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黒沢明(1910−1998)

黒沢明監督の『羅生門』は、1951年ベネチアの国際映画祭で、日本映画として、はじめてグランプリ(大賞)を受賞しました。ヨーロッパの人びとは、日本映画の水準におどろき、これをきっかけとして、欧米でも日本映画が次つぎに上映されるようになりました。こうしたことからも、この受賞は、黒沢ひとりの名誉だけではなく、深い意味をもつものでした。

黒沢明は、1910年(明治43年)東京大森に生まれ、はじめは画家になりたいと考えていましたが、新聞で助監督募集の広告をみて、PCL(今の東宝)に入社しました。7年ほどつづいた助監督の時代に、シナリオ(脚本)をせっせと書いて、早くもすぐれた才能をみせました。
監督に昇進しての第1作は『姿三四郎』です。ひとりの若者が柔道家として成長していくすがたをえがいたこの作品は、暗い戦時下に生きる人びとに、新鮮な感動をあたえました。

戦後は『酔いどれ天使』『野良犬』『生きる』などの名作を発表します。これらの映画は、この社会の片すみに生きる人びとに眼をむけたものです。たとえば『生きる』の主人公は、書類の山にうずもれて暮らしてきた市役所のひとりの課長です。ある日、課長は、自分ががんであることを知り、今までの自分の人生には、どんな意味があったのかと考えます。そして、さいごの努力を児童公園を作ることにかたむけ、死んでいく物語です。黒沢は、人間はいかに生きるべきかを、作品の中に取りあげたのです。

『七人の侍』『用心棒』『隠し砦の三悪人』など、黒沢の作品には誰にでも楽しめる痛快な時代劇もあります。これらの映画はあまりにもよくできていたので、イタリアやアメリカで西部劇として、もう1度作られたほどでした。

黒沢の映画を作る姿勢のきびしさは有名です。1つのシナリオを作るのにも、数人の脚本家と合宿してアイデアを出し合い、おたがいに妥協せずにつきつめていきます。撮影に入ると、自分の思うとおりの画面のできるまで、何度もねりなおしがおこなわれます。これが、映画に緊張と迫力を生むのです。

黒沢はソ連に行って『デルス・ウザーラ』をつくり、モスクワ国際映画祭でグランプリをとりました。1980年には『影武者』がカンヌ映画祭でグランプリとなりましたが、日本では、名作だという人もあれば、つまらないという人もあって、評価は2つにわかれています。しかし、このことは、それだけ人びとの黒沢明への期待の大きさを語っているともいえるでしょう。


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