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(35)

滝廉太郎(1879-1903)

「あっ、オルガンがある!」

だれもいない音楽室をのぞいた廉太郎は、思わずさけびました。明治時代の中ごろでは、オルガンはめずらしい楽器だったからです。

廉太郎は、すいつけられるように音楽室へ入って、そっと、オルガンに手をのばしました。するとそのとき、先生が現われました。廉太郎は、いそいで手をひっこめました。きっと、しかられると思ったからです。ところが、先生は、自分で曲をひいてみせると、廉太郎に「さあ、やってみろ」と、いってくれました。先生のやさしいことばに、廉太郎は、オルガンにとびつきました。そして、5、6回くり返すうちには、さっきの先生の曲を、じょうずに、ひけるようになってしまいました。

おどろいたのは先生です。やがて、先生の教えをうけた廉太郎は、学校の式では先生のかわりに『ほたるの光』などを、ひくようになりました。

これは、役人の子として東京で生まれた滝廉太郎が、10歳のころ、父の転勤にともなって大分県へひっこし、竹田高等小学校へ編入学したときの話です。家に、バイオリンやアコーデオンがあり、自分でもハーモニカや尺八が吹けた廉太郎は、幼いころから、音楽にしたしんで育ちました。

15歳の年、廉太郎は、わが子を音楽の道へ進ませることには反対だった父を説きふせて、東京の、高等師範付属音楽学校へ入学しました。むずかしい試験を突破した合格者のなかで、いちばん年下でした。しかも、このとき入学した30数人のうち4年ごにいっしょに卒業できたのは、わずか7人でしたから、廉太郎の才能がどんなにすぐれていたかがわかります。

廉太郎は、卒業ご、さらに音楽学校の研究科へ進み、自分は作曲を学びながら、学生たちにピアノを教え始めました。文部省が募集した中学唱歌に、廉太郎が応募した『荒城の月』『箱根八里』『豊太閤』の3曲全部が入選したのも、このころです。

「日本の曲と、日本の詩が美しくとけあった歌を……」

廉太郎は、そのころ外国の曲に日本の詩をつけた歌が流行し始めていたなかで、西洋音楽のすぐれたところはとり入れながら、日本人の心に訴えかける日本の歌を求めたのです。

ところが、22歳でドイツへ留学した廉太郎は、その異国の地で結核にたおれ、つぎの年に帰国すると、あっけなく、短い生涯を終えてしまいました。歌曲、ピアノ曲のほか『鳩ぽっぽ』『お正月』などの童謡も残して、人びとに惜しまれながら……。


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