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美濃部達吉(1873-1948)

憲法学者の美濃部達吉は、明治時代の初めに兵庫県高砂市に生まれました。父は医者でしたが、医業だけでは生活できず、町の子どもたちに、習字や漢学を教えていました。

達吉は、幼いころから神童とよばれるほどの才能にめぐまれ、故郷の小、中学校を終えると東京へでて、第一高等中学校予科に学んだのち東京帝国大学(東京大学)へ入学しました。

大学では、憲法をはじめ国の法律について深く学び、将来は学者の道をこころざしました。しかし、大学を卒業すると内務省へつとめました。家の暮らしが豊かではなかったからです。

学問をすてきれない達吉には、役人の生活はどうしてもなじめませんでした。ところが、役人になって1年ごに、夢が開けました。恩師に、大学で法政史を教える教授の候補に推せんされ、役人をやめて大学院で学ぶことになったのです。

ふたたび研究生活に入った達吉は、助教授になった26歳の年にヨーロッパへ渡り、進んだ国の憲法や法律を学びました。そして、3年ごに帰国すると、29歳で教授にむかえられました。

憲法学者の道を歩み始めた達吉は、次つぎに、憲法についての論文を発表し、本を著わしました。そのなかで、社会にもっとも大きな問題をなげかけたのが「天皇機関説」です。

「国の政治は、議会を中心に、政党によっておこなわれることが正しい。国をおさめる権力をもっているのは、天皇ではなく国家でなければならない。天皇は、国家のひとつの機関である」

達吉がとなえたのは、このようなことです。天皇をないがしろにしたのではありません。日本における天皇の流れは尊重しながら、自由主義、民主主義を守っていくためには、天皇が自分勝手な権力をふるうようになってはいけないと、考えたのです。

この「天皇機関説」は、社会に民主主義の考えがあふれた大正時代には、学者にも政治家にも高くみとめられました。ところが、昭和に入って、日本が大陸への侵略を始めると、軍部に反対されるようになりました。国民を戦争にかりたてるためには、天皇の絶対的な権力が必要だったからです。

達吉は、国会で「反逆者だ」とののしられても、けっして自分の考えをかえませんでした。しかし、軍の力には勝てません。やがて、1932年からつとめていた貴族院議員も、いくつもの大学の講師も、やめさせられてしまいました。また『日本憲法の基本主義』などの本も、発売禁止にされてしまいました。

そのごの日本は戦争へ突っ走り、達吉は敗戦ご3年めに75歳で亡くなりました。自由主義のために戦った強い生涯でした。


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