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(36)

古賀政男(1904−1978)

『丘を越えて』『影を慕いて』『青い背広』など、日本人の心にふれるメロディで、今も口ずさまれているたくさんの歌謡曲を作った古賀政男は、1904年(明治37年)11月18日、福岡県に生まれました。父は、せと物を売り歩く商人でした。政男が6歳のとき、父は病気で亡くなり、母のせつは、政男や弟をつれて朝鮮(今の韓国)の仁川に渡りました。長男の福太郎や次男の時太郎たちが、仁川の金物問屋ではたらいていたので、それをたよって行ったのです。

政男は音楽の好きな少年でした。仁川で朝鮮の労働者のうたう民謡に思わず聞きほれました。そのころ、はやりはじめた大正琴に夢中になって、じょうずにひいて人をおどろかせたりもしました。やがて、京城に自分の店を開くようになった兄の福太郎は、こうした政男に感心しませんでした。苦労して一人前になった兄は、音楽など生活の上でなんのたしにもならないと考えていました。それで、政男も将来は自分といっしょにはたらかせようと考えて、商業学校に入れました。

政男は18歳のときには、大阪にできた兄の支店ではたらきました。しかし、東京に出て自分の才能をためしてみたいという希望をすてることはできません。ある日、政男はわずかばかりの貯金とマンドリン1つを持っただけで、店をとび出しました。こうした政男をかげながらはげましてくれたのは、母のせつでした。母はとぼしいお金をはたいて送ってくれました。政男ははたらきながら、明治大学予科に通いました。大学には、できたばかりのマンドリンクラブがあり、ここに入った政男は、演奏に指揮にすぐれた腕を見せました。

政男の作曲ではじめて注目されたのは、自分で詩も書いた、『影を慕いて』です。この曲がマンドリンクラブの演奏会で歌われると、会場は割れんばかりの拍手でした。政男が大学を卒業した年、この曲はレコードとして売り出され、大好評で全国に流行しました。つづいて作曲した『酒は涙か溜息か』も、100万枚を突破し、政男は一躍、人気作曲家となりました。

「いい詩をみると、からだがふるえるような気がする」

それでも、その詩にぴったりの曲が心にうかんでくるまで、政男は作曲にかかりません。作曲してからも、マンドリンを手にして自分で歌いながら、わるいところをなんどでも直して、うたいやすく、おぼえやすいものにしていきます。そこにヒットの秘密があるのでしょう。
政男は、1978年7月、病に倒れましたが、「古賀メロディ」は今も生きつづけています。


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