紀元前1世紀といえば、いまから2000年以上もむかしのことです。そのころ、ローマは共和政がしかれ、王様はいませんでした。
共和政というのは、国民の代表者たちが集まって政治を行なうしくみです。
死ぬまで議員でいられる貴族派と、選挙で平民のなかから選ばれた平民派があり、ローマは、いつも権力のうばいあいで争っていました。
ジュリアス・シーザーが、選挙に当選し、平民派の若い統領としてその名が知られるようになったのは、まだシーザーが20代のころです。
シーザーは、アレクサンドロス大王にあこがれていました。3大陸にまたがる大帝国をたてた古代ギリシアの王です。つぎつぎと勝ち戦をかさねていく大王のはなしは、どんなに、シーザーの胸をおどらせたことでしょう。
32歳のある日、シーザーは、初めてアレクサンドロス大王の銅像をまぢかに見て、
「大王は、わたしと同じ年には、もうすでに世界を征服していた。わたしは、まだ何も世にほこるような仕事をしていない」
といって、なげいたということです。
その当時、ローマでいちばん勢力のあった軍人は、ポンペイウスでした。
地中海の東側の国ぐにを征服してからは、ポンペイウスの名は高まるいっぽうです。なかまの貴族派の人びとはこれをあまりこころよく思わず、ポンペイウスにつめたくあたりました。
そこで、腹をたてたポンペイウスは、平民派にくらがえすると、若いシーザーと手を結びました。
ふたりは、大金持ちのクラッススをなかまにひき入れ、貴族派にたちむかうために、スクラムを組んだわけです。
3人の力は、しだいに貴族派をおさえつけ、ローマの政治を動かす中心となりました。
これを「ローマの三頭政治」とよんでいます。
