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(36)

太宰治(1909−1948)

『晩年』『斜陽』『人間失格』などの作品で知られる太宰治は、雪のふかい青森県北津軽郡の出身です。1909年(明治42年)6月19日、大地主で、県会議員でもある父のもとに6男として生まれた太宰治(本名津島修治)は、使用人が10数人もいる、大きな家に住み、めぐまれた少年時代を送りました。

「私は散りかけている花弁(はなびら)であった。すこしの風にもふるえおののいた。人からどんなささいなさげすみを受けても死なんかなともだえた」(『思ひ出』)

ほこり高く、しかし、傷つきやすい心をいだいた少年でした。自分の進む道は文学以外にないと決心したのは、中学3年の16歳のときです。
弘前高等学校から東京帝国大学(東京大学)仏文科に進んだ太宰は、前から尊敬していた作家の井伏鱒二と会い、小説を書きはじめました。やがて、作品は第1回の芥川賞候補にもなり、新進作家として認められはじめましたが、やさしく繊細で、人一倍はずかしさを感じやすい太宰にとって、生きることすべてが苦痛に思われました。

「私は、人間をきらいです。いいえ、こわいのです。人と顔を合わせて、おかわりありませんか、寒くなりました、などと言いたくもないあいさつを、いいかげんに言っていると、なんだか、自分ほどのうそつきが世界中にいないような苦しい気持ちになって、死にたくなります」(『待つ』)

太宰の文章のなかには、よく「死」という言葉がでてきます。実際、30歳になるまでに、睡眠薬を飲んだりして、4回も自殺をはかっています。とくに21歳のとき、女性と鎌倉の海で心中をはかり、女の人は死に、自分だけ助かったことは、太宰にとって大きな衝撃でした。そして罪を犯したという意識に苦しみつづけます。太宰の小説はこうした生きることの苦しみが土台になっています。でも、深刻にかくことは太宰にはできません。悲しい素顔をかくして、人を笑わせるピエロのように、少しおどけてみせるのです。

1939年、妻を迎えた太宰は、次つぎに作品を発表し、戦後は、ぼつ落していく貴族をえがいた『斜陽』がとくに評判となりました。しかし「死」はつきまとって離れませんでした。1948年6月、太宰は、ふと知りあった女性、山崎富栄と玉川上水に身を投じました。毎年、死体の発見された6月19日には、墓のある東京三鷹の禅林寺で、太宰をしのぶ「桜桃忌」が開かれ、若い人たちもたくさん集まります。太宰の作品の純粋な心が、人びとをひきつけるためでしょう。


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