レディバードブックス100点セット
 

 

[大作曲家1]ベートーベン他

バッハ

 ヨハン・セパスチャン・バッハが、もし音楽家以外のものになっていたとしたら、さぞかし意外なことだったでしょう。バッハは、アイゼナハ (今のドイツ北西部) の町に、おそらくかつてなかったほどの偉大な音楽家の家系に生れました、バッハの祖先や親せきには、オルガン奏者、オーボエ奏者、それにバイオリン奏者や町楽師の笛吹き、また楽譜を筆写することでよく知られるたくさんの人がいたのです。音楽は彼らの生活の一部でした。バッハ家からは、1560年から1871年の間に、少なくとも53人もの町楽師が出ました。しかし、彼らのほとんどが、音楽だけで生計をたてられるほど才能に恵まれていたわけではありません。バイオリン奏者や教会のオルガン奏者としての給料の上に、パン焼きや織物工、粉屋や靴屋をして生活を支えていました。
バッハ家は、いつもお金が不足していました。バッハの両親は若いときに結婚しましたので、大家族でした──ヨハン・セパスチャン自身も、のちに20人の子どもの父親になっています。当時の音楽家のほとんどは、ヨハン・セバスチャンを除いて、広く他国に演奏旅行をしていましたが、バッハ家では、演奏旅行の必要性や興味を持っていませんでした。バッハ家の人びとは、ドイツの片すみにあるチューリンゲンの小さな州の素朴な尊敬すべき市民として暮すことに満足していたのです。
バッハ家は、まちがいなく音楽に満ちあふれていたことでしょうから、ヨハン・セパスチャンは、ごく小さいころから音楽に興味を持ったにちがいありません。

 バッハの父親ヨハン・アンプロシュースは、宮廷音楽家でしたが、ヨハン・セバスチャンの最初の音楽の先生になりました。ヨハン・セバスチャンの学校は朝6時から始まり、父親の音楽の授業は夕方まで続くことがたびたびでした。バッハは病弱でしたので、よく病気で学校を休みました。
バッハ家には小果樹園付きの小さな庭がありました、ヨハン・セパスチャンは、この小さな庭で自然を愛するようになりました、母親から宗教教育を受けたのもここでした。庭の芝生に静かに横になって空に浮かんでいる雲を眺めながら、小さな少年は母親が読んでくれる聖書のお話を熱心に聞きました。この聖書のお話で、バッハは幼いころから宗教に感化されました。
バッハが9歳の誕生日を迎えたすぐあと、この幸福な生活も突然終りを告げました。やさしかった母親が亡くなってしまったのです、その上、1年もたたないうちに父親までも失ってしまいました。幸いにも、長男のヨハン・クリストフは、バッハともう1人の兄弟の生活をみることができました。ヨハン・クリストフは、アイゼナハから30マイル(約50km)離れたオルドルフのオルガン奏者でした。そこで2人の兄弟は、音楽教育を続け、付近の学校へ入学しました。ヨハン・セパスチャンはその学校で人気のある生徒となりました。

 若いバッハは、ますます作曲に興味を持ちはじめました。オルドルフでの学生時代には、他の作曲家の作品をよく写して、作曲の形式を学びとって過しました。そして、もとの音楽を完全に変えて、まったく別の音楽にすることもよくありました。
ある日、バッハは、兄が書棚の中に鍵をかけてしまいこんだ楽譜を模写しようと思いたちました。書棚の前面は網格子でしたので、バッハの小さな手は、運よく書棚の中に入りました。6か月間も、バッハは、家族が寝静まってから1枚ずつ楽譜を月光に照らしながら、写し取りました。朝になるとその楽譜をもとのところへ返しておきましたので、誰にも気づかれませんでした。
ヨハン・セバスチャンも15歳になり、働いて生活することを考えるときがきました。彼は兄の家を出て友人といっしょにオルドルフから200マイルほど離れたルネブルクに移って、聖ミカエル修道院の聖歌隊に加わりました。ここでは教会音楽を完全に自分のものにしました、また、60マイルも離れた町まで歩いていけば、当時の偉大なオルガン奏者の音楽も聴くことができました、やがて、バッハは、主に讃美歌の変奏曲でしたが、オルガン曲を作曲しはじめました。

 バッハは、アルンシュタットの近くの町で、はじめて重要な仕事につきました。彼はそのとき18歳で、その町に新しく建てられた教会のオルガン奏者兼合唱隊長として雇われたのです。仕事は合唱隊の指導と、日曜日の朝8時から10時まで、木曜日は朝7時から9時まで、それに月曜日の祈とうの時間にオルガンを演奏することでした。
教会の仕事は短時間ですみましたので、残りの時間はオルガンを弾いたり、新しいことを試してみたりすることに没頭できました。やがて、ヨハン・セバスチャンは大演奏家となり、音楽の名手としての名声は、地方の小王国に広まっていきました。音楽は彼のペンから楽々と流れるように生れ、そのなかには、カンタータやトッカータ、それに最初は苦労しましたがフーガなど、数多くのすばらしい曲がありました。「イースター・カンタータ」は、アルンシュタットの生徒のために書かれたものです。
1707年、22歳のバッハは、ミュールハウゼンにある聖ブラシウス教会のオルガン奏者の職につきました。ここでの条件はあまり満足できるものではありませんでしたが、それでも数曲のすばらしいカンタータを作曲しました。彼は、この教会に1年間しかいませんでしたが、この間に、年下のいとこのマリア・バルバラと結婚しました。

 1708年の夏、ワイマール公は、バッハの音楽的才能を認めて、オルガン奏者兼楽長として迎えました。バッハは、生れてはじめて新しい職に満足することができました。このワイマールで 「トッカータとフーガニ短調」 「序曲とフーガ二長調」 などの、すばらしいオルガン曲を作曲しました。
ワイマール公は、文化人であり、また芸術家の保護者でもあり、オルガンの愛好家でした。彼は、バッハとフランスのルイ十五世の偉大な宮廷オルガン奏者のルイ・マルシャンの演奏競技会をもよおすことを考えていました。ある日、ルイ・マルシャンは、偶然バッハの練習を聴き、そのすばらしさに恐れをなして、提案されている競技会が行われる前に、町をとびだしました。
バッハは宮廷オルガン奏者のかたわら、オーケストラでクラビコードやバイオリンを演奏しました。ワイマール公のオーケストラには22人の音楽家がいました。1714年にバッハが首席奏者の地位につくと、毎月カンタータや合奏曲、その他に特別な機会のための曲を作曲することを期待されました。このことは、バッハにとって非常に貴重な体験となり、また付近の町で、オルガンの演奏会を数多く行い、音楽家としての名声を高めました。

 1716年に、ワイマール公の宮廷楽団の楽長の席が空席になったとき、他の人がその地位に任命されて、バッハはひどく失望しました。翌年、アンハルト・ケテンのレオポルド公から同じような地位の申し出を受けると、バッハはすぐさま受け入れました。レオポルド公は立派な音楽家で、新しく雇い入れたバッハを愛情深く待遇しました。
バッハはとても幸せでした。仕事は室内楽に関するものだけでしたので、旅行や作曲をする時間をたくさんもつことができました。バッハは、ヘンデルに会おうとライプチヒに行きましたが、ライプチヒに到着したその日に、ヘンデルも旅に出ていました。その後1720年に、レオポルド公に随行したカールスバッド温泉から帰ってくると、妻のマリア・バルバラが亡くなったことを聞きました。彼女は良き妻で、2人の間には7人の子どもがおり、バッハは、妻の死をとても嘆き悲しみました。
翌年、バッハは再婚しました。妻のアンナ・マグダレナは町のトランペット奏者の娘で、2人の間にはさらにi3人の子どもが生れました。妻のアンナ・マグダレナは、立派な歌手であり、また楽譜筆写にも熟練していましたので、バッハの作曲したものをたくさん写譜し、また、子どもたちにも手伝わせました。バッハからハープシコードの演奏を教わった彼女は、夜疲れて帰ってくる夫のために、よくハープシコードを弾きました。

 1717年から1723年までのケテンでの生活は、音楽の面ではバッハにとって非常に充実したものでした。当時あまり進歩していなかったオーケストラの可能性を研究し、6つの有名な 「ブランデンブルグ協奏曲」 を音楽愛好家のレオポルド公のために作曲しました。また、結婚式やレオポルド公の誕生日など、特別な場合のためのカンタータも、バイオリンや鍵盤楽器のための序曲、フーガ、ソナタなどとともに作曲しました。バッハは、また自分の9歳になる子ども、ウィリアム・フリードマンのために 「鍵盤楽器のための小曲」も作曲しました。
レオポルド公が音楽を軽べつする王女と結婚しなかったならば、バッハはケテンの町で一生を過ごしたかもしれません。そういうわけで、バッハはそこに6年間しかいませんでした。バッハはさんざん迷ったあげく、空席だったライプチヒの聖トマス学校の合唱隊長に申し込み、受け入れられました。そこでは、また少年合唱隊の指導にあたったために、ケテンでの地位のように魅力的ではありませんでしたが、自分の子どもたちによい教育を受けさせることができるので、希望したのでした。
バッハの任務は、2つの教会の少年合唱隊と、町の合唱隊とオーケストラを指導し、大学の音楽協会を指揮することでした。バッハは、ほとんど楽譜を歌うこともできない、お気に入りの子どもを合唱隊に無理に入れさせようとする教区牧師とも争わなければなりませんでした。

 バッハは、聖トマス教会の評議会の人たちの策略に終始悩まされましたが、彼の晩年は充実したものでした。偉大なカンタータ、教会声楽曲、受難曲などが、深遠な 「ミサ曲ロ短調」 などとともに作曲されました。「マタイ受難曲」 もバッハの永遠の作品の1つです。また 「クリスマスオラトリオ」 も作曲しましたが、ヘンデルの作曲した 「メサイア」 の方が今では有名になっています。
バッハの生存中は、作曲家としてよりも、優秀なオルガン奏者として尊敬されていました。彼は新しく建てられた教会のオルガン設計の相談や、完成したオルガンを公開したり、演奏会を開いたりするといった仕事に引っぱりだこでした。1747年に、バッハがポツダムを訪れたとき、国王は市内中のオルガンをバッハに弾かせました。ライプチヒに帰ると、早速国王を喜ばせるために 「音楽の贈物」 を作曲して贈りました。
一生涯自分の曲をたいてい明るさの足りないところで写譜していたために、晩年のバッハは、視力が弱くなったと言われています。最後には、とうとう盲目になってしまい、1750年に中風で他界してしまいました。この偉大な作曲家のために、葬式も行なわれずに、聖ジョン教会の墓地に簡単に埋められただけでした。教会協議員がそのときに言ったことは、ただ次のようなものだけでした 「バッハは疑いもなく偉大な音楽家だった、しかし、今私たちに必要なのは、偉大な音楽家よりも校長なのだ」 と。

 

モーツァルト

 ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、音楽の歴史のなかでも、ひときわぬきんでた人であり、神童でした。バッハの死後6年たった1756年にオーストリアのアルプスにある美しい古い町のザルツブルグに生れました。両親はレオポルドとアンナ・マリアで、7人の子どもがいましたが、生き残ったのはたった2人でした。その2人が 「ナナール」 と家族間で親しみをこめて呼ばれている姉のマリア・アンナと、5歳下のウォルフガングです。
父親のレオポルドは、ザルツブルグの権威ある大司教の宮廷音楽家として雇われていました。宮廷音楽家の仕事は、宮廷音楽団を指揮することと、特別な祭典の音楽を作曲することでした。その他に、レオポルドはハープシコードとバイオリンも教えていました。
ウォルフガングがなみの子どもではないということは、早くから明白でした。計算することが好きで、手近に適当なものが見当らないときには、いすやテーブルの上にまで計算しました。
3歳近くなると、彼は姉のナナールの音楽の練習に興味を持ちはじめました。ナナールの練習が終ると、まだ鍵盤にも届かないほど小さいくらいなのに、ピアノのキーを2つ3つ同時に押して、作りだされた音を聞くのです。やがて、バイオリンのわずかな音のちがいも聞きわけられるようになりました。また、ナナールもハープシコードの天才児でした。

 父親のレオポルドはやがて、天才児を2人、自分の手中にもっていることに気づきました。そのため彼は、他の生徒を教えるのをやめて、ウォルフガングとナナールの音楽教育だけに没頭することにしました。彼の父親が、モーツァルトに音楽の教育を開始したのはちょうど4歳のときでした。音楽や数学の他に、レオポルドはラテン語やドイツ語も教えました。ウォルフガングは、父親以外の先生につかず、学校へも行きませんでした。彼は5歳になるころまでに、メヌエットをいくつか作曲していて、父親はナナールの練習後に、ウォルフガングが作曲した楽譜を写譜しました。
1年後のある日、レオポルドが友人といっしょに教会から帰ってくると、ウォルフガングは机に向かって一所懸命に羽ペンで何か書いていました。父親がたずねると、「ぼく、ピアノ協奏曲を書いているのです」 彼は父親にそう話しました。レオポルドは、モーツァルトが書いた楽譜を手にして、ほほえみました。無数のインキのしみの上になぐり書きがあるだけでした。しかし、しばらくすると、おどろいたことに実際に楽譜が正確に書かれており、たくさんの新しい音楽のアイデアが示されていたのです。
レオポルドは信心深い人でしたので、彼の息子は、神様からの贈物にちがいないと思い、ウォルフガングの特異な才能を全世界の人びとと分ち合わなければ、と考えました。そこで、1762年に、モーツァルト家は荷物をまとめ、ヨーロッパへ大音楽旅行に出発しました。

 ウィーンの皇帝の城に到着して演奏するころ、ウォルフガングは7歳近くになっていました。彼は、薄紫色のかわいらしい洋服を着てバイオリンを演奏し、皇帝と皇后を喜ばせました。また、ナナールもハープシコードで伴奏しました。演奏が終ると、彼は皇帝に数小節を歌ってもらって、それから即興曲を作りました。ウォルフガングは、このようなゲームを楽しみ、皇后のひざの上にとびのって皇后のほほにキスさえしました。今では、モーツァルト姉弟は、オランダやスイス、ドイツの宮廷や邸宅で引っぱりだこになりました。パリでは、ルイ十五世の宮廷で演奏しました。ルイ十五世には音楽好きの3人の娘がいましたので、ウォルフガングは、そのうちの1人の歌うイタリア歌曲にハープシコードで伴奏しました。おどろくべきことに、ウォルフガングはその歌曲を聞いたことがなかったのです。
モーツァルト姉弟がロンドンに到着すると、「天才姉弟モーツァルト嬢11歳、モーツァルト君7歳」 と紹介されました。2人は大成功をおさめ、国王ジョージ三世とシャーロット女王の前では数回も演奏しました。演奏が終ると、2人は、美しい噴水と七色の光に照らされたテームズ川辺の心地よい庭園で、心ゆくまで楽しみました。

 1766年にザルツブルグに帰ったモーツァルトには、ヨーロッパの大都市の生活のあとでは、むしろ退屈のように思えたことでしょう。しかし、まもなくふたたびウィーンに行って、そこで12歳の天才少年モーツァルトは 「ラ・フィンタ・セムプリス」 と 「バスティエンとバステイニンヌ」 の2つの一幕物のオペラを作曲しました。その後、父親のレオポルドとモーツァルト少年はイタリアに向けて出発しました。
前回の演奏旅行と同じように、2人はほとんどの都市に立ち寄り、ローマに到着したときには、モーツァルトの名声は、広く知れ渡っていました。モーツァルト親子は、ベロナ、ボローニャ、ミラノ、フローレンスを通ってローマに着いたのでした。ローマでは、シスチン礼拝堂でアレグリの 「ミゼレル」 の演奏会に出席しました。この偉大な作品にモーツァルトは感動して、一晩じゅうかかって記憶をまさぐりながら全曲を書き取りました。法王はこのおどろくべき行為を耳にして、14歳のモーツァルト少年に、金の拍車の騎士の称号を与えました。
モーツァルトは、行く先々でイタリア人から大歓迎を受け、モーツァルトはイタリアの人びとのために、3つの交響曲を作曲しました。いちばんの栄誉は、音楽教会の会員に認められたことでした。この会員に認められるには、一室に入れられて、3時間のうちに数曲作曲しなければなりませんでした。モーツァルトには、わずか30分しか必要ありませんでした。

 1771年に、モーツァルトは、ミラノのフェルナンド大公とモデナのマリア王女との結婚式を祝うための作曲を依頼されました。このときの音楽、仮面劇用の 「アルバのアスカニオ」 は大評判となりました。モーツァルトの次のオペラ 「ルシオ・シルラ」 はこれとはまるでちがうもので、翌年ミラノで上演されました。モーツァルトは当時17歳間近でしたが、はじめて失敗の経験を味わったのです。彼はただちにザルツブルグに帰って、二度とイタリアにはもどりませんでした。
翌年、モーツァルトは喜歌劇の作曲をババリアの選帝侯から依頼されて、ミュンヘンに出発しました。1775年に初演された 「ラ・フィンタ・ギアルデニエラ」 はただちに成功をおさめました。ちょうどミュンヘンはカーニバルの時期でしたので、誰もが陽気な気分で楽しみうかれ、モーツァルトも十分に満喫しました。
モーツァルトは、20歳のときには、ほとんどザルツブルグに留まってピアノ協奏曲、オルガン曲、ミサ曲や有名な 「ハフナー・セレナード」 などを作曲しました。しかし、モーツァルトの父親は、モーツァルトがいまだに音楽界で終身的な地位についていないことを心配していました。厳しい新任の大司教が、レオポルドにさらにこれ以上演奏旅行に出かけるのを許してくれないため、やむをえずモーツァルトのパリ行きには母親がついていくことになりました。

 パリへの旅行のために、モーツァルト家はあり金をはたいて馬車を購入しました。旅行の途中、ミュンヘンで、モーツァルトは選帝侯に仕えたいと申し出ました。「そうだね、坊や」 選帝漢は答えました 「でも、残念ながら、空きがないんだよ」 失望したモーツァルト母子は、アウグスブルクに向かいました、このアウグスブルクで、モーツァルトはジョージ・アンドレア・スタインの有名なハープシコードとオルガンを見て大喜びしました。「私は、スタインのピアノの方が好きです。スタインのピアノは、私がどのように鍵盤をたたいても音調は変らないですから」 と、父親に手紙を書きました。
次の滞在先は、マンハイムでした。モーツァルトはカール・セオドール王子から招待されました、王子は立派な交響楽団を持っていて、モーツァルトを喜ばせましたが、とりわけ、彼の好きなクラリネットが入っていることが気に入りました。王子は、息子たちの音楽教師としてモーツァルトを雇い入れましたが、宮廷音楽家としての終身的地位が与えられないことは明らかでした。
マンハイムの町には、モーツァルトはたくさんの友人がいましたが、その友人の1人に、4人の娘をもつ、写譜が職業のフリドリン・ウェーバーがいました。その長女のジョセファが、後にモーツァルトが作曲したオペラ 「魔笛」 のなかの、夜の女王のモデルになりました。モーツァルトは、次女のアロイシアと恋仲になりましたが、父のレオポルドは怒って、アロイシアと別れて、ただちにパリへ向かうよう命令しました。

 1778年3月、モーツァルト母子がパリに着いた日は、冷たい風が狭い石だたみの道を吹きぬけていました。権威のある人の紹介があったにもかかわらず、モーツァルトはこのフランスの首都では宮廷の仕事を提供される見込はありませんでした。舞台用に作曲したのは、バレー曲の 「レ・プチ・リエン」 だけでした。彼はまた 「パリ交響曲」 を作曲し、これはたいへん好評を得ました。
そのうちに、モーツァルトの母親が病気になりました、金持の友人が病気の母親の看護に医師をよこしてくれましたが、彼女を救うことができず、2週間後には他界してしまいました。モーツァルトは、生れて初めて一人ぼっちになってしまったのです。パリの人たちが作曲家としてのモーツァルトの才能をまだ認めていませんでしたので、モーツァルトは救いようもなく絶望的な気持でした。結局父親の助言にしたがって、9月にモーツァルトはうちしおれてザルツブルグに帰りました。
ザルツブルグにもどったモーツァルトは、宮廷オルガン奏者に任命されましたが、この職を好きにはなれず、ただ父親に対する義務感だけから引き受けたのでした。やがて、オペラ 「イドメネオ」 の作曲を依頼されていたミュンヘンへ行くことを許可されたとき、モーツァルトがどれほど喜んだか想像できるでしょう。しかし、ザルツブルグの大司教はモーツァルトの人気をねたんでいました。大司教の友人のアルコ伯爵は、モーツァルトと大議論の末、モーツァルトを足げにして追い出し、モーツァルトはザルツブルグを離れ、二度とふたたびもどりませんでした。

 モーツァルトは、ウィーンへ行き、そこでウェーバーの娘のコンスタンスと結婚しました。モーツァルトが26歳で、コンスタンスは18歳でした。やがて息子のカールが生れました。それからはつねに貧乏でしたが、夫婦はとても幸福でした。そのころ、モーツァルトの友人の1人に作曲家のハイドンがいましたが、モーツァルトは彼に弦楽四重奏をいくつかささげています。この時期は、モーツァルトの生涯のなかでも重要なときで、大交響曲やオペラを数多く作曲しました。
モーツァルトのオペラのなかで、もっとも有名と思われる 「フィガロの結婚」 は、1786年に作曲されました。続いて 「ドン・ジョバンニ」 や 「コシ・ファン・トゥッテ」 などが作曲されました。宮廷作曲家グルックが亡くなると、モーツァルトが、その後任に任命されましたが、給料は前任者の3分の1でした。モーツァルトは、ますます借金が多くなりました。
1791年 「魔笛」 を作曲しているときて黒いコートを着た、謎めいた見知らぬ人が訪れてきて、名前を明かせない後援者のために 「鎮魂ミサ曲」(特別な葬儀のための音楽) の作曲を依頼されました。そのころのモーツァルトは、大病にかかっていましたが、その鎮魂曲の作曲に取りかかりました。モーツァルトは迷信深い人でしたので、自分自身の 「鎮魂曲」 を作曲しているように思われて、こわくなりました。彼の恐れはほんとうになり、モーツァルトはこの曲を完成する前にチフスで亡くなったのです。数日後、ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトは貧民墓地に埋葬されました。

 

ベートーベン

 ルートウィヒ・バン・ベートーベンは、現在では音楽のシェイクスピアと言われています。いみじくもベートーベンは、かつて自分のことを  「音の詩人」と呼んだことがあります。先輩のバッハやモーツァルトと同じように、ベートーベンは音楽一家のもとに、ドイツ中央のライン川が流れる美しい町のボンで生れました。父親も祖父も2人とも、ボンの選帝侯の宮廷音楽家でしたが、ベートーベン家はもともとはベルギー出身でした。選帝侯の礼拝堂の歌手をしていたベートーベンの父親ヨハンは、1776年に、教育は受けていないけれど、心のやさしいマリア・マグダレナと結婚しました。7人の子どもが生れましたが、生き残ったのは3人だけでした。1770年にルートウィヒは長男として生れ、弟2人の名は、カスパー・アントン・カールとニコラス・ヨハンといいました。
ヨハン・バン・ベートーベンの父親は気弱な酒好きな人で、小さなルートウィヒが音楽に興味を示さないと、よくしかりました。ルートウィヒはがん固で強情な性格でしたので、なんとかして音楽のレッスンを避けようと、おどかされてもなだめられても、頑としてピアノを弾こうとしないこともありました。
彼は、賢くて感受性が強く内気な少年でしたが、よくいたずらもしました。音楽のレッスンのことでは、父親とうまくいきませんでしたが、それ以外は、幼少時代のベートーベンの生活は平和で幸福でした、母親はやさしかったし、よく女中に連れられて美しい田園を散歩したり、華麗な宮廷の庭に行ったりしました。

 ベートーベン少年は、他の子どもと同じように石板と本をぶらさげて近くの学校へ通い、読み書きをすぐ覚えました。また、ラテン語も非常に速く覚え、フランス語も書けるようになりました。
父親は彼に対して野心を持ちはじめましたが、これは明らかに、当時ライン地方でもよく知られていた神童モーツァルトの成功に刺激されたのでしょう。ヨハンは、息子ルートウィヒも同じくらいの名声を得られるだろうと思ったのです。しかし、ルートウィヒの音楽家としての才能は、早く開花する性質のものではありませんでした。それでも父親は、8歳のルートウィヒを6歳といつわって、演奏会に出場させ人気を得ようとしました。
しかし、何人の観客がだまされたでしょうか。学校を終えた11歳のころから、ルートウィヒはようやく音楽に対する興味がわいてきました。母親といっしょに短期間のオランダ旅行を終えてから、彼は本格的に音楽の勉強に身を入れはじめました。先生はボンの新任宮廷オルガン奏者のクリスチャン・ゴトロブ・ネーフェでした。ネーフェは音楽家と同時に詩人でもありました。彼は音楽界や知識界にたくさんの知人がいて、そんな貴族や文化人に、新しい弟子のベートーベンを紹介し、どちらかといえば平凡なべ一トーベンの家庭では望めない考え方や知識を身につけさせました。芸術家ベートーベンが生れたのです。ルートウィヒの進歩は目を見張るほどで、2年間のうちに、3つの三重奏曲を発表し、ネーフェの副オルガン奏者に任命されました。

 その後の数年間は、ベートーベンにとって、とても幸福でした。ボンでは、新しい選帝侯にマクシミリアン・フランツが任命され、彼は美術家を奨励し、討論会や音楽協会、文学協会を設立しました。若き音楽家ベートーベンはできるだけ多くのことを学びとれるよう、耳目をそば立てて、音楽家としても人間的にも成長しました。ベートーベンは、裕福な家庭の子どもに音楽を教え、彼の外見から 「スペイン人」 というニックネームをつけられました。
ベートーベンが初めてウィーンを訪れたときは、もうすぐ17歳になるころでした。そのころには、すでにネーフェから作曲の基礎を学び、有望な曲を数曲作曲して、ピアニストとしても熟達していました。ベートーベンは、ウィーンで高名なモーツァルトに学びたいと思っていました。モーツァルトはベートーベンのピアノの即興演奏にたいへん感銘を受けましたが、モーツァルトのところで予定されていたレッスンも、ベートーベンの母親が重病という知らせでできなくなりました。ベートーベンはぎりぎりで間に合って、母の死を看取ることができました。
これからは家族のめんどうをみるという重い責任が、ベートーベンの両肩にのしかかりました。父親は飲酒がはなはだしくなり、声をつぶしてとうとう選帝侯の宮廷音楽家の職を失ってしまいました。18歳のベートーベンは、前より給料は多くなりましたが、そのほとんどを父親と2人の弟の生活費に費やさなければなりませんでした。

 1790年のクリスマスの日は、ベートーベンの生涯のなかでも忘れられない日です。というのは、偉大な作曲家ハイドンがロンドンの旅行の途中ボンに立ち寄り、そのとき初めて対面できたからです。それ以上にうれしかったことは、ベートーベンの親友のワルトスタイン伯爵とステファン・フォン・ブロウニングが、ベートーベンをふたたびウィーンへ行かせようと計画していたことでした。ベートーベンは、今度はハイドンから対位法を学ぶことになります。
モーツァルトとハイドンの2人の大作曲家がいる音楽の都ウィーンは、ベートーベンをすっかりとりこにしてしまいました。1792年にウィーンに到着した瞬間からベートーベンはウィーンこそ彼が夢みていたところだとわかりました。ベートーベンはその後、死ぬまでウィーンで暮しました、父親は、ベートーベンがボンを去ってまもなく亡くなりました。
ハイドンから受けることになっていたレッスンは、あまりうまくいきませんでした。2人の性格はちがっていて、けんかになるようなことはなかったものの、おたがいにしっくりいかなかったのです。親切で礼儀正しいハイドンは、がん固で粗野なベートーベンの言動が気に入らなかったにちがいありません。ベートーベンの方は、この老人のもとでは進歩はのぞめないと思いました。そのため、ひそかにシェンクとアルブレトベルガーの2人の先生に教わっていました。1795年以後は、ベートーベンは独学で通しました。

 26歳のころのベートーベンは、生涯のうちでも、非常に幸福なときでした。裕福な人びとの間で人気を博し、実力のある友人といっしょに楽しんだり、彼の賛美者であったりヒノウスキー公の邸に自分の住居を持っていました。午後にはガーデン・パーティーが、夕方には音楽のパーティーが開かれました。ベートーベンはいつもパーティーの人気者でした。ベートーベンはピアノを即興で弾き、みんなを楽しませましたが、そのごう慢な態度や行儀の悪さで人を困らせることもありました。
この時期のベートーベンは、作曲家としてではなくピアニストとして、もてはやされました。プラハやベルリン、ドレスデンやニュールンベルグにしばしば演奏旅行をしましたが、予定されていたパリとロンドンへの演奏旅行は中止されました。ベートーベンは、今ではウィーンで最高のピアニストの1人として認められました。
ベートーベンは、日ごろから熱烈に自然を愛していました。よく田舎で長い休日を過し、散歩に出かけました。散歩するときは、つねにポケットにノートを入れて、思いついたことを書き残しました。あの有名な 「田園交響曲」 は、田舎に対するベートーベンの愛情から作られたものです、注意して聞けば、鳥の鳴き声や滝の音、羊の鳴き声が聞きとれます。注意深く聞いていなくても、第4楽章の壮大な雷雨の音を聞きのがすことはないでしょう。

 1800年は、ベートーベンの生涯にとって転換期でした。作曲家としての名声が次第に高まり、天才的ピアノ演奏家という評判をしのぐようになりましたが、ベートーベンには非常に気がかりなことがありました、それは、耳がだんだん聞こえなくなってきたということです。このことが知れ渡ると仕事を失うことになるのではないかと恐れて、ベートーベンは誰にも言いませんでした。
感受性の強いベートーベンは、やがて社交界から身を引きはじめました。会話もとぎれとぎれしか聞こえなくなり、ベートーベンは自分の悪口を言われているものと被害もう想にかかり、だんだんと疑い深くなりました。この苦しみにいくぶん安らぎを与えたのは、17歳の若いジュリエッタ・ギッチャルディ伯爵夫人でした、ベートーベンは彼女に恋をし、現在知られている 「月光ソナタ」 を作曲してささげました。しかし、恋愛期間は短く、翌年に伯爵夫人は他の人と結婚しました。
1802年までには、ほとんどの人びとが、ベートーベンの耳は聞こえなくなったことを知っていました。ジュリエッタの結婚と同様に、このことはベートーベンの心に耐えられないほど重くのしかかりました。そのために、ベートーベンは、田舎に引きこもって、そこで有名な 「ハイリゲンシュタットの遺言」 を書きました、このなかで彼は、耐えがたい人生の苦しみを語っています。ベートーベンは、自殺を考えていましたが思いとどまり……「あらゆる自然の障害にも負けず、立派な芸術家と名誉ある人になるために、私は全力をつくそう……」 と書いています。

 ウィーンにもどったベートーベンは、新しい生命力を得たようでした。ベートーベンは、ナポレオン・ボナパルトを、一般市民の解放者とみなしてとても賞賛しました。彼の英雄ナポレオンのために、雄大な 「第3交響曲・英雄」 を作曲しました。しかし、1804年にナポレオンがフランス皇帝を宣言したとき、ベートーベンはたいへん失望し、( 「ナポレオンもやはり我々凡人と同じただの人間だった」 といい) 怒って、表紙からナポレオンの名前を消してしまいました。そのかわり、簡単に 「ある偉大な男の思い出に」 と書きました。
聴覚はますます衰え、40歳になるころには会話はすべて手帳に書かなければなりませんでした。この 「会話手帳」 は、現在でも数十冊残っています。ゆううつな気分にとらわれ、自分をいちばん賞賛してくれている人たちに、とてもつらくあたるようになりました。しかし、多くの友人は相変らず誠実でした。その友人のなかには、大詩人のゲーテもおり、ベートーベンはゲーテといっしょに田舎道を長い間散歩したりしました。
たまに (勇気のある) 生徒が訪れて、ベートーベンの部屋に入ると部屋の中はびっくりするような状態だったにちがいありません。ベートーベンの耳からは、回復を期待して黄色い薬液にひたした治療用のわたが突き出ていました。本や楽譜や服──ときには食べ残しの食べものが乱雑にちらかつていました。
1812年から1817年の間は、ほとんど作品を発表しておらず、大曲 「交響曲合唱」 も書かれていませんでした。

  耳が聞こえなくなり、沈黙の世界に閉じこめられたベートーベンは、それでも大胆に実験的音楽に取り組み、作品は当時の音楽界よりも何年も進歩したものでした。ほとんどの人たちは、この近代的音楽を理解しませんでした。実際、ベートーベンの後期の作品はほぼ1世紀の間、その真価を完全には認められませんでした。けれども、ベートーベン最後の偉大な交響曲第九番は、オーケストラとともに歌手たちも使っているので 「合唱」 として知られていますが、初演で大成功をおさめました。ベートーベンは、オーケストラの指揮台に立っておりましたが、このときの聴衆の大拍手が聞こえず、楽団員の1人がうしろを振り向かせて、聴衆のかっさいを見せなければなりませんでした。
やがて、ベートーベンは一人でひきこもり、ほとんど誰とも会わなくなりました。1826年末には健康を害して、薬種商として成功した、地位があり力のある弟のニコラス・ヨハンのところへ移り住みました。ベートーベンは彼の奥さんと非常に仲が悪かったので、弟の家での滞在が終るころ、ベートーベンの健康が全然よくなっていなかったのは、おそらく彼女のせいでしょう。ベートーベンは、弟の家の馬車を使うのを断って、牛乳を運ぶ荷馬車で弟の家を出ていきました。
ベートーベンは病人の体で、またウィーンへもどってきました。その後はベッドに寝たきりの生活になりましたが、それでも作曲の構想を考え続けました。しかし、3か月ほど持ちなおした後、1827年3月26日の夕方、雷鳴のすさまじい嵐のなか、親しい友だちや賛美者からの贈物に囲まれて、ベートーベンは息を引き取りました。


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