レディバードブックス100点セット
 

 

ローナ・ドゥーナ

〈学校生活の終り〉

 私の名前はジョン・リッドといいます。私は、イングランドの西部、エスクモアのプロバー家の農場で、生れ育ちました、チャールズ二世が王位についていたころのことです。
私の父は、オーの教区ではたいへん尊敬されている農夫でした。彼は私に教育を受けさせようと思い、ティバートンにあるブランデル氏の学校に私を入れました。しかし、1673年11月29日、12歳の誕生日の日に、私は連れもどされたのです。
私は友だちに菓子を買ってやるのに、小遣を全部使ってしまっていました。そして、私たちは門によりかかって取っ組み合いをしていました。赤ら顔の男が小馬を引き、馬に乗ってこちらへやってきました。彼は少年たちに呼びかけました 「ぼっちゃんがた、我が家のジャン・リッドはどこにいるか知らねえだか」
「ここにいるだよ、ジャン・リッドは」 と、活発な小さな少年が、彼の田舎なまりをからかって言いました。
「では、会わせてくんろ」 と、ジョン・フライは言いました。彼は父の使用人の1人でした。          

 「おおー、ジョン!」 と、私は声をあげました。「なぜ、こんなひどい寒さの中を、荒野を越えてやってきたの、それもぼくの小馬を引いて。休みは2週間先の水曜日からだよ」
ジョン・フライは鞍の上で身をかがめ、私から目をそらしました。それから、のどで、かたつむりがガラス窓をはうような音をたてました。
「おれたちはみんなそのことをよく知っているだよ、ジャンぼっちゃま。奥さまはリンゴを全部貯えなすったし、ベティばあやは、ぼっちゃまの大好物のブラック・プディングを作っただ──みんな、ぼっちゃまのためですだ。今となってはみんなぼっちゃまのためですだよ」
彼は話をやめたので、私は恐怖にかられました。
「そしてお父さんは──お父さんはどうなの。ジョン、お父さんも町に来てるの。お父さんはいつもご自分で僕を連れにくるのに」
「だんなさまは、羊飼いの小屋を曲がったところでお待ちですだ。クリスマス用のベーコンとリンゴ酒を作るので、お宅から離れられねぇだ」
彼はそう言いながら、馬の耳を見ていました、私にはそれがうそだとわかりました。私の心は鉛の塊のように重くなりました。それ以上はこわくて質問できませんでした。小馬のべギーは鼻を鳴らして私の指に顔を近づけてきましたが、私はその鼻をなでてやることもしませんでした。

〈ドゥーン一族が通りすぎる〉

 ティバートンからオー村までは長い道のりでした、そして、道は穴ぼこだらけ、泥だらけ、岩だらけでした。ダルバートンに着く前にお昼になりました、そこで、私たちは馬を休ませるために止まらなければなりませんでした。
ジョン・フライは白馬亭という宿屋に入っていって、まるでエスクモアの高原で羊を呼んでいるかのような大声で叫びました 「あたたかい羊肉のパイを2人前、5分で出してくれよ。肉汁もつけてな」
(料理が出てくるまで5分以上かかりましたが、待っていた値打はありました。それから50年たちますが、私はまだその肉汁の味を覚えています!)

 私は外へ出て、井戸で顔を洗いました。ある婦人付きの女中は、たいへんきれいで外国人のような人でしたが、女主人に水を一杯持っていこうとやってきました。彼女は私の目が青いといって私をからかい、私のことを 「かわいい男の子」 と呼び、井戸のポンプを押してくれと私に頼みました。
私たちは途中でまた彼女に会いました、彼女はウォッチェットに向かう、大きくて、がたがた音のする馬車に乗っていました。

 彼女はぜいたくな服を着、やさしそうな茶色の目をした黒い髪の美少女といっしょでした。かわいい男の子をひざに抱いた立派な婦人が、私たちのそばを通りすぎるとき、私と小馬にやさしくほほえみかけました。
その馬車は別の道を行き、私たちはオーへと向かいました。時がたつにつれて、旅はますますひどいものになりました。霧が荒野に深くたちこめました。馬の頭がゆれるのが見えるだけでしたし、聞えるものといったら、馬のひづめが水たまりをはね返す音だけでした。
ジョン・フライのよそ行きの帽子が、私の目の前で上下に動くのが見えました。彼は片方の肩を上げて、鞍の上で半分眠っていました。突然、彼は目を覚しました。
「これはおどろいた。おれたちは今どこにいるんだべ。古いトネリコの木は通り過ぎただかね、ジョンぼっちゃま」
私はその木をまだ見ていませんでした。私たちは耳をすましました、すると、低く、物悲しいキーキーいう音がくり返し3度問えました。私はそれが、四つ角にある、強盗を絞首刑にする絞首台のくさりの鳴る音だと知っていました。
「あれば荒野の向うから、わしたちの羊を盗みにきたレッド・ジョン・ハナフォードだべ」と、ジョン・フライは言いました。「あんなにキーキーと音をたてるなんて、かわいそうに」

 そのころには、私たちもどこにいるのかわかっていました、エスクモアでもっとも高い場所であるダンカリー灯台から2マイルほど離れた、ドゥーンの小道の近くにいたのです。
「ひょっとしてドゥーン一族が今夜外に出ていたら、わしたちは腹ばいで進まなければなりますまい、ぼっちゃま」,
それがどういう意味なのか、私にはわかっていました──あの血に飢えたバグワージィのドゥーン一族、デボン、サマセットにおける恐怖の的、無法者で、裏切り者で、人殺しのドゥーン一族のことをいっているのでした。
私は、死んだ強盗をつないだくさりがキーキー鳴る音をうしろに聞き、生きている恐ろしい連中が前にいることを思い、ペギーのそばで恐ろしくて足がふるえだしました。
すると、彼らの音が聞えたのです。馬のひづめがぬかるみの地面を走る音。疲れた人びとがぶつぶつ言う声。あぶみがふれ合う音、鉄がガチャガチャ鳴る音。馬が鼻を鳴らす音もしました。
私たちは馬からすべり下りて、ヒースの茂みの中に身を伏せ、馬に乗って下の道を通っていく男たちを見下ろしました。運がよければ、ドゥーン一族の者たちは私たちの馬を野生の馬だと思うことでしょう。
ちょうど先頭の馬が通ったとき、霧が晴れて、強い赤い光が空に輝きました。それは、ドゥーン一族の者たちに帰り道を教えるダンカリー灯台の光でした。ほのおと煙がねじれながら空に立ちのぼっていくのは、すさまじい眺めでした。

 その赤い光は、下の岩だらけの谷間へ通っていく馬上の男たちを浮かびあがらせました。鉄の胸当てをつけた革の服を身につけ、鉄砲を持った、とても大きく向うみずな、どっしりとした男たちでした。彼らは赤い夕焼けの中を雲のように進んでいきました。
背後に羊の死骸をぶら下げた男もおり、死んだ鹿をぶら下げている男もいました、1人の男は鞍の前輪に子どもを乗せていましたが、その子が生きているのか、死んでいるのかはわかりませんでした。しかしその子の黒い髪の毛と、宝石できらきら光っている立派な服がちらっと見えました。

 私は危険を忘れ、怒って彼らに向かって叫びました。しかし、彼らは私のことを荒野の小妖精だと思い、笑いながら行ってしまいました。
お父さんは羊飼いの小屋にも、曲がり角にもいず、さらに家でも、私を迎えに出てくれませんでした。
しかし、お母さんと妹たちが泣きながら出てきました。ドゥーン一族の者たちが、市場から帰る途中のお父さんを殺したのでした。お父さんといっしょにいた農夫たちは、争わずにお金をさし出したのです。しかし、お父さんはドゥーン一族にたち向かいました。彼の馬は、お父さんを乗せないでもどってきました、そして、次の日、彼の死体が荒野でみつかったのでした。

〈ドゥーンの谷〉

 私の父は埋葬され、お母さんは父親のない3人の子どもを育てていかなければならない未亡人として残されたわけです。悲しみ、怒って、彼女は頭には茶色の頭巾をかぶり、肩に黒いショールをかけ、だれにもなにも言わずドゥーンの門へと出かけました。
それは、ほんとうは門ではなく、暗いトンネルへの入口でした。そのトンネルを抜けると、彼女は深い緑の谷のはずれに立ちました、谷は完全な楕円形で、山々をえぐりとってできていました。高い崖が四方をとり囲み、小川がまん中を流れていました。

 石造りの粗末な家が14軒ありました。奥にある大きなのがドゥーン一族の首領の家でした。
すべては平穏で、悪とは無縁に見えました、しかしここに人殺しが住んでいるのです。
私の母は体がふるえました。彼女は農夫の妻にすぎないのに、ドゥーン一族は高貴な家がらの人たちでした。しかし彼女は死んだ夫のことを思い、首領に話しにいきました。
背の高い白髪の老人、エンザー・ドゥーン郷が彼女を迎えました、彼はなたがまを手にし、手袋をはめていました。

 しかし、彼は決して普通の老人ではありませんでした、彼の声やしぐさから、それが彼女によくわかりました。彼女は夫に起ったことを話し、わっと泣きだしました。
エンザー卿は眉をしかめました。「これは重大な問題ですぞ、奥さん。カウンセラーを呼んでこい」 と、彼は命令しました。
カウンセラー・ドゥーンは、たいへんな力持の肩の張った男でした。彼は長い灰色のあごひげを生やし、たいへん長い眉毛をしていました、眉毛は樫の木にからまるツタのように、顔にかかっていました。エンザー卿は私の母が言ったことを彼に話しました。
カウンセラーはその悲惨な話に動揺しませんでした。彼は、ジョン・リッドが先にドゥーン一族に攻撃をしかけ、彼らから強奪しようとしたのだと言いました。カウンセラーの息子のカーバーが、ただ強盗をおどろかして追い払うつもりだったのに、撃ち殺してしまったのだ (ということでした)。
私の母はこのうそで固めた話にあまりにもびっくりして、なにも言えませんでした。エンザー卿は、ジョン・リッドが酔っ払っていたともほのめかしました。
彼女が涙をふいて、よろめきながら歩きだしたとき、お金のはいった重い袋をもって、1人の男が追いかけてきました。
「首領がこれをあなたにとよこしました」 と、彼は小声で言いました。
「これを子どもたちのところへ持って帰りなさい」
しかし、母はまるでそれに刺されでもしたように、それを払いのけました。彼女はドゥーン一族のあわれみも、お金も受けたくなかったのです。

 ドゥーン一族は貴族の出でした、しかし、彼らは同族のローン伯爵といさかいを起し、自分たちが持っていたスコットランドの領地を失ってしまったのです。エンザー卿はチャールズ一世の不興を買い、処罰を逃れてこの遠く離れた谷間に家族と移り住んだのでした。彼らは家畜や収穫を求めて農場や村々を襲撃し、妻にするため農夫の娘たちを掠奪しました。
彼らはみんな巨大な男でした。彼らは20歳になると、1人ひとり、エンザー卿の家の大きなドアのところにはだしで立たなければならないということでした。ドアいっぱいにならない男は、谷間から追放されました。私が20歳になるまでには、私はそのドアのわくを肩で運びさることができたでしよう。人びとは私のことを 「がっししたジャン・リッド」 と呼びました、私は成人して、大きく、また背も高くなったからです。しかしそれは何年か後の話です。

〈バグワージーの流れ〉

 私がドゥーン一族と次にめぐり合ったのは、14歳のときでした。私は寒い2月のある朝、母の夕食に魚をとろうと、小川へ出かけました。
私は靴を首のまわりにぶら下げ、半ズボンをまくりあげて、氷のように冷たい水の中にはだしではいっていきました。小石の間を泳ぎまわったり、岩の下にかくれようとしたりしている灰色のはん点のある透明な魚をつきさすために、私は三つ又のやすを持っていました。
私は2マイルほど上流にさかのぼり、茶色のパンと冷たいベーコンを食べようと足を止めました。足がたいへん冷たくなっていたので、暖かさをとりもどすため、私はとげのあるイラクサで足をこすらなければなりませんでした。

 やがて私は、私たちの小川に注ぎこむ別の流れに出くわしました。それはさっきの小川より川幅が広く、流れも急で、ドゥーン谷から流れていました。これはバグワージー (あなぐま) の流れでした。そして、大人でもこわくてそれをさかのぼることはできなかったのです。
しかし、私は魚をまだ十分には捕えていなかったので、おおいかぶさっている枝の下をくぐり、川沿いの深く暗くよどんだ淵の中に入ったり出たりして、先に進んでいきました。あたりはとても静かで、ときたま、おどろいて鳴く鳥の声がするだけでした。
やがて、私はやぶの切れ目にぶつかりました、そこには、まわりが泡立っている大きな暗い渦巻きがありました。
険しい滝が、はるか上の険しい崖からごうごうと流れ落ちていました。
それはガラスのようになめらかに流れ落ちていました。手すりのない階段のような狭い岩だなが両側にあるだけでした。滝のてっぺんになにがあるのか、私は知りたくなりました。
私はその岩だなをのぼりはじめました、そして、その滝の水の勢いが烈しくて、ふり落とされそうになりました。幸いなことに、私のやすが岩の割れ目につきささって、助かりました。
半ば溺れかかったようになりましたが、私はのぼり続けました。足もとはぬるぬるしてすべりやすかったのですが、私はやっとのことで崖のてっぺんにたどり着き、疲れきって、新鮮な空気と日光の中へぐらりと倒れてしまいました。

〈少年と少女〉

 私が我に返ったとき、かわいい女の子が私のそばにひざまずいて、私のひたいをハンカチでこすっていました。
彼女は大きな黒い目で私を見下ろしました。私は体を起して彼女をじっとみつめました。
「あなたのお名前はなんというの、どうやってここへ来たの、そして、この大きな袋の中のぬれたものはなあに」 と、彼女はたずねました。
「母さんの夕食のための魚だよ、しかし、ほしければ少しあげるよ」
「靴も靴下もはかないで。あなた、貧乏人の子なの」
「そうじゃないよ」 と、私は少し怒って言いました。「ぼくの家はこの牧草地を買えるくらい金持なんだぞ。靴だって靴下だって持っているさ。ほら、ここにあるだろう。

 ぼくの名前はジョン・リッドだ。きみの名前は」
「ローナ・ドゥーンよ」 と、彼女はおずおずと答えました。「私の名前は知っていると思ったのに」 彼女は恥しそうでしたが、そのうち泣きだしてしまいました。
「泣くんじゃないよ、ローナ」 と、私は言いました。「君はきっと、だれにも害を与えたことなんかないもの」
彼女はたった8つでした、私は彼女をたいへんかわいそうに思い、彼女にキスしました。彼女は少し怒った様子で、唇をぬぐいました。それから彼女は言いました 「なぜ、あなたはここに来たの。あなたは私といるのがみつかれば、殺されてしまうわよ」
「なぜ」
「あなたがここへ登って来る道をみつけたからよ。私、あなたが好きよ、ジョン・リッド、だけど、お願いだから出ていって。いつかまた来てね」
私は近いうちにまたやってくると約束しました。
ちょうどそのとき、下の谷間で叫び声がしました。ローナはびっくりしたようでした。私たちは茂みの中にもぐりこみました、10人あまりの荒々しい男たちが 「王女さま、王女さま、おれたちの王女さまはどこへ行ったのかな」 と呼びかわしながら、空地に乗り入れてきたのです。
ローナは茂みからはい出して、草の上に横たわり、眠っているふりをしました。私は水の中にすべりこみ、息ができるように、頭を少し水の上すれすれに出しました。

 大きな荒くれ男たちは馬であたりを駆けまわり、やがてローナをみつけました。1人が彼女を拾い上げ、鞍にのせていきました、彼女の紫色のベルベットのスカートが、その男の黒いあごひげの下で、ばたばたと波うちました。ローナは、一番大きく、強そうな男のそばに乗りながら、私の方を向いて手をふりました。
どうにかこうにか、私は滝をおりました、冷たくおなかをすかせた滝の水が、まるで黒い犬のように私の手足をなめました。

〈プロパー家のバロー農場で時がすぎる〉

 農場での生活が続き、私はローナのことを忘れました。私は成長するにつれて、父のかわりになるように努め、母や妹の面倒をみました。
アニーはやさしくて美しく、頬はバラ色で目が青く、だれからもたいへん好かれました。彼女は小さいながら、料理が得意でした。リズィーはいつも本を読んでいました。私たちの家政婦の年とったべティ・マックスワージーは、かつて父の乳母だったのですが、私たちみんなの世話をしてくれました。
私たちにはいとこのトム・ファッガスがいました、彼は追いはぎでした、私のあこがれの的だったのです。
ある日、農場が洪水に見舞われ、私たちの年老いたアヒルが水の中の障害物につかまってしまい、頭だけ出してガーガー鴫いていました。
トム・ファッガスが、彼の美しい雌馬ウィニーで乗りつけて、激しい流れに入っていきアヒルを救い出しました。アヒルはガーガー鳴いて感謝の意を示しました。足の強いその馬は、トムの言うことはなんでもわかり、一度ならず彼の命を救ってくれていました。
「おれを、ぶつふりをしてごらん」 と、トムは言いました 「そして、彼女がどうするか見ていてごらん」
私は手をあげました、するとウィニーは私のベルトをくわえて、私を高くつるしあげました。

 そのままにしておけば、彼女は私を投げおろして、ふみつぶしてしまったことでしょう、しかし、トムが止めてくれました。
「おまえの動物のどれかが、おまえのためにあんなことをやってくれるかい」 と、トムはたずねました。「ウィニー、この魔女め、おれたちは死ぬときはいっしょだぞ」
トムは貧乏人から奪いとることはしませんでしたし、婦人を侮辱したこともありませんでした、そして、だれの血も流したことはありませんでした。善良な人びとはみんな、ドゥーン一族を憎むのと同じくらい、彼を好いていました、というのは、彼は教会に寄付したり、貧しい人たちにお金を与えたりしていたからです。
もうひとり、母の弟のベン・ハカバック叔父もたずねてきました。彼はドゥーン一族の心ない悪ふざけの犠牲者でした。
彼らはある霧の深い大晦日に彼をおそい、彼を小馬の上にうつぶせにしばりつけて、荒野にその小馬を放したのです。私が彼をみつけました、私は後になってドゥーンの谷間をさぐるために、彼を山の上へと連れていきました。
そのとき、私はウサギの穴ほどの大きさのすき間が崖にあるのをみつけました、そしてちっぽけな白いものがそこをすばやく横切るのが見えました。私はいつかローナ・ドゥーンに会いにいくと言った昔の約束を思い出しました。
私はもう21歳で、ドゥーン一族のだれとでも互角にわたりあえるくらいになっていたので、その約束を果そうと決心しました。

〈滝への再訪〉

 私が初めてバグワージーの流れを登ってから、7年たっていました。昔は膝まであったその流れも、今はかかとまでしかありませんでした。しかし、大きな黒い渦巻きやすべりやすい岩肌は、相変らず近づきがたいものでした。私は苦労して、てっぺんにたどりつきました。
そこには美しい光景がありました。ローナが小川のへりの桜草の間をこちらへやってくるところだったのです。白いすみれの花輪が彼女の黒髪をかぎっていました、そして夕日が彼女の姿を照らしていました。
彼女は私を見ると逃げ出そうとしました、しかし、私はただ 「ローナ・ドゥーン」 とだけ言いました。

 それで彼女は、ドゥーン一族から救ってやった、はだしの少年を思い出し、私にやさしく話しかけました。私はまたもどってくる、そのときには農場から卵を持ってくると約束しました。私は恥しくて、それ以上はなにも言えず、それ以上長くはそこにいられませんでした。しかし、彼女がドゥーン家の人であっても、そうでなくても、もう一度彼女に会いたくてたまりませんでした。
そこで、春になって霜が消え、羊たちがヒナゲシの中で遊ぶようになると、私はまた滝を登りました。
ローナは私に危害の及ぶことを心配して、砦の裂け目にある彼女の秘密の部屋に私をかくしました。入口はツタでかくされていました、中の洞穴は小さな部屋のようで、柔らかい草や、コケや、野の花がまるでじゅうたんを敷いたように生えていました。
私はコケの上に、彼女のために持ってきた卵を置きました。彼女は涙をこぼし、これまでの人生16年の間、そんなにやさしくしてくれた人は1人もいなかったと言いました。
それから、彼女は身の上話をしました。ドゥーン一族の人たちは彼女を王女さまと呼んでいました、彼女の亡くなった父親がエンザー卿の長男だったからです、それで彼女はその小さな王国の後継ぎでした。彼女の祖父はたいへん年老いてきびしく、彼女は叔父のカウンセラーを恐れていました。
彼女はその居心地のよい谷間で幸福に過せたはずでした、しかし、ドゥーン一族は凶暴で野蛮でした。彼女になにが正しく、なにが正しくないかを教えてくれる人は1人もいませんでした。
もっとも悪いことには、彼女は適齢期になったら、カーバー・ドゥーンと結婚することになっていたのです。彼女のたった1人の友だちは、グゥエニー・カーファックスという名のコーンウォルの少女でした、その子は荒野の中をさまよっていたところをみつけられたのでした。
ローナはドゥーン一族が私をみつけだすのを恐れていました、そこで私は合図があるまではそこへは来ないと約束しました。しかし、私は何とかして彼女を一族の手中から救い出そうと決心しました。

〈イングランド西部での厄介こと〉

 私は家に帰ると、ロンドンに呼ばれました。王さまの使者のジェレミー・スティックルスが、チャールズ2世の命令で私を連れにきたのです。西部に反乱が起りました。ジェフェリー判事は、だれが王の敵なのかをさがす仕事の責任者でした。彼は私に質問しましたが、私はなにも知りませんでした。私の友だちは、みんな忠実なまことの臣民でした。
私は彼に無法者のドゥーン一族について話し、トム・ファッガスのことはよく言っておきました。(トムは追いはぎをやめて、私の妹のアニーと結婚できるように、王の許しを乞うていたのです)。
判事は私が気に入りましたが、正直すぎてスパイの役目はつとまらないと考えました。そこで私は帰宅を許されました。ほぼ1年たっていましたので、1人ドゥーン谷に残っているローナのことがたいへん気がかりでした。
私はローナの合図、すなわち白い石の上の黒い布を見ることができる丘の頂上に直行しました。私はまっすぐに彼女のところへ行きました。
「どこに行ってたの、私がこんなに困っているのに」 と、彼女は泣きながら言いました。
ドゥーン一族の若者たちは、だれがローナと結婚すべきかについてけんかを続け、お互いに戦っていたのです。エンザー卿とカウンセラーは、その事態を解決するため、彼女がカーバーとの結婚を約束するよう望んでいました。彼女はたった17歳で、彼は35歳でした。
私はロンドンから、サファイアのまわりに真珠をあしらった指輪を彼女のために買ってきていました。私はどんなに深く彼女を愛しているかを告げ、結婚してほしいと頼みました。
「おお、ジョン、私はとてもあなたが好きよ。しかし、まだ愛していないわ。指輪はもう少し待っていてくださいな」 と、彼女は言いました。しかし、彼女はたいへんやさしくほほえんだので、私を愛するようになるかもしれないと、私は希望を持ちました。
私は2か月間、ローナに会いませんでした。

 そうしているうちに、夜、荒野で秘密の会合が開かれているという、うわさが流れ、武器がかくされているという話もでてきました。ジェレミー・スティックルズは軍隊をひきいて、その土地をさぐりにやってきました。
彼は私に法を守って、王の味方をし、マンモス侯を支持する反逆側につかないようにと警告しました。
やがて、ついにローナが私を呼びよせました。彼女は私を愛している、だから、指輪をもらいたいと言いました。彼女は指輪と交換に私にあるものをくれました──それは彼女が子どものころつけていた、ガラスのネックレスの前に下がっていた古くて重い金製のものでした。
私は幸せな気持で家に帰りました。しかし、私が次に滝を登ったときには、ローナの姿はどこにもありませんでした。

〈ローナの危機〉

 私は、なにが起ったのかを発見するただひとつの方法は、別の方向から谷間へ入りこむことだと決心しました。私は危険をおかしてそうせずにはいられなかったのです。
山々を迂回して登るのには長くかかりました。馬を連れていくことはできませんでしたし、月の光の中で稜線に身をさらすこともできませんでした。
トンネルに着いたとき、幸運にめぐまれました。2人の見張りがトランプのゲームのことでけんかをしていて、1人がカンテラをけとばしてしまったのです。私は暗やみにまぎれて、そっと通りすぎることができました。
エンザー卿の家に違いないと思われる、一番大きな家に着くまで、私は家々の陰をぬって歩きました。窓にあかりが見えました。私はローナと小声で呼びました、すると、しばらくしてローナが格子窓のところに出てきました。

 「気でも違ったんじゃないの、ジョン」 と、彼女は肝をつぶして叫びました。
「なにが起ったんだ」 と、私はたずねました。
「おじいさんが重病なの、カウンセラーとカーバーが、みんなの指揮をしているわ。彼らにつかまるのがこわくて、家を出られなかったのよ」 と、彼女は答えました。
小さなグゥエニーも窓のところにやってきました。「彼はドゥーン一族のどの男よりも大きいだべ」 と、彼女はびっくりして言いました。「さあ、お嬢さん、私が外を見張っていますから、2人で会っておいでなせえまし」
ローナと私は合図を決めました。
「あなた、崖の上の、ミヤマガラスの巣が7つある木を知っているでしょ」
と、彼女は言いました。「グゥエニーはあの木に登れるわ、だから、6つしかみつからなかったら、私が困っているしるしだと思ってね」
ある日、私はその木を見上げました、 すると巣が6つしかありません。
私はすぐ谷間に向かいました。しかし途中まで行くと、グゥエニー・カーファックスの小さな姿が、私を迎えに茂みの中から小走りに出てきました。
「老人が死にそうですだ」 と、彼女は言いました 「お嬢さんはあんたのことを全部お話しなすっただ。老人はあんたに会いたがっているだ」
私たちは谷間に向かい、まっすぐエンザー卿の家に行きました。邪魔をする人はだれもいませんでした。

〈愚か者の2人〉

 グゥエニーは私を冷たく暗い部屋に案内しました、そこにはろうそくが2本ともっていました。いかめしい、立派な顔の白髪の老人がいましたが、その顔には死相が浮かんでいました。彼はベッドにいないで、赤いマントをはおって、背すじをのばし、堂々とした様子ですわっていました。彼は怒って私をみつめ、その大きく黒い目だけが生きているように見えました。

 「ああ」 と、彼はうつろな声で言いました 「おまえがあの大ジョン・リッドか」
「ジョン・リッドは私の名前です、閣下」
「おまえは自分がどんなことをしているのか、わかるだけの分別はあるのか」
「はい、ローナと結婚したいということが、身分ちがいの高望みなことはよくわかっております」
「ローナ・ドゥーンが、ヨーロッパでもっとも古い家柄のひとつの生れだということを知らないのではないか。それから、オーのリッド家の出というおまえの低い身分もな」

 「閣下」 と、私は答えました 「ドゥーン一族が悪漢であった2倍もの長い間、オーの一族はずっと正直でした」
老人は、結婚なんてとんでもないと言い、私にローナを呼びにいかせました。彼女は小さな窓のところで泣いていました、そこで、私は彼女を腕にささえて、老人のところに連れていきました。彼女は頭を私のチョッキのあたりにもたせかけていました。彼女さえそばにいてくれれば、私にはなにも恐ろしいものはありませんでした。
エンザー卿はびっくりしたようでした。今までに彼に反抗する人はだれもいませんでした。「愚か者たちめ」 と、彼は軽蔑したように言いました。
「愚か者たちめ」

 「たぶん私たちは見かけほど愚かではないでしょうよ」 と、私は答えました。「しかし、たとえ愚かであっても、2人ともいっしょに愚かであるかぎり、私たちは幸せです」
「そうか、ジョン」 と、老人は言いました 「おまえは私が思っていたような、ぶかっこうなのろまではなさそうじゃ」
エンザー卿は茶色の椅子に背中をもたせかけました。彼はちょっとせきをし、ため息をつきました。たぶん彼ははるか昔、自分が若かったころを思い出していたのでしょう。
「おまえたちは愚か者だ。いつまでも愚か者でいるがいい」 と、彼はとうとう言いました。「わしがおまえたちに言えるのはそれだけだ」 彼の白髪は、経かたびらのように顔にばさりとたれました。
彼の言葉からは、結婚を承知してくれたのかどうか、私にはわかりませんでした。しかし私たち2人がそばにいたので、彼は幸せそうでした。
彼は死ぬ前に、やせ細った手で、枕の下をさがしました、そしてローナの古びたガラスのネックレスをとり出しました。ローナは安全のために、それを私にくれました。
エンザー卿を埋葬する前に、その世紀一番の霜がおりました。力の強い男たちも、つるはしで壁を掘らなければなりませんでした。空は暗く重くたれこめていました、そして、ローナのほかはだれも、エンザー卿の死に涙を流す者はいなかったのです。

〈きびしい冬〉

 その年、私がドゥーン谷からローナを救い出せないうちに、冬になりました。
ある朝起きると、あたり一面に雪が降りつもり、空からもしんしんと雪が降っていました。私は苦労して、ジョン・フライの小屋までたどり着きました。私たちは三つ又とシャベルとロープを持ち、羊の番犬ウオッチを連れて、私たちの羊がいる大牧草地へと向かいました。
すると、おどろいたことに、羊の群がいないではありませんか。どこにも1頭の羊さえ見当たりませんでした、見えるものは一面の雪だけでした。
野原の一角に、雪が吹きよせられて、納屋くらいの高さにつもっているところがありました。

 そこに行くと、かすかなメーメーという鳴き声が聞こえたので、私たちは雪をどけました。羊たちは雪の下に、まるで大きなパイのようにしっかりと固まっていました。羊の息が暖かいので、そこは、よごれた黄色い雪がついた、しま模様の丸屋根の部屋みたいになっていたのです。
「どうやってこいつらを家へ連れ帰ったらいいかね」 と、ジョン・フライがたずねました。雪の吹きだまりの中を羊を追っていくことはできそうになかったからです。

 「ウオッチ、いい子だから羊たちの番をしていておくれ」 と、私は呼びかけました。それから私は、一番重そうなのを1頭ずつ両わきにかかえて庭まで連れて帰りました。私はその2頭を羊の樹にしっかりしばりつけ、また2頭連れ帰るために牧草地へもどりました。そのようにして、私はまったく1人で66頭の羊を家へ連れ帰りました。エクスモアの人たちは今でもそのことを話の種にしています。しかし、あの雪と風の中での仕事がどんなにつらいものだったかは、私のほかにはだれにもわからないことです。

〈雪の上〉

 とうとう、妹のリジーが読んでいた本の中からうまいものがみつかりました。彼女は、自分が読んだ本の中に書かれていた雪の上を歩く方法を興奮して私に教えてくれました。彼女は、北極で使われている雪ぐつとそりの絵を私に見せました。
私は強くて軽い1足の雪ぐつを作りました、トネリコで枠を作って、柳の小枝を編みこみ、その上を柔らかい皮でおおったのです。妹たちは、それをはいてなんとか歩こうとしているぶかっこうな私の姿を見て笑いました。しかし、とうとう、何回も練習して、私はなんとか歩けるようになりました、もっとも、くるぶしが痛くなり、かたくなってしまいましたが。
私は出かけられるようになるとすぐに、ドゥーン谷に向けて出発したと、読者のみなさんは思うでしょう。谷では雪が降っていて、大きな白いプディング鉢のようでした。グゥエニーは私の合図でドアを開けたとき、あえぎながら言いました 「あたしたちはここに閉じこめられて、飢死しそうですだ。お若い人、あんたが食べられるものならいいと思うだよ。あんたのものを全部でも食べられるよ」
カウンセラー・ドゥーンが、ローナがカーパーとの結婚に同意するまで、食べものを与えずに、彼女を閉じこめてしまったのでした。
幸いにも、私はアニーの作った野菜と肉入りのパイを持ってきていました、そして、それを2人の少女に切り分けて食べさせました。ローナを安全な場所、すなわち、私たちの農場に連れていく時は熱していました。

〈救出へ〉

 私はできるだけ速く家にもどって、母親と妹たちに、すぐお客を迎える用意をしてくれと言いました。すぐに火がたかれ、ベッドが干され、温かな食べものもたくさんできました。
私は新しくて軽い小馬用のそりを取り出して、自分の体を馬のようにそれにロープで結び、歩く助けとなるように木の枝を持ちました。妹のアニーはローナを温かくしておけるように、毛皮のマントをみつけておいてくれました。

 私はそりを、今はすっかり凍っている滝のてっぺんにおいて、エンザー卿の家に着きました。私はもうちょっとでまにあわないところでした。ドゥーン一族の2人の若者が押し入っていたのです。ローナは椅子のうしろにうずくまって神に祈っていました。グゥエニーは床にはって、1人の男の足首をしっかりつかんでいました。私は悪者を2人ともかかえて、窓から雪の吹きだまりの中にまっさかさまに投げ出しました。
それから私は、少女たちをそりにくくりつけて、黒いがけの間の凍った滝の面をすべり下りました。グゥエニーは力強い丸まるとした腕で、ローナをそりの中でしっかりとかかえていました。
やっとのことで、私たちは家に着きました。母親とアニーとべティがローナとグゥエニーを火のそばに連れていって、なぐさめました。彼女たちはすぐに大の仲良しになりました。ローナが眠ってしまうと、母は彼女のひたいにキスして、私に言いました 「彼女に神のお恵みがありますように、ジョン」
私はグゥエニーにベーコンと豆を皿いっぱい持ってきてやりました、彼女はたくさん食べました。

〈プロパー家のバロー農場でのローナ〉

 ドゥーン一族の者が私たちを追いかけてくる恐れはありませんでした、雪がとけて、彼らの谷が洪水になったからです。そのうえ、ジェレミー・スティックルスとその軍隊が、新しい国王ジェイムズの敵であるドゥーン一族を見張っていました。
トム・ファッガスは許されて、我が家のアニーに求婚しにやってきました。彼はローナに、あのネックレスはガラスではなくダイヤモンドで、ひと財産の値打があるのだと話しました。ローナが私にくれた指輪には家紋が彫ってあり、ローナがエンザー卿の孫娘ではないことがわかりました。
彼女は、ずっと昔に私が馬車の中にいるのを見た小さな女の子で、ドゥーン一族にさらわれたのでした。彼女のほんとうの名前はローナ・ドゥガルで、名家の相続人だったのです。

 そのようなことがわかっても、ローナにはなんの変りもありませんでした、彼女はやっとほんとうの家庭の中に安住して幸せでした。しかし春になると、彼女をおびやかせることが起りました。
ある日、彼女が母の菜園にハーブ(香車) を植えていると、茂みがわれて、邪悪な顔が現れました。それはカーバー・ドゥーンでした。ぞっとするような笑いを浮かべて、彼は長い銃をとりあげ、ローナにねらいをつけました。次に彼は銃を下げ、 彼女の両足の間の地面に弾丸をうちこみました。彼女は恐ろしさに気を失いそうになりました。

 「この次にはおまえを殺してやる」 と、カーバーはうなるように言いました 「おまえが持ち去ったものを持って、明日もどってこなければ。そして、あのばか者、ジョン・リッドもやっつけてやる」
ドゥーン一族がローナにもどってきてもらいたがっているのは当り前のことでした。彼女は、彼らをその土地にいられなくした昔の敵、ローン伯爵の相続人でしたから。
ローナはお金も称号もほしくないと言いました。彼女はただ、私の妻になりたかったのです。そこで、村の小さな教会での結婚式の日取りが決められました。結婚式は、その夏に行われることになりました。
カーバーのおどかしにもかかわらず、準備は進みました。カーバーはある夜、農場に火をつけようと、部下を連れてやってきました、しかし、間に合うように警告を受けていたので、私たちは待ちかまえていました。私は彼をつまみ上げて、農場のこやし置き場に投げこみ、部下たちの前で彼に恥をかかせてやりました。彼は私に復しゅうするぞと誓いました。
しかし、それが起る前に、この地方の人たちみんなが、ドゥーン一族に盗まれた妻たちのなかの1人を助けるために、決然とドゥーン谷を攻撃しました。ドゥーン一族の村は焼かれ、逃げることができたのは、カウンセラーとカーバーだけでした。
カーバーが黒馬に乗って、気狂いのように全速力で逃げ去るのが目撃されましたが、その後、彼の消息はわかりませんでした。

〈祭壇の上の血〉

 その夏、数マイル四方から人びとが結婚式にやってきました。小さな教会は人でいっぱいになり、ご婦人たちのガウンをふみつけるのがこわくて、私は通路を進むこともできないほどでした。
私の愛するローナは簡素な白のドレスを着てたいそう美しく、そのあまりの美しさに彼女をまともに見るのがこわいほどでした、そしてとうとう、指輪が彼女の指にはめられ、私たち2人は 「はい、誓います」 と言いました。
それから彼女は私に向き直って、澄んだ茶色の目で、いとおしそうに私を見上げました。銃声が教会の中に鳴りひびいて、彼女の目の光が消えました。
私が彼女にキスしようとしたまさにそのとき、ローナは私の膝に倒れこみ、祭壇の黄色の階段の上に血がほとばしりました。
私は彼女を抱き起して呼びかけました、しかし、なんの役にも立ちませんでした。生きていることを示すものは、鮮やかな赤い血だけでした。
もちろん私には、だれの仕業なのかわかりました。1人の悪魔──カーバー・ドゥーンでしかありえません。
私は母の腕にローナを預けて、一番良い馬にとび乗りました、手綱はつけましたが、鞍もないままでした。
だれが逃げていった道を教えてくれたのか覚えていませんが、私はその道を追いかけました、人びとがみんな援護してくれました。

 私は武器はなんにも持っていませんでした、そして、彼が銃を持っていることはわかっていました。それにもかかわらず、私は彼を殺せると疑いもなく、思っていました。
私たちは荒野の中深くまで走っていきました、カーバーが先を走っていました。彼は 「割れ岩」 に向かってせまい道をかけのぼりました。私には、その険しい登りで彼の馬の速度がおちるとわかっていました。私から逃げようと、彼は別れ道で 「魔法使いの沼地」 と呼ばれる恐ろしい沼への道をとりました。
彼は片手にピストルを持っていましたが、私はピストルなんか、なんとも思っていませんでした。ねじくれた樫の老木が頭上の険しい岩からおおいぶさるように生えていました。馬の背から立ち上がって、私はその幹から大枝をもぎとりました。
カーバー・ドゥーンは急に角を曲がって、黒い底なし沼のところに来ました。恐怖に我を忘れて、彼は馬をぐるぐるとかけさせ、私をめがけてかけよりましたが、やりすごす道はありませんでした。
彼の弾丸が私のどこかに当りましたが、私は気にもしませんでした。私は馬で彼の行く手をさえきり、樫の枝で彼の馬をなぐりつけました。人も馬もころがりました。
カーバー・ドゥーンはちょっとの間、気を失いました。私は馬からとびおりて、レスリングするときのように腕でふせいで、彼のピストルをけおとしました。

 彼は私の力こぶや、私の立ち姿、そして、なにより私のきびしい青い目から、かなわない相手に出会ってしまったと悟ったと思います。彼は真青になりました、しかし、私がそれまでにつかまれたことのないような強い力で、私につかみかかってきました。
しかし私の力は鉄のようでした。私は2分もかからないうちに彼をやっつけ、彼は舌をだらりとたらしました。それから、私は彼を投げとばしました。
「カーバー・ドゥーン、おまえは負けたのだ。それを認めて、おまえはおまえの道を行け、ざんげしながら」

  それは遅すぎました。黒い沼が彼の足もとをつかまえていました。私たちは、そんなに沼に近づいているとは気づいていませんでした。彼は倒れました、それは沼地に生えているずんぐりした木のようでした。
それから、彼は天に向かって手をさしのべました。腕はひじまで泥にうまっていました、彼の目はぞっとするような光を発していました。少しずつ、彼は沈んでいきました、そしてついには、濃い茶色の泡のほかは何も見えなくなってしまいました。どんよりとした沼は高くなったり、アシの間でそのいやらしい口をぱくぱく開けたりしていました。
私はやっと馬に乗り、心と体の両方に痛みを感じながら、夢をみているような気分で家にもどりました。ローナは死んだという考えが、葬儀の鐘のように私の頭の中で鳴っていました。

 私はよろめきながら、ベッドへ人の手をかりてたどりつきました、傷から出血して失神状態でした、そして何日もの間、意識がもどりませんでした。とうとう力が少しもどってきて、私は目を開けました。ローナが戸口に立っていました。
薬びんをみんなひっくりかえし、私の厚いほうたいに目もくれずに、彼女は私の腕の中に倒れこみました。私の青白い顔を上向けて、彼女は私にキスしました。
くどくど言うときではありませんでした。銃で撃たれた傷で彼女が死ななかったとは、私には信じられないことでした。最愛の妻とおいしい食べもののおかげで、医者もいらなくなり、私の以前の力がもどってきました。
ローナはどうかというと、そばにすわって私が食べるのを見るのにあきることがありませんでした。
彼女は今、私といっしょにいるのにあきることがありません。年ごとに彼女は美しくなっていきます。そして、彼女に過去の悲しさを思い出させていじめてやろうと思えば、2つの単語を言いさえすればいいのです。
「ローナ・ドゥーン」 と。


もどる