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(35)

山田耕筰(1886-1965)

「からたちの花が咲いたよ、白い、白い、花が咲いたよ」

この北原白秋の詩『からたちの花』の作曲者として知られる山田耕筰は、明治時代のなかごろ、東京で生まれました。父も母も、キリスト教を信仰するクリスチャンでした。

家でオルガンや賛美歌を聞いて育った耕筰は、幼いころから音楽がすきでした。町を軍楽隊が通るときは、心をはずませて、どこまでもついて行きました。

耕筰が9歳のときに父が亡くなると、父がいい残したことを守って、印刷工場と夜学校がひとつになったキリスト教の勤労学校へ入れられました。母ともはなれて、ひとりぼっちです。毎日、小さなからだではたらきつづけ、つらくなったときは学校のまわりのカラタチの垣根のかげで、そっと泣いたということです。このときの思い出が、のちに名歌曲『からたちの花』を生んだのでしょうか。

13歳のとき病気になり、家へ帰りました。そして、まもなく、イギリス人のもとへ嫁いでいた岡山の姉のもとへ行き、義兄から、音楽や英語を学び始めました。

耕筰が、ほんとうに音楽の道へ進むことになったのは、18歳の年に母を亡くしてからです。母は、耕筰が胸のなかで音楽家への夢をあたためていることを、早くから知っていました。その母の、亡くなるときのこころざしで、東京音楽学校(いまの東京芸術大学)へ入学することができたのです。

1908年に、すばらしい成績で音楽学校を卒業した耕筰は、2年ごには、日本人で初めてドイツのベルリン国立音楽学校へ留学して、4年のあいだ作曲を学びました。そして、28歳で帰国したときには、すでに、歌曲、交響曲、歌劇曲などに才能をしめす、すぐれた音楽家になっていました。

1915年には、日本で初めての交響楽団「東京フィルハーモニー会管弦楽部」を結成しました。また、1917年にはアメリカへ渡り、カーネギー・ホールでニューヨーク交響楽団などを指揮して、自分の曲の発表をおこない、大成功をおさめました。

耕筰は、日本の交響楽や歌劇の発展に力をつくしました。しかし、最大の夢は、日本のほんとうの国民音楽を育てあげることでした。日本人の心にしみる『からたちの花』『赤とんぼ』『この道』などの歌曲や童謡のなかに、そのねがいがあふれています。耕筰は、日本の美しいことばでつづる、美しい日本の歌を愛しました。1965年に79歳で世を去った耕筰は、日本近代音楽の父として、日本の歴史に大きく名をとどめています。


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