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(34)

国木田独歩(1871-1908)

自然文学の名作『武蔵野』を書いた国木田独歩は、明治時代の幕が開いてまもなく千葉県の銚子で生まれました。少年時代のおおくは、裁判所書記官だった父の転勤で、山口、広島、岩国など山陽の各地ですごしました。

小学生のころは、いたずらっ子でした。けんかのとき爪でひっかくので「ガリ亀」という、あだ名がついていました。本名が亀吉だったからです。でも、学校の成績はよく、将来は、大臣か将軍になって、名を世に残すことを考えていました。

17歳で東京へでて、東京専門学校(いまの早稲田大学)へ入学しました。しかし、学校を改革するストライキに参加して4年めに退学、山口へ帰って小さな塾を開きました。文学に強くひかれるようになったのは、このころです。1年のちに、弟の収ニとともにふたたび東京へのぼったときには、イギリスの詩人ワーズワースの詩集を読みふけり、文学の道へ進むことをひそかに心に決めていました。

しかし、文学を学ぶためには、まず、自分の生活をきりひらかなければなりません。独歩は、1年ほど大分県で英語の教師をつとめたのち、東京へもどって国民新聞社へ入社しました。

独歩が新聞社へ入る1か月ほどまえに、中国との戦いが起こっていました。日清戦争です。独歩は、従軍記者として軍艦に乗り込みました。そして、弟への手紙の形で書きつづった『愛弟通信』を新聞に連載して、文の美しさで名をあげました。

軍艦を1年でおりると、新聞記者もしりぞいて作家生活を始めました。ところが、悲しい事件が待ち受けていました。ふと知りあった女性とはげしい恋におちいり、女性の親の反対をおしきって、やっとむすばれたと思うと、わずか半年で愛する妻に失そうされてしまったのです。愛にやぶれた独歩はうちひしがれ、内村鑑三になやみをうちあけて、アメリカへ渡ることさえ考えました。このとき独歩は25歳、鑑三は35歳でした。

そのごの独歩は、どのように歳月をへても変わらない自然を愛し、限られた歳月のなかで生きる人間のはかなさを見つめ、『源叔父』『武蔵野』『牛肉と馬鈴薯』『空知川の岸部』などのすぐれた作品を、ひとつひとつ書き残していきました。

書いても書いても原稿が売れず、出版社を起こすことや、いっそ文学者をあきらめて政治家になることを考えたこともありましたが、けっきょくは、ありのままの人間を語る自然主義文学の道を進み、1908年に36歳の若さで世を去りました。独歩は、だれにでも語りかける、心やさしい小説家でした。


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