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(35)

高村光太郎(1883-1956)

東京の上野公園の入り口に、西郷隆盛の銅像がたっています。

犬をつれた西郷さんは、左腰に刀をつけ、大きなおなかをつき出して、かっと両眼を見開いています。

あるとき、ひとりの青年がこの銅像を見上げて言いました。

「ふん、なんてぐれつなんだ。魂のぬけがらだ。人形にすぎん」

青年の名は高村光太郎。この銅像を造った彫刻家高村光雲の長男です。3年間の留学生活を終えて日本に帰ってきたばかりでした。ヨーロッパのダイナミックな芸術や文化から受けたショックがあまりにも大きく、日本で目にするものすべてに絶望していました。父の作品にきびしい目を向けたばかりではなく日本の美術について、かたっぱしから批難しました。

「日本の芸術には個性がない、主張がない。こぢんまりとまとまっているばかりで、そこに熱い血が流れていないんだ……」

フランスで光太郎をとらえたのは、美術作品ばかりではありません。ベルレーヌやボードレールの詩に、日本の文学青年はすっかりとりこにされてしまったのです。

帰国すると光太郎はさかんに詩を書き出し、スバルというグループを結成しました。森鴎外、吉井勇、北原白秋などもいっしょで 「常識や古い習慣をうち破り、自分の考えを大切にした芸術を生み出そう!」 と意気ごみました。

新しい考え方は、いつも古いしきたりのなかでは白い目で見られがちです。スバルは、まるで不良グループのように思われました。そうしたきままなやりかたを「デカダン」とよんで、一部の人びとはきらいました。

光太郎は、のちに妻とした智恵子と出会ったころから 「デカダン」 から遠のき、すっかり変わってしまいました。彫刻に専念し詩作にふけり、智恵子を通して、生きる喜びを歌うようになっていったのです。智恵子は画家をめざしていました。同じ方向にむかってたがいに助けあうふたりには、貧しくとも満ちたりた生活がありました。

しかし、結婚して17年め、智恵子は精神病にかかり、7年間病気とたたかいながら、ついにかえらぬ人となってしまいます。

智恵子を歌った歌は『智恵子抄』として出版され、おおくの人に感銘を与えました。

智恵子の死後、74歳までの孤独な生活の中で、光太郎は彫刻家としての仕事はあまりしていません。

晩年、十和田湖畔の『乙女の像』を造りました。湖畔に立つ女性像は智恵子によく似ていると評判になりました。


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