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(35)

山本五十六(1884-1943)と
 東条英機(1884-1948)

第2次世界大戦のうち、日本がアジアに進出して、アメリカ、イギリス、中国などの連合国と戦った戦争を、とくに太平洋戦争とよびます。山本五十六、東条英機は、日本が、この太平洋戦争を進めたときの海軍大将と陸軍大将です。

1884年に新潟県で生まれ、海軍兵学校、海軍大学校を卒業して55歳で連合国艦隊司令長官になった五十六は、日本がアメリカと戦うことには反対でした。

2度もアメリカの日本大使館につとめたことがあった五十六には、アメリカの力の大きさがわかっていたからです。1940年に、日本がドイツ、イタリアと軍事同盟をむすぶことになったときも「それではアメリカ、イギリスを敵にまわすことになってしまう」と言って反対しました。

しかし、1941年12月、日本はついに戦争の火ぶたを切ってしまいました。

「戦争が長びけば日本は負ける。早く敵に打撃をあたえて、アメリカ国民たちに戦争をつづける気をなくさせることが第一だ」

五十六は、このように考えて、ハワイの真珠湾奇襲攻撃を成功させました。また、2日ごのマレー沖海戦でも勝利をおさめました。しかし、開戦からわずか半年のちには、日本海軍はミッドウェー海戦で敗れ、五十六は1943年4月に、南の空で戦死してしまいました。飛行機で前線をしさつのとちゅうでした。

1941年10月、内閣総理大臣近衛文麿をしりぞけ、新しく内閣をつくって日本を戦争へ引きずりこんだのが、東条英機です。
 
五十六と全く同じ年に東京で生まれた英機は、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業して、中国大陸への侵略を進めてきたのち、近衛内閣では陸軍大臣をつとめていました。

東条内閣をうちたてた英機は、総理大臣、外務大臣、内務大臣、陸軍大臣、さらにのちには文部大臣、商工大臣までも兼務して、まるで軍人独裁者のような力をふるいはじめました。真珠湾攻撃などの勝利が、英雄気どりにさせたのです。

五十六の死ご負け戦がつづいても、国民に 「心をひとつにして国のためにつくせ」 と叫んで、むりやりに突っ走りました。しかし、少年少女から大学生たちまで戦争にかりたてても、勝利へみちびくことはできず、1944年7月には内閣総辞職へ追い込まれてしまいました。

戦争は、それからおよそ1年ごに、広島と長崎への原爆投下で終わりました。そして英機は、最高の戦争犯罪人のひとりとして極東国際軍事裁判でさばかれ、1948年に絞首刑になりました。亡くなったとき、五十六が59歳、英機は64歳でした。


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