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(35)

寺田寅彦(1878-1935)

すぐれた物理学者であるばかりでなく、随筆家としても名高い寺田寅彦は、西南戦争が起こった次の年に、陸軍につとめる会計官の子として東京で生まれました。でも父が何度も転勤したので、少年時代は、ほとんど、父の郷里の高知で育ちました。
 
小学生のころは、虫とりと、顕微鏡をのぞくことと、読書がすきでした。学校の授業は、からだが弱かったので体育がにがてでした。それに、算数もきらいでした。夏休みに、両親のいいつけで算数を習いに行くことになったときは、べそをかいていたということです。

中学校の入学試験には、いちど失敗してしまいました。そして、ぶじに入学してからも、勉強にはあまりむちゅうにならず、ますます本を読みふけるかたわら、外国からつたわってきたばかりの野球などを楽しみました。

18歳で高知に別れをつげて熊本第五高等学校へ進み、3年ごには、東京帝国大学へ入学しました。

寅彦が物理学者になる決心をしたのは、高等学校で田丸卓郎教授の教えを受けて、物理学と数学のおもしろさを知ってからのことです。寅彦は先生にめぐまれました。高校時代に夏目漱石に出会ったこともそうです。漱石からは英語をおそわっただけではなく、俳句を習い、文学の話を聞いて人間を深めました。

寅彦は、そのご生涯、漱石を先生とあおぎました。のちに、吉村冬彦、藪柑子などの名で名随筆を書くようになったのは、青春時代に、大文学者漱石にめぐり会えたからです。

大学でも、田中館愛橘、長岡半太郎など、日本の科学をきり開いた物理学者の指導を受けることができた寅彦は、大学院を卒業するとそのまま東京帝国大学へ残って、講師から助教授、教授へと進みました。また、水産講習所で海洋学を教えたほか、航空研究所、理化学研究所、地震研究所などにも研究室をおいて、はばの広い研究活動をつづけました。

寅彦は、大きな発明や発見を追いかける物理学者ではありませんでした。おもに、実験してものをたしかめる実験物理学に力をそそぎ、研究は地味でした。しかし、その独特な研究のしかたで、おおくの学者や研究者を育て、日本の物理学の発展に大きな功績を残しました。

いっぽう『冬彦集』『藪柑子集』『万華鏡』などの随筆集も、数おおく残しました。真実を求める科学者の目で、自然、社会、人間を見つめた随筆は、名作小説もおよばない光を放ち、いまも、寅彦随筆集として広く読みつがれています。


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