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(34)

幸徳秋水(1871-1911)

「資本家だけが自由で豊かな生活を楽しみ、はたらく人びとは不自由で貧しい生活に苦しむ世の中のしくみは、まちがっている。人間は、みんな平等でなければいけない」

明治時代の中ごろから、このように考える社会主義が起こりました。1871年に高知県で生まれた幸徳秋水は、この考えを、日本で初めてとなえた社会主義者のひとりです。

秋水が10歳になった年に、民主主義の政治を求めて自由民権運動を進めてきた、高知県出身の板垣退助が、自由党を結成しました。秋水は、この退助を子どもながらに尊敬するようになり、しだいに、政治に心をひかれる少年に育っていきました。

16歳のとき、わずかなお金をふところに入れて、家をとびだしました。そして、いちど東京へでたのち大阪までもどり、退助とともに自由民権をとなえてきた中江兆民の書生になりました。早く父を亡くしていた秋水は、政治や漢学の教えを受けながら、兆民を父のように慕ったということです。

1898年、27歳になった秋水は、社会主義を主張する万朝報社へ入り、東京で新聞記者として活動を始めました。また、結成されたばかりの社会主義研究会にも加わり「われは社会主義者なり」と名のって、権力に矢を向けた記事を書きつづけました。

1901年には、同じ考えの人びとといっしょに、社会民主党をつくりました。日本で初めての社会主義の政党でした。しかし、このときの伊藤博文内閣の力で、その日のうちにつぶされてしまいました。秋水は、横暴な国家権力に歯ぎしりしました。でも、ぜったいにくじけませんでした。

やがて、日本が日露戦争へ向かって歩み始めると、万朝報で勇かんに戦争反対をさけび、さらに、万朝報社の社長が国の勢いに負けて戦争さんせいをとなえると、こんどは自分たちで平民新聞を発行して、あくまでも戦争反対を訴えつづけました。

ところが、およそ1年で、平民新聞は発行禁止を命じられたうえに、秋水はついにとらえられ、5か月のあいだ刑務所に入れられてしまいました。しかし秋水は、まだ屈せず、刑務所をでるとアメリカへ渡り、半年ごに帰国してからは、さらにするどく、すべての国家権力に反対する無政府主義をとなえるようになりました。でも、これが命とりになってしまいました。

1910年、なかまと天皇暗殺の計画をたてていたという理由で、ふたたびとらえられ、つぎの年、絞首台に送られてしまったのです。歴史に残る大逆事件です。いまでは、このとき秋水は無実だったのだろうといわれています。


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