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(34)

鈴木梅太郎(1874-1943)

ビタミンB1が不足して体の先のほうの神経がおかされ、足がしびれたり、むくんだりする脚気。医学が進んだいまではなんでもない病気ですが、江戸時代にはこの脚気でおおくの死者をだし、明治に入ってもまだ、原因不明のおそろしい病気でした。

鈴木梅太郎は、ビタミンB1が脚気の治療に効果があることをつきとめ、脚気の不安から人びとを救った化学者です。

静岡県の農家に生まれ、幼いときから勉強がすきだった梅太郎は、14歳のとき、こっそり家をでて東京へ行きました。そして、つぎの年には、両親や兄を説きふせて東京農林学校(1890年から東京帝国大学農科大学)へ進み、栄養学を学びました。

「植物は、土と空気から養分を吸うだけだ。それなのにどうして、その植物から、さとう、でんぷん、たんぱく質などが、とれるようになるのだろうか」

梅太郎が農林学校で学ぶ決心をしたのは、こんなことに興味をいだいたからだといわれています。

22歳で大学を終えた梅太郎は、5年ごにヨーロッパへ渡り、ドイツではベルリン大学の化学者フィッシャーのもとで、たんぱく質の研究をつづけました。そして、32歳で帰国すると、東京帝国大学の教授などをつとめながら、米の研究を始めました。

留学中に「西洋人にくらべて、日本人は、どうして体格が悪いのだろう」と考え、さらにドイツを去るとき、フィッシャーに「日本人なら、日本人のための研究をしてみなさい」といわれ、日本人の主食について研究することを、思いたったのです。

ところが、米の栄養について調べていくうちに、白米を食べる人に脚気がおおいことをつきとめました。

「玄米を食べる人には脚気は少ない。これは、白米にするときに、脚気を予防する成分を、とりのぞいてしまうからだろう」

このように考えた梅太郎は、精米のときにとりのぞく、ぬか、胚芽(芽がでるところ)の研究にとりくみ、36歳のときに、ぬかから、のちにオリザニンと名づけられた成分をとりだすことに、成功しました。

しかし、脚気は伝染病だと思われていた時代でしたから、梅太郎が「この成分の不足が脚気になるのだ」ととなえても、だれも信用しません。人びとが、梅太郎の研究に注目するようになったのは、1年ごにイギリスで、オリザニンと同じ成分の、ビタミンの研究が発表されてからのちのことでした。

55歳のときビタミンB1の結晶化にも成功した梅太郎は、1942年に文化勲章を受け、その半年ごに69歳で亡くなりました。


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