帰国ごも『舞妓』『夏木立』などの作品を次つぎにえがき、青などの明るい色をおおく用いたことから、「むらさき派」とよばれて、とくに若い画家たちに広くしたわれました。

1896年、東京美術学校(いまの東京芸術大学)に初めて洋画科ができると、いちはやく教授にむかえられました。また、同じ年に、パリ時代に知りあった画家たちを中心に白馬会をつくり、青木繁などのすぐれた画家を育てていきました。清輝の代表作のひとつとされている『湖畔』は、この白馬会の展覧会に出品して人びとの注目を集めたものです。

そのごの清輝は、文部省美術展覧会(文展)の審査委員、帝国美術院の第2代院長などをつとめ、1924年に世を去りました。日本の洋画の発展に大きな功績を残した、58歳の生涯でした。


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