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(35)

小山内薫(1881−1928)

1923年の関東大震災で、東京は焼け野原になりましたが、次の年、その東京の築地に、わが国で初めての、新劇専門の築地小劇場が誕生しました。小山内薫は、この劇場を演出家の土方与志と力をあわせて建て、日本の新劇運動の発展に力をつくした劇作家です。

広島で軍医の家に生まれ、東京帝国大学へ進んだ薫は、学生時代から小説、戯曲、劇の評論などを書き、早くから、たくさんの演劇人とまじわりを深めていきました。そして、大学を終えると、まもなく歌舞伎役者の2世市川左団次と手をむすんで劇団「自由劇場」をつくり、新しい演劇運動にのりだしました。

明治時代の終わりのころの演劇には、歌舞伎と新派劇のふたつがありました。新派劇は、歌舞伎にくらべると新しいものでしたが、それでも役者には歌舞伎役者を使うなど、歌舞伎のえいきょうの強いものでした。

自由劇場の第1回の公演で、ノルウェーの劇作家イプセンの劇を上演した薫は、歌舞伎でも新派劇でもない、もっと人間のありのままの心を表現する自由な演劇を生みだすことを、夢にえがいたのです。「自由劇場」は、そのご、ゴーリキーやチェーホフなどロシアの作家が書いたものや、日本の新しい劇の上演を続け、いっぽう薫は、ロシア、ドイツ、イギリスなどをたずねて外国の新しい演劇を学びました。しかし、劇場は、新劇の役者が育たなかったことや、上演の資金にゆきづまったことなどから、およそ10年で幕をおろさねばなりませんでした。

「新劇のための演劇学校がほしい」このように考えていた薫は、築地小劇場をつくると、ふたたび立ちあがりました。

築地小劇場は、500人ほどの人しか入れない、文字どおりの小さな劇場でしたが、薫は、これを「演劇の実験室」と呼び、東洋の演劇と西洋の演劇をとけあわせて日本の新しい劇を育てていくことに、いどみました。

ところが、初めの数年間は、外国のほん訳ばかりを上演したため、日本の劇作家や小説家たちから「日本の劇をばかにしている」と、ののしられました。やがては日本の劇も上演するようになりましたが、日本の新劇が芽をだし始めたばかりの時代では、ほん訳劇が中心になるのはしかたのないことでした。

薫は、西洋の劇をみごとに演出してみせることによっても、日本の演劇会に大きなえいきょうをあたえ、また、おおくの名俳優も育てて、47歳で亡くなりました。薫は、いまも、日本の新劇の父とたたえられています。


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