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(36)

小林多喜二(1903−1933)

小林多喜二の書いた『蟹工船』『不在地主』『党生活者』などは、日本のプロレタリア文学の代表作といわれています。プロレタリア文学というのは、労働者や農民の貧しいすがたや、そのまずしさの原因となっている社会のしくみをありのままにえがいた文学です。それは、はたらく人びとの立場から社会のゆがみをえがくことによって、社会改革を追求しようとするこころみでした。

多喜二は、1903年(明治36年)10月13日、秋田県の貧しい農家に生まれました。父はよくはたらくおだやかな人柄で、母も学問はありませんでしたが、明るく思いやりのある人でした。多喜二はこうした両親を敬愛していました。一家は村では暮らしていけなくなって、北海道の小樽に移り、多喜二はおじのパン工場ではたらきながら、学校に通いました。小樽高商を卒業してからは、銀行に就職できたので、母はよろこびました。

多喜二は、小樽高商に在学中から小説を書いていました、銀行につとめてからも、友人たちと同人雑誌を発刊しました。そして、考えはしだいに共産主義に近づいていきました。

戦前の日本では、労働者や農民の権利は今ほど守られず、生活は悲惨なものでした。多喜二は、こうした状態を救うためには、共産主義しかない、その運動を進めるための文学を書こうと思いました。しかし、この当時、共産党を作ることはもちろん、運動に参加することも、協力することも法律で禁じられていました。共産主義をおし進めるためには、監獄につながれる覚悟が必要でした。

多喜二の『1928年3月15日』は、全国で共産主義運動をおこなっていた人びとが検挙され、小樽でも500人が捕えられた日のことを作品としたものです。この小説で、特高(思想の取りしまりにあたる警察)の残虐な拷問とそれに屈しない労働者のすがたをえがきました。

『蟹工船』はカムチャッカ沖でカニ缶詰を作っている船の話です。ボロ船の上で、ひどい労働をさせられている人びとが、ついにストライキに立ち上がるまでをえがいています。

多喜二は、こうした小説を書いたために、銀行は辞めさせられ、刑務所に入れられましたが、共産党に入り、文学の上ばかりでなく、生活のうえでも労働者の先頭に立とうとしました。

しかし、1933年2月20日、逮捕され、その日のうちに拷問によって殺されました。2日ご、送り返されてきたその死体は、無ざんな傷あとを残していました。まだ29歳のわかさでした。


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