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(36)

菊池 寛(1888−1948)

小説や戯曲を書くだけではなく、出版社をおこし、文学賞をつくり、おおくの文学者たちを育てて文壇の大御所とよばれるようになった菊池寛は、四国の高松で生まれました。菊池家は祖父の代までは高松藩につかえた学者の家がらでしたが、寛の父は、小学校の事務員をしていました。

寛が小学生のころは家が貧しく、ときには、教科書も買ってもらえないほどでした。でも寛は、貧しさには負けず「おれは名のある人になるのだ」と、心に決めていました。とくに、おどろくほど読書がすきで、本がなければ、家のふすまに張った古新聞の小説までも読みました。やがて中学校へ進んだときに、高松の町に初めて図書館ができると、だれよりも早く閲覧券を手に入れて、毎日のように通いつづけました。

中学校を卒業すると東京高等師範学校へ進学しました。教師を養成する師範学校は、学費がいらなかったからです。ところが、学校の授業よりも図書館通いや芝居見物に夢中になりすぎて、2年生で退学させられてしまいました。

「おれは、教師にはむかない。よし、やはり文学の道がいい」

寛は、22歳で第一高等学校へ進みました。しかし、卒業まであと3か月というときに、こんどは自分から退学してしまいました。親分のような気性をもっていた寛は、友人のぬすみの罪を、その友人を助けるために自分がかぶったのです。そのごの寛は、京都へ行き、28歳で京都帝国大学を卒業して、新聞記者をふりだしに文学者への道を歩み始めました。

学生時代から小説を書きつづけてきた寛は、『父帰る』『忠直卿行状記』『恩讐の彼方に』などの作品を、次つぎに発表しました。そして、男の利己主義に対する女の復しゅうをえがいた『真珠夫人』が新聞に連載されると、小説家菊池寛の名は、野を焼く火のような勢いで国じゅうに広まりました。31歳のときには『父帰る』が東京の新富座で上演され、劇作家としてもみとめられました。

小説を書きながらでも、生活をしていくための現実主義を捨てなかった寛は、34歳のときに雑誌『文芸春秋』を創刊して、出版事業にもふみだしました。また、1935年には、芥川賞と直木賞をもうけて、作家をこころざす人びとへ希望の光をおくりました。このふたつの賞が、そののち新しい作家を生みだすために、どれほど大きな力になったか、はかりしれません。

寛は、54歳のときから映画会社の社長もつとめ、第2次世界大戦が終わった3年ごに亡くなりました。59歳でした。


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