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(34)

島崎藤村(1872-1943)

島崎藤村は、明治の初めに、むかしの中山道(木曾街道)にそった長野県馬籠村に生まれました。生家は、長く、村をとりしきる庄屋や、大名がとまる本陣などをつとめてきた、歴史のある家でした。しかし、藤村が生まれたころには、消えていく古い時代とともに、家もしだいにおちぶれ始めていました。

藤村は、9歳のときに、兄といっしょに馬籠をはなれて、東京へでました。そして、しばらく姉のもとに住んだのちは、見知らぬ実業家の家へあずけられ、気づまりな思いをしながら、少年時代をおくるようになりました。小学校の卒業が近くなったころ、ナポレオンの伝記を読んで心をうたれ、自分も政治家になる夢をいだいたということです。

ところが、15歳で明治学院へ入学して、キリスト教や西洋の新しい思想にふれ、さらに、なかまと文学や宗教を語りあうようになってからは、政治家へのあこがれなどはすてて、人間の心を見つめる孤独な人間へとかわっていきました。やがて、小説、詩、古典を読みふけるうちに、自分の進む道は文学だと心に決めたのは、19歳のころだったといわれます。

明治学院を卒業した藤村は、明治女学校の教師をつとめるかたわら、文芸雑誌『文学界』の創刊にくわわり、その創刊号に戯曲や詩を発表して、長い文学生活の第一歩をふみだしました。

まず、名を高めたのは、詩人としての藤村です。女学校の教え子との悲しい恋や、文学の友、北村透谷の自殺などに苦しんだ藤村は、東北学院の教師となって仙台へのがれ、1年ごに、初めての詩集『若菜集』を世に送ったのです。そして、27歳のときに長野県へ移り、小諸塾の教師として生活をたてながら、2年ごに『落梅集』を発表すると、日本の近代詩の誕生に灯をともした詩人として、たたえられるようになりました。

1905年、33歳の藤村は、東京へとびだしました。詩をとおして自然や青春や人生の美しさ悲しさを見つめることから、さらに進んで、小説家として、自分や社会と強くたたかっていくことを決心したのだといわれています。このとき小諸をはなれる藤村の手には、差別される人間の苦悩をえがいた名作『破戒』の、書きかけの原稿が、しっかりにぎられていました。

そのごの藤村は、小説家の地位をきずいた『破戒』につづいて『春』『家』『新生』『夜明け前』などを書きつづけ、人間と社会のすがたをありのままにえがく自然主義文学を、かがやかしくきずいていきました。藤村が世を去ったのは、日本が戦争に負ける2年まえです。自分にきびしい芸術家でした。


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