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(35)

梅原龍三郎(1888-1986)

こまかい部分にこだわらない、太く力強い線、かがやくような、ゆたかな色彩。これが梅原龍三郎のえがく油絵の特色です。

梅原龍三郎は1888年に京都に生まれました。家は大きな染物商でしたので、着物の図案をかいたり染物をする人びとのしごとを見ながら成長しました。そして、自然に絵や色彩にたいする感覚がやしなわれていきました。

画家になろうと決心したのは、15歳のときです。病気で中学を退学したことが、きっかけになりました。両親は反対しましたが、1度思いたつとやりとげずにはいられないのが、龍三郎の性格です。

浅井忠の洋画研究所で油絵を学んだのち、1908年20歳のとき、フランスへ留学しました。パリに着いた翌日、リュクサンブール美術館でルノアールの作品を見たことが、龍三郎のこれから進む道をはっきりさせることになりました。

「この絵こそ私が夢にまで見ていた、自分で描きたい絵だ」

ルノアールはフランスを代表する画家のひとりです。龍三郎は勇気をだして、ルノアールをたずねていきました。

何度もたずねていくうちに、ルノアールは龍三郎の絵を見てくれるようになりました。

「君には色彩についての才能がある。デッサン(ものの形をとらえること)は勉強することによってうまくなれるが、色彩にたいする感覚は生れつきのものだ」

ルノアールのはげましの言葉は、龍三郎を勇気づけました。

フランスでの5年間の勉強ののち、龍三郎は日本に帰ってきました。1913年10月、初めての個展を東京で開きましたが、売れたのは1枚きりでした。龍三郎は、日本の油絵がヨーロッパのまねにしかすぎないことに気づかずにはいられませんでした。

「これではいけない。日本独自の油絵を作ろう」

龍三郎は考えました。しかし、それは、かんたんな仕事ではありません。

龍三郎は、日本の自然を見つめなおし、日本人でなければかけない油絵を生みだそうと苦心しました。桜島や富士山や浅間山の風景を、また、中国にわたって北京の風景を数おおく描きました。それらの画面は、はなやかな色彩と力強い筆のはこびによって、見る人びとを圧倒します。

梅原龍三郎は、安井曾太郎とともに「国民画家」といわれ、日本を代表する画家とされています。1952年には、その業績をたたえられて文化勲章がおくられました。


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