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(35)

斎藤茂吉(1882-1953)

斎藤茂吉のはじめての歌集『赤光』が一躍有名になったのは、「母の死」 をせつせつと歌った一連の作品が、人びとの心に深い感動を与えたからです。「みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる」「死に近き母に添寝のしんしんと遠田の蛙天に聞ゆる」「我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ」。

山形県の蔵王山のふもとに、農民の子として生まれ育った茂吉は、子どものころには「絵かきか坊さんになりたい。それがだめなら農民になる」と口ぐせのように言っていました。少年のその夢がまったく違った方向に動き出したのは、茂吉が14歳のときでした。東京の開成中学に入学し、斎藤紀一という医者の世話になることになったからです。一高、東京帝国大学(いまの東京大学)へと進んだ茂吉は、斎藤紀一の信頼を受け、斎藤家の養子になりました。養父の病院を継ぐという大きな役めをせおってしまいました。無口で努力家の茂吉は、なかば周囲の人によって決められてしまった自分の進路に反対することもなく、もくもくと勉強に力を注ぎました。そして医師の試験にみごとにパスし、若くして精神科の医者になりました。ドイツ、オーストラリアの留学から帰ってのち、44歳で養父の青山脳病院のあとを継ぎ、62歳までの18年間、院長をつとめました。

医学の勉強のかたわら、茂吉が短歌をつくりはじめたのは一高のころです。正岡子規の『竹の里歌』という歌集にたいへん心動かされ、それから子規のまねをして歌をつくるようになりました。子規のでしの伊藤左千夫の門にはいったころから茂吉の歌は注目されるようになり、「馬酔木」「アララギ」という同人雑誌にさかんに歌を発表しました。『赤光』は、そのころの歌を集めた第1歌集です。そのご『あらたま』『つゆじも』など、一生のあいだに17もの歌集を出しました。そのほか、歌論、評論、随筆、古典研究など多方面にわたって活躍しています。

茂吉は、『短歌写生の説』という本のなかで「生」を写すことが歌だといっています。自然のいとなみ、人間のいとなみ、その生きたすがたを歌ってこそ真の短歌であると説いたのです。一生の大半を東京で過ごしましたが、茂吉のなかには山形農民の土のにおいがあり、それが茂吉の歌にたえず生命を吹き込むもととなっていました。

どくとるマンボウの名で親しまれている作家の北杜夫は、茂吉の次男で、青山脳病院をモデルにして『楡家の人びと』という小説を書いています。


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