聖徳太子は、585年に第31代の天皇となった用明天皇の皇子として、574年に生まれ、生存中は厩戸皇子とよばれました。母が朝廷内の馬小屋にさしかかったときに生まれたので、そう名づけられたといわれています。また、キリストが馬小屋で生まれたという話から、それにならったのだ、というつたえもあります。でも、ほんとうのことはわかりません。
幼いころの太子は、4歳のときには1日に1000字の漢字をおぼえ、6歳をすぎると長いお経をすらすらと読んだという話が残っているほど、ものおぼえがよく、そのかしこさは、まわりの人たちをおどろかせました。
このころ、朝廷では、いちばん高い役人の位についていた蘇我氏と物部氏が、日本に仏教を広めることをめぐって、にらみあっていました。
紀元前シャカによってインドでおこった仏教は、太子が生まれる数十年まえに、朝鮮半島をとおって日本へつたわってきていました。ところが、これを国じゅうに広めようとする蘇我氏にたいして、日本は神の国だと信じる物部氏は、外国からわたってきた宗教など、まるで信仰しようとしなかったのです。
太子が14歳のとき、父が亡くなりました。すると、つぎの天皇にはだれをたてるかについての意見のちがいから、日ごろのにらみあいがばく発して、ついに蘇我氏と物部氏ははげしく戦い、負けた物部氏はほろんでしまいました。このとき太子は、母と血がつながっていた蘇我氏に味方をして、物部氏を討ちました。
物部氏がたおれて朝廷のなかの争いはしずまりました。
ところが、このとき蘇我氏をひきいていた馬子は、敵がいなくなったうえに、天皇と近いしんせきにあたるのをよいことにして、権力を思うままにふるうようになりました。そして、592年には、自分の気にいらない崇峻天皇を殺してしまいました。
馬子は、太子のおじです。19歳になっていた太子は、おじのだいたんなふるまいに、おどろいたにちがいありません。しかし、年若い皇子の身では、まわりのみにくい争いを、だまって見ているより、しかたがありませんでした。