1858年、幕府は、アメリカと日米修好通商条約をむすび、2年ごの1860年に、国と国との約束の文書をとりかわすために、日本使節団がアメリカへ行くことになりました。そして、海舟にも命令がくだりました。使節はアメリカの軍艦に乗りこみ、海舟は日本の軍艦咸臨丸で使節の護衛です。長崎で学んできた、日本の軍艦技術のうでをためしてみるというのも、ひとつの目的でした。
咸臨丸は、軍艦とはいっても、幕府がオランダにたのんでつくらせた、長さ47メートル、幅7メートルの小さな船です。提督には軍艦奉行の木村喜毅が任命され、総員90名が乗りこみました。海舟は、艦長です。
太平洋にでた咸臨丸は荒波にもまれ、海舟も乗組員も、船よいに苦しめられました。しかし、日本の海軍を世界にしめす名誉がかかっています。海舟は、あるときは自分のからだを帆柱にくくりつけるようにしてがんばりつづけ、日本をでて37日めに、みごとにサンフランシスコに着きました。アメリカの土をふんだときの海舟の目には、真珠の玉が光っていました。
太平洋横断の偉業を果たした海舟は、帰国ご、軍艦奉行並に任命され、さらに、神戸に海軍操練所が開かれると、日本の海軍を総指揮する海軍奉行となりました。このとき心のなかでは、すでに、たんなる幕府の役人をのりこえ、両方の肩に国の将来をになった、日本の海舟になっていました。
海軍奉行になるまえのある日、土佐藩(高知県)の坂本龍馬がたずねてきました。幕府を倒して新しい日本をつくることを考えている龍馬の目は、するどく光っています。海舟があくまでも幕府の味方をするといえば、刀をぬいてきりかかってくるつもりです。龍馬の心をひと目で見ぬいた海舟は、しずかに語りかけました。
「わしをきるのは、話のあとでもよいでしょう。日本はいま、幕府だ天皇だなどと言っているときではない。世界を見つめなければいけないときです。1日も早く国の力をつけないと、日本は外国に滅ぼされてしまいますよ」
海のむこうの国ぐにの大きさや、日本人の心のせまさを説く海舟の目は、美しくすんでいます。やがて、海舟が口を閉じると、龍馬は、両手をついて頭をさげ、その場で、海舟の弟子になりました。
海舟は、龍馬を海軍操練所の塾頭にとりたてました。しかし操練所は、海舟が、幕府をひはんするような若者でも学ばせたことから、わずか1年でつぶされ、海舟の軍艦奉行職もやめさせられてしまいました。幕府には、海舟の大きな心がわからなかったのです。
「アメリカ、イギリス、フランスなどが日本にしのびよっているのを、なんと考えているのだろうか……」
海舟は、暗い心のなかで、世界に目を開かない幕府に怒りました。そして、2年ごにふたたび軍艦奉行にとりたてられたときは、自分たちの政権が強くなることだけを考える幕府を、きびしく叱りました。