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(35)

山本有三(1887-1974)

「たったひとりしかいない自分を、たった1度しかない一生を、ほんとうにかがやかさなかったら、人間は、生まれてきたかいがないじゃないか」

名作『路傍の石』のなかで、このように語っている山本有三は、人間が人間らしく生きることを訴えつづけた小説家です。

栃木県で、小さな呉服商をいとなむ家に生まれた有三は、15歳で高等小学校を卒業すると、父のいいつけで東京の呉服屋へ奉公にだされました。しかし、お客の前だけ笑顔をつくってねこなで声をだす商人たちの生活がいやになり、1年もたたないうちに家へ帰ってしまいました。

幼いころから芝居と文学がすきだった有三は、上の学校へ進んで、もっと勉強したくてしかたがありませんでした。でも、がんこで考えの古い父は、ゆるしませんでした。

18歳になったとき、やさしい母のとりなしで、やっと進学の夢がかなえられ、東京へでました。そして、4年ごには第一高等学校へ、さらに25歳で東京帝国大学へ進んで、芥川龍之介や菊池寛らとまじわりながら文学の世界へ入っていきました。

学生時代は、小説よりも戯曲を書くことにむちゅうになりました。しかし、大学を卒業して数年たっても舞台で上演されるようなものは書けず、なんども、自分の無力さに泣きました。

ところが、33歳になったとき、劇作家山本有三の名は、いちどに広まりました。「よし、みとめられなくても、おれの言いたいことを書いてやろう」と心に決めて書いた『嬰児殺し』が大評判になったのです。わが子を貧しさのため殺さなければならない社会の悪を訴えたこの物語に、観客も読者もなみだを流さずにはいられませんでした。そののちは『坂崎出羽守』『同志の人びと』などを書いて劇作家の地位をかためました。

40歳をすぎてからは、長編小説『波』『女の一生』『真実一路』『路傍の石』などを、次つぎに新聞や雑誌に連載して、こんどは、小説家山本有三の名を高めました。

人間は、命をたいせつにして、真実ひとすじに生きねばならない、と説きつづける有三の小説に、軍隊や警察は怒りました。しかし、有三は文学者の権利を守って、屈しませんでした。

58歳のときに日本の敗戦を迎えた有三は、そのごは、国語国字問題の研究にも力をつくしました。また、6年のあいだ参議院議員もつとめ、1965年に文化勲章を受賞して、9年のちに、87歳で世を去りました。美しい理想をかかげて生きた有三は、子どものために『心に太陽を持て』という本も書き残しています。


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