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(35)

吉田茂(1878-1967)

日本は、太平洋戦争に敗れた1945年をさかいに、それまでの軍国主義を捨て、民主主義国家をめざして歩みはじめました。

吉田茂は、このとき、およそ8年のあいだに5度も内閣の首相をつとめ、新しい日本のスタートに力をつくした政治家です。

1878年に、高知県出身の政治家竹内綱の5男として生まれ、幼いうちに横浜の吉田家の養子となった茂は、学習院に学んで東京帝国大学へ進み、28歳で大学を卒業すると外務省へ入りました。そして、そのご約30年は、ひたすら、外交官として活躍をつづけました。

茂が50歳をすぎたころから、日本は、中国や東南アジアへの侵略を考え始めました。しかし、イタリア大使、イギリス大使などをけいけんして外国の事情に明るかった茂は、日本が戦争への道を進むことには反対でした。戦争が始まってからも和平をとなえ、そのため憲兵隊にとらえられたこともありました。

戦争が終わったつぎの年の1946年に、吉田茂内閣が生まれました。その年の総選挙で日本自由党が政権をにぎると、それまで平和外交の信念をつらぬきとおしてきたことが、おおくの人にみとめられて、党の総裁に迎えられたのです。

終戦後の日本の政治は、アメリカなどの占領軍の考えにそって進めなければなりませんでした。戦争に負けたからです。茂は、荒れ果てた日本を見わたして、第一歩をふみだしました。

まず、第九条に「日本国民の戦争放棄」をうたいあげた、新しい日本国憲法を制定しました。また、真理と平和を愛する国民を育てるための教育基本法を定め、中学校までを義務教育にする六・三・三・四制の教育制度を発足させました。

いっぽう、それまでの地主制をあらためる農地改革法によって、貧しい農民でも土地がもてるようにしたほか、労働基準法を定めて、労働者の権利が守られるようにしました。

歴史に大きく残っているのは、サンフランシスコにおける対日講和条約の調印です。1951年9月、日本の代表として講和会議にのぞんだ茂は、アメリカをはじめ48か国と平和条約をむすび、日本を、ほんとうの独立国家として出発させました。

吉田内閣は、いちじは、労働運動や共産主義に弾圧をくわえるなど、民主主義にそむくこともおこないました。また、アメリカと安全保障条約をむすび、やがて自衛隊をつくるなど、そのごに大きな問題を残した政治も進めました。しかし、そのような政治への批判はあっても、日本を敗戦から復興へみちびいた功績によって、信念ある政治家としてたたえられています。


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