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(34)

尾崎紅葉(1867/68-1903)と
 幸田露伴(1867-1947)

尾崎紅葉と幸田露伴は、ともに、東京と名が改められる直前の江戸に生まれ、文明開化の波がうちよせる明治時代に活躍した小説家です。

角彫師を父に成長した紅葉は、中学時代からすでに漢詩を作り、大学予備門(のちの第一高等学校)2年のときには、友人の山田美妙らと『硯友社』を結成して、わずか17歳で文学活動を始めました。また、同時に機関誌『我楽多文庫』を創刊して、小説や詩や紀行文なども書き始めました。

21歳で、帝国大学(東京大学)へ進みました。しかし1年ごには、学生のまま読売新聞社へ入社しています。『二人比丘尼色懺悔』などの作品で、すでに小説家としてみとめられたのです。そして、明治の風俗を美しくえがいた『三人妻』や、話し言葉と書き言葉をひとつにして、親しみやすい文章でつづった『二人女房』などを新聞に連載すると、紅葉の名は、たちまち北から南まで広まりました。でも、もっとも人気を集めたのは、長編小説『多情多恨』を書いたあと、6年にわたって新聞紙上をかざり、最後は紅葉の死で未完に終わった『金色夜叉』です。

金の力が強いか、愛情の力が強いか……。金と愛をからませて人生をえがいた『金色夜叉』は、日本じゅうをわかせ、のちに、芝居や映画でも演じられるようになりました。

いっぽう、小説家露伴の名が世にでたのは、雑誌『都の花』に『露団々』を発表した、22歳のときです。幕府にお坊主としてつかえてきた父のもとで育った露伴は、17歳のとき、電信技手として北海道へ行ったこともありました。しかし、学校へは満足に行けなくても、おおくの本をむさぼり読むうちに文学に心をうばわれ、小説の筆をとり始めたのです。

『露団々』につづいて、彫刻師の悲しい恋の苦悩をえがいた『風流仏』や、自分を芸術家へひきあげていく刀工の強い意志をえがいた『一口剣』などを書き、さらに『ひげ男』を読売新聞に連載すると、紅葉とともに「紅露時代だ」などとたたえられるようになりました。

露伴の最高の傑作『五重塔』を発表したのは、44歳のときです。五重塔の建立に命をかける、ふたりの大工の情熱と争いと友情が、明治文学のなかでも最高といわれるほどの名文でえがきあげられ、心をうたれない読者はいませんでした。

露伴が亡くなったのは、それから36年ごです。小説『天うつ浪』のほか、歴史に目をむけた史伝や、西鶴や芭蕉などの古典の研究にも、すぐれたものをおおく残しました。


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