レディバードブックス100点セット
 

 

バスカービル家の犬

 我が友シャーロック・ホームズは、いくつかの常軌を逸した事件に関わったことがありますが、私がこれから語ろうと思う事件ほど奇妙なものはありませんでした。
1890年の9月も終りのある朝、ロンドンのベーカー街の彼のアパートで、これはごく平凡に始まったのです。ホームズは、年を経て色あせて黄色くなった書類を手にしていました、それには 「バスカビル邸1742年」 と日付がうたれていました。その書類はジェームズ・モーチィマーという人が、目を通しておいてくれといって置いていったものだと、ホームズは私に語ってくれました。「君と同じでね、ワトソン君、彼は医者なんだよ。今日午前中に本人が訪ねてくることになってるんだ」 と、ホームズは言いました。色あせた羊皮紙には、バスカビル家をおそった災禍と事の起りが記されていました……

 デボン・ムーアという荒地のはずれのバスカビル邸はその昔、サー・ヒューゴ・バスカビルという気性の荒い残忍な男が所有していました。サー・ヒューゴは、バスカビルの屋敷から荒地を横切って数マイル離れたところに住んでいる農夫の娘に想いを寄せていたのです。しかし、娘の方はヒューゴの人格が下劣であることを知っていたので彼を恐れており、まったく相手にしませんでした。

 荒涼としたある日の午後、娘の父親と兄たちが農場を留守にしていたすきに、ヒューゴは数人の仲間といっしょに娘をさらっていきました。彼らは娘をバスビカルの屋敷に連れてくると、上階の部屋にとじこめておきました。夕暮どきに、階下の広間から聞こえてくる、ヒューゴと仲間たちが飲んだくれて歌ったりわめいたりする声が、彼女をこわがらせました。彼女は窓を開け、石造りの壁にからまったつたをたよりに下に降りると、月あかりの荒地を横切って、家に向かって走り出しました。
娘が逃げたことに気づいたヒューゴは激怒しました。彼が怒りにまかせて、悪魔に体と魂を売り渡してでも、あの娘を逃すものかと叫ぶと、酔っぱらった彼の仲間たちですら、恐れおののきました。

 ヒューゴは馬屋にかけこみ、猟犬の群を解き放つと馬にまたがり、ものすごいスピードで娘の後を追いかけました。
しばらくして、彼の仲間たちも勇気を取りもどしました。何人かは馬を取りにいって、娘を助けるのに間に合うようにと、ヒューゴの後を追いました。
1マイルか2マイル行った荒地のなかで、彼らは夜番の羊飼いに出会いました。羊飼いは動転していてほとんど口も利けませんでしたが、それでも彼はヒューゴの仲間たちに次のように告げました 「ヒューゴ・バスカビル様が雌馬に乗って私を追い越していきなすった、そのうしろから黒くて大きな悪魔の犬が走っていったんだ」

 彼らは先へ進みました。すぐに、遠駆けしてくる馬のひづめの音が耳に入りました、ヒューゴの乗っていた雌馬がただ一騎、夜の暗闇から姿を現しました、口から泡をふいていて、背には誰も乗っていませんでした。
みんなはたいへんな恐怖にかられ、今やひとつにかたまって馬をすすめました。空地の入口で、彼らはおびえた猟犬の群をみつけました。
空地のなかほどには、娘の死体が横たわっていました。そのそばにヒューゴ・バスカビルが倒れており、犬のような大きな黒い獣が彼にのしかかるように立っていました。馬上の男たちの目の前で、それはヒューゴののどを喰いちぎると、ぎらぎら光る目と血のしたたるあごを男たちの方に向けました。男たちは踵を返すと、悲鳴をあげながら荒地を横切って逃げだしました。

 その夜以来、バスカビル家ののろいは親から子へとうけ継がれていきました。謎めいた惨死を遂げた者も多く、後を継ぐ者は、悪魔の犬がうろつく夜中に一人で荒地を横切るようなことが決してないように警告を受けるのでした。ここでその書類に記された物語は終っていました。

 モーティマー医師が到着すると、ホームズは書類を返して、自分はおとぎ話に関わる気はないと言いました。
「もう少し辛抱してください、ホームズさん。ちょうど3か月前に亡くなったバスカビル家の最後の当主で、私の友人でもあったサー・チャールズの死の詳細をお話する前に、この書類の内容を知っておいていただくことが重要なのです」 と、モーティマー医師は言いました。彼は続いて、死の数週間前からサー・チャールズの様子が非常におかしかったことを私たちに告げました。サー・チャールズは魔犬の呪いが自分にかかっていると信じきっていていたのです。彼は、夜中に荒地に行くようなことはしませんでした。何か変な動物を見なかったかとか、犬のうなる声がしなかったかとか、何度もモーティマー医師にたずねたことがありました。モーティマー医師は、 サー・チャールズが心臓病に加えて神経も衰弱しきっているのだと感じました。それにサー・チャールズは、ある習慣をもつようになりました。毎晩バスカビルの館から砂利の車道を通って、荒地へ通じる門のところまで散歩するのですが、そこから先は決して歩を進めようとしませんでした。
6月のある晩、サー・チャールズの死体が荒地へ通じる門の近くで、執事のバリモアによって発見されました。やわらかい砂利道には2組の足跡、サー・チャールズのものと執事のものがついていました。それはサー・チャールズが倒れていた方に向かって、爪先で歩き出したように見えました。

 「それで私が呼ばれたのです」 モーティマー医師は続けました。「私は死体を調べました。外傷は一つもありませんでしたが、恐怖で顔がひきつっていました。死因は心不全です。執事によると遺体の周囲の地面には何の跡もなかったと言うのですが、私は20ヤードばかり離れた草むらにそれをみつけたのです、その後、雨が休みなく降っていたために消えてしまいましたけどね」
ホームズは目に興味あふれた強烈な輝きを見せて、モーティマー医師をみつめました。「足跡ですか、それは」
「そうです」
「男のものですか、それとも女の」
モーティマー医師は妙な顔をして私たちをみつめましたが、声を落として「ホームズさん、巨大な犬の足跡なんですよ」 と、ささやくように答えました。
それを聞いて私はぞっとしました。
ホームズは彼をみつめました。「モーティマー先生、私をお訪ねになった目的をお聞かせ願えますか」
「助言をいただきたいのです。1時間もすればサー・ヘンリー・バスカビルがカナダからロンドンに到着します。この人はサー・チャールズの弟の息子でバスカビル家最後の一人です」 モーティマー医師はさらに、もう一人だけロジャー・バスカビルという人がいたが、数年前にブラジルで黄熟病のため死亡しているということをつけ加えました。この人は伝説のサー・ヒューゴの血をひいていました。
「ホームズさん、バスカビル家の者にとって、ダートムーアは安全な場所だとお考えになりますか。私たちとしてはサー・ヘンリーにダートムーアで暮してほしいのです、そして、彼の伯父のサー・チャールズがこの地方の貧しい人びとのためにしてくれた、すばらしい仕事を引き継いでほしいのですが」

 「私の助言はこうです、サー・ヘンリーをお迎えしたら、今日の午後私のところへ連れてくること。あと一つだけおたずねしますが、サー・チャールズが亡くなる前に荒地で犬を目撃した人が何人もいるとのことですが、事件後に誰か犬を見た者はいますか」
「誰もいません、ホームズさん」
モーティマー医師が帰ってから、私はホームズにサー・チャールズがなぜ砂利道を爪先で歩いていったのだろうかとたずねました。「そうじゃないのさ、ワトソン君。命からがら走ったのだよ。だが一体何から逃げたのだろう。そいつが問題なんだ」
私たちはサー・ヘンリー・バスカビルがやってくるのを持っていました。
午後もなかごろになってから、モーティマー医師はサー・ヘンリーを伴って再度やってきました。サー・ヘンリーは、30歳くらいの快活でがっしりした人物でした。
サー・ヘンリーは、モーティマー医師が語るバスカビル家の呪いに関する詳しい説明すべてに、注意深く耳を傾けていました。そして静かに、しかしきっぱりと、悪魔なんて存在するはずもないし、私がバスカビルの館へ行くのをじゃまできるような人間は絶対にいないと言いました。「よろしい。話は決まった。ワトソン君にあなたがたといっしょに行ってもらいます」 とホームズは言いました。
翌日私はサー・ヘンリー、モーティマー医師とともに汽車でデボンへ向かいました。ホームズは重要な事件を調査していたので、数日の間ロンドンを離れるわけにはいかなかったのです。デボンまでの旅は快適なものでした、車中私たちはいろいろな話をし、私はサー・ヘンリーとモーティマー先生の2人がたいへん好きになってしまいました。

 私たちは、デボンの小さな村の駅に到着しました、そこには二頭立ての屋根なしの馬車が待っていました。すぐに御者は私たちを乗せると、たそがれの薄あかりのなかを荒地のはずれに向かって馬車を走らせました。荒地は入日に照らされて正面にせまり、荒地を渡る冷たい風に私たちは身ぶるいしました。不気味な土地と冷たい風、それにだんだん暗くなっていく空に、私たちは黙りこんでしまうのでした。眼前にあるものは、岩や荒涼とした風景やよじれた木々でした。

 突然、御者がむちで指し示しながら言いました 「バスカビル家のお屋敷です」 2、3分後、私たちは屋敷の門に到着しました。私たちは並木道になっている私道を通っていきました。その先にバスカビルの館がお化けのように見えかくれしていました。
執事のバリモアが玄関に出て私たちを迎えてくれ‐それから御者はモーティマー先生を家に送っていきました。
屋敷の中は薄暗く陰欝な感じがしました。「あまりよい感じの屋敷ではありませんね」 と、サー・ヘンリーは言いました。私たちは食事をすませると、そのまま床に就きました。寝室の窓から眺めた荒地は、冷たく灰色で近寄りがたい感じがしました。私は古い屋敷の死んだような静けさのなかで、しばらくベッドに横になっていましたが、やがて眠りに落ちていきました。

 翌朝、窓から日の光が差しこむ朝食のテーブルについたとき、サー・ヘンリーも私も昨夜よりずっと元気になっていました。朝食のあとでサー・へンリーは仕事があったので、私は荒地のはずれを散歩しました。2、3マイルも行ったところで、誰かが私の名を呼びました。それは30から40歳ほどの男の人で、捕虫網とブリキの標本箱を持っていました。
その人はジャック・ステイプルトンと名乗りました。モーティマー先生の友人で、彼から私のことを聞いていたのでした。「私はこの荒地が好きでしてね。もっともここに住むようになってまだ2年ですけど」
彼が話しているときに、荒地の向うから恐ろしい苦悶の叫びが響きました。私はそれを聞いて、恐ろしさで背すじが寒くなりました。ステイプルトンの神経は私より太いらしく 「荒地にいる小馬がグリンベン沼に落ちたんですよ」 と、こともなげに言いました。私がはるか向うに目を凝らすと、小馬がゆっくり沈んでいくのが見えました。小馬は首をしばらくの間左右に揺らせたり、ひきつったようにピクピクさせながら、少しずつ沈んで見えなくなってしまいました。
「グリンベン沼はとんでもないところです」 と、ステイプルトンは静かに言いました。「私はあの沼地を通って珍しい蝶のいる場所へ行くことができますが、あなたはあそこへは近づかない方がよろしいと思いますよ」 私たちの背後の岩山にとまっている2羽のカラスの他には何も動く気配はありませんでした。そのとき非常に長いうめき声が荒地に響き渡り、やがて小さくなって聞こえなくなりました。「おやおや! あれは一体何ですか」 と、私は言いました。

 ステイプルトンは奇妙な表情を浮かべて私をみつめました。「バスカビル家の犬が獲物を求めて吠えているのだそうです。前にも耳にしたことがありますが、こんな大きな声は初めてです」 私はぞっとしてあたりを見まわしました。ステイプルトンは動揺した様子もなく、サー・ヘンリーにはお目にかかるつもりですと言うと、彼の住んでいる古い農家の方へ立ち去りました。
小馬が沼にはまって死んだことや大の吠えるような奇妙な声で、私はすっかり心をかき乱されてしまいました。私は漠然とした不安をいだいて、バスカビルの館へもどりました。
翌日ステイプルトンが呼びにきました。彼はサー・ヘンリーと私を荒地に連れていき、そしてかの悪名高いヒューゴが死んだと伝説が伝えている場所を教えてくれました。そこはものさびしい場所でした。ステイプルトンはサー・ヘンリーに対して努めて好意を寄せているように思われました。

 次の日サー・ヘンリーと私は、近くのグリンベンの村へ足をのばしました。私たちは、モーティマー医師の家に少しの間立ち寄って話をし、私たちが屋敷にもどるために荒地の道をたどりはじめたのは、夕刻になってからでした。暗くなるほどにサー・ヘンリーは、伝説によればバスカビル家の者はすべて夜間荒地を横断してはならないのだったねと、冗談めかして言いました。あたかも彼のこの言葉を待っていたかのように、暗闇のなかから私がステイプルトンといっしょに聞いたのと同じ例の奇妙な吠え声があがりました。「ややっ、ワトソン君。あれは犬だな」 声の調子が変ったことから、彼がおびえているのが感じ取れました。「ロンドンにいたときは笑いとばしていたことが、こうしてまっ暗な荒地に出て、あのほえ声を聞くとまったく感じが違うものだね、ワトソン君。ぞくぞくするよ。私は本当に危険なのだろうか」

 ただちに私は彼を急がせて、バスカビルの館へもどりはじめました。歩いていく途中、私はちらっと荒地の奥の方を見ました。少し離れたところに大きな岩が一つあって、その上に夜空を背に、黒い輪郭の人影が立って、こちらを見ていたのです。びっくりして声をあげ、サー・ヘンリーにその人影を差し示しました。サー・ヘンリーがふり返るそのすきにその人影は消え失せていました。しかし私の見まちがいではありませんでした。私はたしかにこの目で見ましたし、すぐに執事のバリモアの証言を得たのです。
バスカビルの屋敷に着くとバリモアが私を持っていました。彼はある男が人の目を逃れて荒地の岩小屋の一つにかくれ住んでいるのだと言いました。私は執事がなぜそのことを知っているのかとたずねました、執事はそれに答えて、村の少年が1人、毎日その男に食べものを運んでいるのだと言いました。

 バリモアはうろたえていました。彼が言うには、夜中に様子をさぐっているようなあやしい男が隠れていることを抜きにしても、あの荒地は実に恐ろしい場所なのです。バリモアも私もどうやら同じことを考えているようでした。そのあやしい男は犬と何か関係があるのだろうか。2人ともサー・ヘンリーの身の安全を心配していたのです。
私は何をすべきか決心しました。次の日の午後、昼食をすませてから、すぐに拳銃を持って出かけました。私はゆっくりと荒地を横切って岩小屋のあるブラックトーの方角へ進みました。ひとつひとつ順にさがしていくと、そのうちのひとつに毛布や水の入ったバケツ、空カン、それに食べものとブランデーがひとびんあるのをみつけました。私はあやしい男のかくれ家をつきとめたと確信しました。

 午後3時か4時ごろになっていました。私は拳銃を手もとに置き、腰を下ろして待つことにしました。1時間もたったころ、誰かの足音がきこえてきました。私は暗がりに身を潜め、引き金に指をかけて銃をかまえました。
何者かが開いたままの戸口のところで立ち止まりました。長い沈黙が流れます。やがて相手の声が言いました 「そんなところに隠れないで出てきたまえ、ワトソン君。美しい夕暮れだよ」 しばらくの間、私は自分の耳をうたがいました。

 「ホームズ!」 と、私は叫びました。
「来たまえ。そのピストルに気をつけてね!」 と、ホームズが言いました。
私は彼に会えて大喜びでした。ホームズが言うには、私も含めた全員が、ホームズはロンドンにいるのだと思っていることが必要だったのだそうです。実際には、私たちの後から次の汽車でデボンに来ていたのでした。それから、荒地に隠れて様子を見ながら持っていたのでした。

 ホームズは私にどこを訪ね、何をし、誰に会ったかを質問しました。彼は注意深く聞いていましたが、私がステイプルトンの名を口にすると、あの男は善人を装っているが、実はそうではないのだと言いました。
「どういうことだい」 と、私はたずねました。
「ほほえみをうかべた親しげな顔の下で、実は冷静に殺人をたくらんでいるのだ。冷酷で計画的な殺人だよ。今は詳しく説明できないけどね。ぼくの計画はね、あいつがサー・ヘンリーに手を出すまさにそのときに、あいつを追いつめることなんだ。唯一の危険は、あっちが先に計画を完了させてしまうということだ。あと1日かそこらで、こちらのやつに対する調べは完全になるんだがね」 と、ホームズが言いました。

 もはや人目をはばかる必要はないと彼が言うので、私はいっしょにバスカビルの館へもどったのでした。シャーロック・ホームズに会うと、サー・へンリーはたいへん喜びました。「ホームズさん、何かすでに見当をつけておられるのですか。もう何かわかりましたか」 ホームズは、もしサー・へンリーが、そのときが来て黙って言われたとおり行動するならば、事件はそう長くかからずに解決するだろうと言いました。サー・ヘンリーはそれに同意しました。それから彼は自分の部屋へ行きました。

 彼が行ってしまうと、ホームズと私は大広間に行きました。大広間の壁には300年以上にわたる歴代のバスカビル家の当主の肖像画がかけられていました。ホームズはそれらの肖像画をひとつひとつ丹念に見て歩きました。やがてホームズはとって返すと、ランプをとくに一枚の肖像画の方に向けてそれを綿密に調べました。それは黒いベルベットにレースの付いた服をまとった男、悪名高いサー・ヒューゴの肖像画でした、もとはと言えば、すべてこの男から始まったことでした。
「この絵を見たまえ、ワトソン君」
私は言われたとおりにしました。そこには薄い唇に冷たい目をした、いかめしい顔つきの男が描かれていました。

 「さあ、もう一度見てくれたまえ」 と、ホームズが言いました。
ホームズはいすの上に立つと、片手で幅広の帽子と巻毛をかくして、顔だけが見えるようにしました。
私はおどろいて飛びあがりました。サー・ヒューゴの顔と、私たちがステイプルトンという名で知っているあの男の顔とが、ほとんど信じられないくらいそっくりだったのです。「ステイプルトンと瓜二つだ」 と、私は言いました。

 ホームズは笑いました。「そのとおりだ、ステイプルトンがバスカビルー族の血を引いていることばまちがいない。これで我々はなぜ、あの男がサー・ヘンリーを敵にするのか想像がつくぞ。心配ご無用、明日の晩にはあいつのしっぽをつかんでやるさ。このことはサー・ヘンリーには知らせないでくれたまえ」
ホームズは早起きをして上機嫌のようでした。サー・へンリーは、その日の晩、ステイプルトンの家に招待されていました。彼は私とホームズに、いっしょに行かないかとたずねました。「せっかくですが」 と、ホームズは言いました。「あなたは、お一人で行かなければなりません、というのは、私とワトソンは重要な用件でロンドンに行かなければならないからです」
ロンドンにもどるということは私も初耳でしたが、私は何も言いませんでした。サー・ヘンリーはがっかりしたようでした。「私もみなさんといっしょにロンドンにへ行きたい気持です」

 「あなたはここにいてくれないと困ります」 と、ホームズは言いました。
「私の指示に黙って従うと約束しましたね。私はあなたに予定どおり、今夜あなたの友人のステイプルトンのところへ行っていただきたいのです。それからあなたは荒地を通る道を歩いて帰ってください。ステイプルトンには、あなたが荒地を歩いて帰るつもりだということを告げてください」
「しかし、それこそまさに、してはいけないとあなたが私に言われたことではありませんか」と、サー・ヘンリーは答えました。
「私を信じてください」 と、ホームズは強調しました。「今回はなんの危険もありません。このことは、たいへん勇気のいることです。ステイプルトンの家からグリンベンの村へ向かう荒地の道を決してそれたりしないでください。何がなんでもその道を通ってくださいよ」 私もサー・ヘンリーと同様ホームズの意図がまるでわからなかったのですが、 そのことを口には出しませんでした。
2時間後、私たちはバスカビルの館を後にし、鉄道の駅に向かいました。
駅のホームで馬車の御者を返しました。御者が見えなくなると、彼は私にどこへも行かないのだと言いました。ホームズの計画の一部は、ステイプルトンに私たちがロンドンにいると思わせ、その結果サー・ヘンリーに手を出してもだいじょうぶだと思わせることでした。ステイプルトンがサー・へンリーに危害を加えようとすることこそ、ホームズが望んでいたことだったのです。私はそれほどびっくりしませんでした。シャーロック・ホームズが私を含め、誰かに自分の計画の全貌を話すことはめったになかったからです。

 私たちは食事をしながら、ステイプルトンのことについて、さらに話し合いました。ホームズは数葉の写真と証人の供述書の写し、及びいろいろな書類を持っていました。それらは、ステイプルトンが別の名前でイギリスの他の地域にしばらく暮していたことを証明するものでした。
食事が済むとホームズは、御者と馬車を雇いました。彼はまだ私たちがこれから何をするのか、あるいは何を待つのかを教えてくれませんでした。
私たちは暗やみのなかを走っていきました。御者がいるので、私たちは大っぴらに話はできませんでした。荒地にもどってきたとき、私は心臓が高鳴るのを感じました。

 御者は私たちをバスカビルの館の近くで降ろしました、私たちは、ステイプルトンの家の方角へ道を折れると歩きはじめました。ずいぶん長い道のりに感じられました。グリンぺン沼の方に一面霧がたちこめていました。
ホームズは、ステイプルトンの家から200ヤードほど離れたところで歩を止めました。「これがいい。この岩が我々の姿をかくしてくれる」 と、ホームズは言いました。

 私たちは岩陰のくぼみに入りました、そこからでも家は見えましたが、離れすぎていたので、中で何が起っているのかは見えませんでした。
数分後ホームズは私に、はっていってサー・ヘンリーとステイプルトンが何をしているか見てきてくれとたのみました。私は爪先で歩くようにして、低い果樹園の塀のところまで進みました。一か所カーテンを引いてない窓から、彼らが夕食をとっている部屋の様子がのぞける場所がありました。ステイプルトンが何か話しています。サー・ヘンリーは顔色が青ざめています。おそらく一人で荒地を通って帰ることが気にかかっていたのでしょう。
私がのぞいている間に、ステイプルトンは席をはずしました。彼は外へ出ると納屋へ入っていきました。私は奇妙なつかみ合いをするような音を聞きました、それから1、2分すると彼が出てきて、ドアに鍵をかけ、サー・へンリーのところへもどりました。私ははってもどると、ホームズに私の見たことを報告しました。

 そのころになると、グリンベン沼にたれこめていた霧が私たちの方へ流れてきはじめました。「これはまずいぞ、ワトソン君。霧がこっちへやってくる。霧が道のところまでやってくる前に、サー・ヘンリーが出てこないと困る。彼の命はそのことにかかっているのだ。もう10時をまわっているのだから、彼はあまり長居をするはずはないのだが」
1分、2分と私たちは持っていました、霧がだんだん近づいてきます。霧の端のうすいところが、ステイプルトンの果樹園の一番遠くの塀のところにせまっていました。霧はゆっくりと、木々の間を忍び寄ってきます。
「今すぐ彼が出てこないと、我々は彼を見失ってしまうぞ」 と、ホームズは言いました。「少し高いところへもどらねば」 霧はまだゆっくりと広がってきます。ホームズはひざをつくと、地面に耳をあてました。「足音がする、彼が出てきたようだ」
そこで、私にも彼の足音が聞こえました。私たちは岩の間に身をひそめて、霧のなかをだんだん大きくなってくる足音の方をじっと見すえていました。サー・ヘンリーが霧のなかから足早に現れました。彼は私たちのそばを通りすぎました。ときどきおびえたようにあとをふり返っています。
「ワトソン君! 来たぞ」 と、ホームズが叫びました。

 私たちのところから、およそ50ヤードのところに、霧をやぶっておそろしい姿をしたものがとび出してきました。私はおどろいて立ち上りました。
犬です。巨大な黒い犬だったのです。口から何か光が出て、目やあごのあたりがちらちらとまたたいているように見えました。これほど身の毛もよだつような恐ろしいものを他に見たことはありません。大きくはずむような足どりで、そいつは私たちの友人、サー・ヘンリ一のすぐ後を追っていきました。私たちがおどろきひるんだので、我に返ったときには、そいつは私たちのところを通りすぎてしまっていました。そのとき、ホームズと私は同時に発砲しました。そいつは苦痛のうめき声をあげましたが、足を止めずに走っていきました。
サー・ヘンリーはふり返りました、絶望的な恐怖にかられて、自分におそいかかってくるそいつをみつめています。

 しかし、犬が苦痛の鳴き声をあげたことで、魔犬などではなく、普通の生きものだということがわかりました。ホームズは犬の後を追いかけました。私たちはサー・ヘンリーの悲鳴を聞きました。犬は彼にとびかかり、地面に押し倒し、まさにのど笛をおそおうとしています。ホームズはそいつに向けて5発銃をうちこみました。そいつはあお向けにころがると宙をかき、それから倒れて動かなくなりました。私もピストルを抜いてそいつの上に体をかがめました、しかし、その巨大な犬は死んでいました。
サー・ヘンリーは気を失っていました。まぶたがふるえています。私は携帯用のびんに入っているブランデーを彼に飲ませました。
「びっくりした! これはいったい何だったのですか」 と、ささやくような声で言いました。
「何であったにしろ、もう死んでしまいましたよ」 と、ホームズが言いました。「一家の幽霊を永久に葬り去ったのです」
犬の大きさはものすごいものでした。純粋のブラッドハウンド種でもなく、マスティーフ種でもありませんでした、両方の雑種で小さな雌のライオンくらいの大きさがありました。頭と両あごが青っぽい光で輝いているように見えました。私がその頭に触れた指を上げると、暗闇のなかでかすかに青く光りました。
「リンだ」 と、私は言いました。
「悪がしこい手を使ったな」 と、ホームズが答えました。
私たちは、ステイプルトンが銃声を聞いて、事が失敗したのに気づいただろうと思いました。私たち3人は彼の家へ行って、部屋という部屋をさがしましたが、めざす人物は姿を消してしまっていました。ホームズの計画にぬかりはありません、ステイプルトンの逃げ道はグリンベン沼を抜けるルートだけなのです。霧のなかに彼を追っても無駄なことなので、私たちはバスカビルの館へ帰りました。道すがらホームズはサー・ヘンリーに、ステイプルトンがどうやって彼を殺そうと謀ったのかを説明しました。

 犬が死んだ翌朝は、霧も晴れていて、モーティマー医師がグリンベン沼を通る道へ案内してくれました。朽ちた葦やどろどろした水草から腐敗臭がただよい、私たちは何度も、ももの部分まで、ぶよぶよの中にはまってしまいました。
私たちより前にこの道を通った者の痕跡がありました。さらに進むと、ステイプルトンの帽子がみつかりました、昨夜霧のなかを彼が逃亡中に落としたものでした。それが、私たちのみつけた最後の彼の形跡でした。大地が真実を語るならば、このグリンベン沼のまん中のどこかで腐った泥に吸いこまれて、ステイプルトンは、永久に埋葬されてしまったのです。

 ステイプルトンが犬を飼っていた古い小屋の中には、非常に強力な鎖と山のような骨のしゃぶりかすと、犬の頭やあごを塗って幽霊のように見せかけるために使ったペーストの混合剤のカンがありました。このペーストがおそらく、サー・チャールズを恐怖のために死に至らしめる原因となったのに相違ありません。

 ステイプルトンはサー・チャールズとサー・ヘンリーをおそわせた夜以外は、自分の家に犬を飼っておこうとはしませんでした。彼は犬を隠しておいたのですが、その声までは隠せなかったのです。
それでも、まだわからない点がいくつもありました。それは、数日後、ロンドンへ帰る汽車の中でホームズが説明してくれました。
ステイプルトンは本当にバスカビル一族の者でした。これは私たちにとって、ちょっと意外なことでした、事件のはじめにモーティマー医師が、サー・ヘンリーこそバスカビル家最後の人物だと言っていたからです。
それは事実とは違っていたのです。サー・チャールズの弟のロジャーは、ブラジルで黄熟病にかかって死んではいなかったのです。実際は、彼は結婚していて、同じロジャーという名の息子がいたのでした。この息子こそ、後に私たちがステイプルトンの名で知ることになる人物だったのです。
ステイプルトンがイギリスにやってきたとき、彼はバスカビル家の莫大な財産と自分の前に立ちはだかるバスカビル家の人間が、1人か2人しかいないことを知りました。
はじめは彼の計画もはっきりとしたものではありませんでした。最初にしたことは、バスカビルの館近くに居を定めることでした。次に彼はサー・チャールズと親しくつき合うようになりました。
サー・チャールズが彼にバスカビル家の呪いの話をすると、ステイプルトンはそれを現実のものにする方法を思いついたのでした。もう一人の友人、モーティマー医師から聞いて、彼はサー・チャールズが心臓を病んでいて、はげしいショックは命取りになることを知っていたのです。彼はロンドンのフラム通りの業者から犬を買いました。その店で一番たくましく大きくてどう猛な犬でした。

 ステイプルトンが何回くらい夜中に犬を連れて待ち伏せしながら、うまくいかなかったのかは、誰にもわかりません。ある晩サー・チャールズが車道を散歩しているときに、ステイプルトンは犬を放ったのでした。サー・チャールズは恐怖にかられて走り、心不全をおこしたのです。ステイプルトンは犬を呼びもどすと、グリンベン沼の小屋に連れもどしました。
ステイプルトンは、このときカナダにもう一人、バスカビル家の人間がいることを知らなかった可能性が高いようです。そこでサー・ヘンリーの存在を知ったステイプルトンは、少なからずショックを受けたはずです。
彼は、第2の殺人を計画せねばならなくなったのです。
ホームズは、私が荒地に隠れている彼をみつけたころには、ステイプルトンに対する事件のあらましをつかんでいました。それに、ステイプルトンを現行犯でつかまえなければならないこともわかっていました、何一つステイプルトンの犯罪を立証する証拠がなかったからです。そこでサー・へンリーにステイプルトンが事を起すよう、おとりになってもらったのでした。

 まだ一つよくわからないことがあります。サー・ヘンリーを殺せたとして、ステイプルトンは自分の正体を明かさずにどうやってバスカビル家の一員だと主張するつもりだったのでしょうか。彼はあの地域に偽名を使って2年も住んでおり、また2人も奇妙な死に方をしているはずなのに。
ホームズもこれについては本当の答えを見いだしてはいません。ステイプルトンはひそかにブラジルへもどって、そこからロジャー・バスカビルという本名を使って、バスカビル家の財産を要求するつもりだったのかもしれません。そうすれば、彼はイギリスに来ないですみます。
一つだけたしかなことは、あの残忍で悪質な男のことですから、何か方法を考え出そうとしたはずだということです。


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