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(35)

志賀直哉(1883-1971)と
 武者小路実篤(1885-1976)

1910年(明治43年)、学習院高等科出身の文学グループを中心にして『白樺』という文芸雑誌が創刊されました。その中心になったのが志賀直哉と武者小路実篤です。ふたりともまだ東京帝国大学の学生でした。どちらも、名門の家がらで経済的には恵まれていましたが、直哉は12歳のときに母を失い、実篤は、わずか3歳で父と死別しています。

直哉は、新しい母がとても気に入り、生母の死の悲しみからすぐに立ち直ることができました。しかし、10代のおわりころに、いくつかのできごとが重なって父と激しく衝突し、対立は16年もつづきました。父とのあいだに和平がもどったとき、直哉は34歳になっていました。1917年に発表された『和解』という小説にそのようすがくわしく描かれています。

『小僧の神様』をはじめ『城の崎にて』『灰色の月』など、志賀直哉は短編をおおく書いた作家ですが『暗夜行路』は、16年という歳月をかけて仕上げた長編の自伝的小説です。作者自身 「生命を打ちこんで書いた」 といっている作品だけに、大正、昭和を通じておおくの人びとに強い影響を与えました。

武者小路実篤は直哉よりふたつ年下ですが、直哉が学習院の中等科で2度落第したため同級になり、しだいに親交を深めていきました。

実篤は若いときにトルストイに夢中になり、かたかなのトという文字を見ただけで興奮してしまうというほれこみようでした。「からだを使って労働するのは人間の義務である」というトルストイの主張は、食べるに困らない子しゃくの家に生まれた実篤に大きなショックを与えました。みんながみんなのためにはたらくというトルストイの思想を旗じるしにして、実篤は、36歳のときに、理想郷「新しき村」を創設します。

宮崎県の山中に同志が集まり、農作業や芸術創造に打ちこむ生活は、当時の人びとの注目を集めました。ここで『幸福者』『友情』などの代表作が世に出ました。しかし、はじめに予測したほど順調な進展をみせず、実篤は7年あまりの努力ののち、同志を九州に残したまま村を離れ、いったん奈良に落ちついて文筆生活に専念します。村はのちに埼玉県に移されました。

求道的ともいえる精神で幸福を追いつづける姿勢は、実篤も直哉も同じでした。

自然主義文学がいきづまりつつあるときに、直哉と実篤は、文壇の天窓を開け放ってさわやかな空気を入れたといわれています。


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