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(35)

河上肇(1879-1946)

明治時代の中ごろ、栃木県の足尾銅山の毒が渡良瀬川に流れて、おおくの人が死亡したり失明したりする事件が起こり、その被害者を救うための演説会が東京で開かれたときのことです。

「わたしは、お金を持っていません。これを、きのどくな方へ」

ひとりの大学生が、自分の着ていたものをぬいで、会の人へさしだしました。そして、さらに翌日には、身につけていた以外の衣類をまとめて、会へ送りとどけました。やがて、ふとしたことから、その大学生の名まえがわかりました。東京帝国大学で政治や経済学を学ぶ、22歳の河上肇でした。

肇は、山口県の岩国で生まれました。

少年時代は、医者か文学者になる夢をいだいていました。ところが、吉田松陰を深く尊敬していた肇は、しだいに、広く国の政治について考えるようになり、大学では政治学科へ進みました。足尾銅山鉱毒事件の被害者へ衣類をさしだしたとき、肇の心には、きっと、めぐまれない人びとのために力をつくそうという気持ちが、芽生え始めていたにちがいありません。

「世の中の貧しい人びとを救うには、どうしたらよいのか」

大学を卒業して6年後、京都帝国大学で経済学を教えるようになった肇は、貧しい人をなくすための経済のしくみについて、研究をつづけました。ヨーロッパへ留学して外国の社会主義を学んでくると、マルクス主義の研究も深めました。

1916年、大阪朝日新聞に『貧乏物語』を連載して、大ひょうばんになりました。

「貧乏人は、どれくらいいるのか。なぜ貧乏があるのか。どうしたら貧乏がなくなるか」

こんなことをまじめに世に訴えた学者は、肇のほかには、だれもいなかったからです。肇は、新聞の連載をまとめた『貧乏物語』のほか、次つぎに経済学の本を出版して、45歳をすぎたころには、日本におけるマルクス主義経済学をうちたてました。

49歳で大学をしりぞき、やがて共産党へ入って、じっさいに自分のからだで社会主義運動を始めました。

ところが、53歳のときに、共産党をとりしまる国の力でとらえられ、5年のあいだ、牢獄ですごさねばなりませんでした。このとき検事から、共産主義の考えを改めれば刑をゆるすと、なんどもいわれました。でも、肇は、自分の信念をかえようとはしませんでした。

肇は、1946年に栄養失調で亡くなりました。それは、戦争にやぶれた日本が、民主主義国家として歩み始めた年でした。


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