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(36)

棟方志功(1903−1975)

棟方志功は、1903年(明治36年)青森市に生まれました。青森には、東北三大祭りのひとつであるねぶたがあります。赤や青、黄など原色でえがいた勇壮な武者人形のなかに明かりを入れて、町じゅうをひっぱりまわすごう快な夏の祭りです。また、冬になると空にうなりをひびかせて大きなたこがあがります。こうしたねぶたやたこの絵が、志功をとりこにし、絵の楽しさを教えてくれました。ですから、志功の絵や版画は、同じように骨太な線と強い色彩でえがかれ、土のかおりのする生命力にあふれています。

青年時代、文学や演劇や詩歌を研究する集まりを作っていた志功は、ある日、友人からゴッホの『ひまわり』の絵を見せられました。その燃えるような色彩をもつ、からだごとぶつけてかいたような絵に、志功は思わずさけびました。

「ようし、おれは、日本のゴッホになるぞ」

こうして、21歳のとき、画家になるため、志功は東京に出てきました。しかし、めざす帝展(今の日展)には、なかなか入選できません。
志功は、生活費をかせぐために、看板かき、なっとう売り、靴屋の手伝いなどをしながら、勉強をつづけました。1928年に、やっと帝展に出品した油絵が初入選しました。しかし、生活の苦しさはかわりません。それでも、そのころ、妻になったチヤ子は、志功をはげましました。

「そのうちきっと世界一になるときがくるよ」

1938年、志功は帝展に版画で『善知鳥』という作品を出しました。今年も落選かと思っていると、夜、雨のなかをふたりの友人がかけつけてきました。志功の作品が特選となったのです。志功は大声をあげて踊りまわりました。

志功の作品は、日本だけでなく、ベネチア・ビエンナーレ国際版画大賞などを受け、海外でも高く評価されました。

志功が版画を彫るときの姿勢は、板にむしゃぶりついていてまるで板と格闘しているようでした。

「板刀と板木さえ手にしていれば、わたしの生命はあるようです。いや、生命がなくたって、版画は出来つつあるといえます。そうなることが望ましいことであるし、そうこなくてはならないのが版画のようです」

ちっぽけな自己からぬけ出たとき、自然の力は自分を助けて、さらに高く広い心の作品を生み出してくれると、志功は考えていました。
1970年、文化勲章を贈られ、1975年9月13日、72歳で亡くなりました。


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