レディバードブックス100点セット
 

 

[大作曲家2]シューベルト他

ヘンデル

 有名なオラトリオ 「メサイア」 の作曲家、ジョージ・フレデリック・ヘンデルは、バッハと同年に生れ、彼の没後数年たって亡くなりました。この2人の作曲家は他にも共通点を持っていました。2人ともドイツ出身で、すぐれたオルガン奏者であり、以後の音楽家に大きな影響を与え、晩年になると2人とも盲目という苦しみを味わったことなどです。
その他の点、すなわち生き方とか、作曲した音楽の種類とかに関しては、彼らはまったく異なっていました。ヘンデルは、バッハとはちがって、音楽を愛する家に生れるという幸運には恵まれませんでした。事実、ヘンデルの父親は、ハレの町ではもっとも著名な理髪師兼外科医となった人ですが、若いジョージ・フレデリックが真剣に音楽のことを考えるのを思いとどまらせようと、できるかぎりのことをしました。
ジョージ・フレデリックは、多くの生れながらの音楽家と同じように、粘り強い子どもで、天性の闘士でした。父親が彼の愛用の玩具の楽器を燃やしてしまったとき、彼はどうにかこうにか母親を説得して、屋根裏へクラビコードを持ちこんでもらうことに成功しました。就寝時間のずっと後になって、鍵盤楽器の澄んだ音色が家の中のいろいろなところで聞こえました、ある夜、とうとう怒った父親が屋根裏へ荒々しく入ってきて、ジョージ・フレデリックに、職業音楽家になろうなどという考えはきっぱりと忘れてしまえと、きびしく言いわたしました。

 ヘンデルは7歳になると、生れ故郷のハレからほど遠くない町へ父親と旅行しました。そこで、少年ヘンデルが教会堂のオルガンを演奏するのをサクソニー公爵が聞きました。公爵はたいへん感銘を受け、ジョージ・フレデリックがハレの教会堂のオルガン奏者から教えを受けるのを許してやるようにと父親を説得しました。ヘンデルの父親は、そんなに身分の高い人の言うことを無視できなかったので、ヘンデル少年はそのオルガン奏者について3年間勉強しました。この間に、鍵盤楽器の名手だという彼の名声は国じゅうにひろがりました。
11歳の誕生日の直前に、ヘンデルはベルリンへ連れていかれ、彼のオルガン演奏は選挙侯の宮廷の注意をひきました。「君はイタリアに勉強に行くべきだ」 と選挙侯は言いました、しかし、自分の余命がそう長くはないと感じていたヘンデルの父親は、もう公爵や選挙侯のことを気にしないで、ジョージ・フレデリックに家に帰るようにと命じました。
ハレにもどると、ヘンデルの父親は重病でした。彼は、その後まもなく亡くなりました。しばらくの間、ヘンデルは一般教育を続け、大学で法律を学びましたが、それは単に亡くなった父親への義務感からでした。けれども、彼の血のなかには音楽が流れていたのです。そこで1703年のある夏の日、彼が18歳のとき、ヘンデルは荷物をまとめてハレを出て 「音楽を発見する」 ために刺激に満ちた大都市ハンブルグへ向かいました。

 着いてみると、ハンブルグはにぎやかな繋栄した都市で、りっぱなオペラハウスがありました。そして、彼はそこのハープシコード奏者兼第二ヴァイオリン奏者としての仕事を得ました。しかし給料は安く、若い音楽家ヘンデルは、オペラハウスの仕事がないときには少しばかり教えて、お金を得なければならないことがわかりました。同僚の音楽家ヨハン・マテソンとの交友を通して、ヘンデルはまもなくハンブルグの音楽家仲間と親しくなり、そのなかで多くの有用な友人を得ました。
一方、ハンブルグの教会のオルガンの名手として、彼の名声は当時の人びとの間にひびきわたりました。彼は特に宗教心が厚かったわけではありませんが、彼の最初の重要な作品がその教会のために書かれたことは、おどろくべきことではないでしょう。19歳の少年のものとしては、彼の 「聖ジョンの受難」 は驚嘆すべき作品です。
その翌年、オペラハウスの指揮者ラインハード・カイザーが他の仕事で忙しすぎて、オペラを手がけることができなくなり、ヘンデルが 「アルマイアラ」 を作曲することになりました。これはヘンデルの最初のオペラで、ハンブルグでは新しい多くの考えを示しました。このオペラはたいへん速く書かれ、ただちに成功作となりました。
ヘンデルが続けざまに幸運に恵まれたので、マテソンや劇場指揮者は彼をねたみました。
そして、しばしば争いが起りました。あることでマテソンと意見が分れて決闘することになり、マテソンの剣がヘンデルの上着のボタンを突いて折れたため、かろうじてヘンデルは死をまぬがれたのでした。

 この当時、ドイツのオペラはまだイタリアの様式に大きく影響されていました。そして作曲家は誰でも、キャヴァルリやスカルラッティがオペラ水準をかなり引き上げつつあった太陽の降りそそぐ土地イタリアを、いつかは訪れることをその義務だと思っていました。ヘンデルはその音楽が世界をリードする国へ行かなければならないと思いました。
フローレンス、ローマ、ナポリ、ヴェニスという大音楽都市において、ヘンデルの音楽とハープシコードの演奏はすぐに大成功をおさめました。彼は魅力的で機知に富んでいたので、その国の非常に有力な家柄の人びとに愛されるようになりました。フローレンスにおいて彼の最初のイタリアオペラ 「ロドリゴ」 が大公の息子の後援の下に上演されました。しかしローマでは、いかなるオペラもそこで上演してはならないという命令を法王が出していました。そこでヘンデルは教会のための音楽を作り、著名な 「ディクシット・ドミナス」 などの彼の作品は大いに称賛されました。
ヴェニスに着くと、ヘンデルは、やがて来たるべき英国旅行に大いに関係することになる2人の男と友人になりました。その2人とは、その兄がイングランドのジョージ王になるハノーヴァー家のアーネスト王子と、音楽愛好家のマンチェスター公爵でした。
ヴェニスに滞在した後、ヘンデルはハノーヴァー選挙侯の楽長に就任するためにドイツにもどりました。そこで彼はアンスバッハ家のキャロラインにハープシコードを教えました、彼女は後にジョージ2世の妻となり、英国の女王となりました。

 1710年にヘンデルがはじめてロンドンに着いたとき、彼にはロンドンが非常に陰気な場所に思われたにちがいありません。彼が歩く通りは泥だらけで、人びとが窓から捨てるごみがどこにも見られました。盗みはありふれたことでしたし、おそわれる心配があるので、夜、道を歩くことは無分別なことでした。
それにもかかわらず、ヘンデルはちょうどよいときにイングランドに着いたのでした。イングランドのオペラは存在しないも同然だったのです、そして、オペラ音楽を流行させることがイタリアの作曲家たちの仕事でした。2週間で彼は 「リナルド」 を書き、それはへイマーケットのクイーンズシアターで上演されて大成功を収めました。
ヘンデルは貴族の家庭に喜んで迎えいれられました、アン女王は彼を丁重に迎え入れ、年俸200ポンドを与えました。
当時、公開演奏会は、ロンドンでは一般的ではありませんでした。しかし、トーマス・ブリトンという名の風変りな商人が、教養ある貴族や、貧富を問わず音楽愛好家を、彼が石炭業を営むクラーケンウェルの倉庫に音楽を聞きにくるようにと招待しました。ヘンデルは、よく夕方2階への急な階段を息せききってかけ上り、小さなオルガンやハープシコードを演奏して、聴衆を大喜びさせました。また、ほかの晩には、バーリントンハウスで開かれる若いバーリントン公爵主催の壮麗な音楽会に、彼の姿が見られました。

 30歳になるまでに、ヘンデルはその国でもっとももてはやされる音楽家となり、ロンドンに自分の家を買えるほど裕福になりました。彼がその当時作曲した作品のなかには、オラトリオの 「エスター」 や、合唱カンタータ 「アキスとガラテア」 があり、2つともその形式のものとしてはイギリスで書かれた最初の作品でした。
ヘンデルは、公的にはまだハノーヴァー選挙侯の宮廷の楽長でした。しかし、イギリスで成功するにつれて、彼はそこへもどるのを延期し続けました。アン女王が死んで、ハノーヴァー家のジョージがイギリス国王になったとき、ジョージはヘンデルが彼の宮廷の楽長ではなかったかのように振る舞って、その長びく不在に迷惑していたことを示しました。しかしそのすぐ後、ヘンデルが 「水上の音楽」 を作曲したころに、王とヘンデルは仲直りしました。
1720年、ヘンデルを音楽監督にして 「王立音楽院」 (今日その名で呼ばれているものとは異なる) が、キングズシアターでイタリアオペラを上演するために作られました。ここで彼は「タメルラーノ」 「スキピオ」 「ロデリンダ」 などのすばらしいオペラを書きました。
ヘンデルは高給でイタリア出身の歌手を雇いました。これらの歌手のうちの1人、その歌唱でロンドン市民を魅惑した、背の低いぶかっこうで神経質なフランチェスカ・クッゾーニは、アリアを自分流に歌うと言い張りました。ヘンデルが激怒して彼女を窓からほうり出すぞと脅かした後に、やっとクッゾーニはヘンデル流にアリアを歌うことに同意したのです。

 ヘンデルはそのときにはもうイングランドの臣民で、宮廷作曲家になっていました。ジョージ2世の戴冠式のため、彼はすばらしい戴冠式頌歌を4曲作曲しました。そのなかには 「ゼイドック・ザ・プリースト」 も含まれており、その曲は以後、戴冠式のたびに歌われています。
ヘンデルが成功したので、多くのねたみ深い敵ができました。ドイツ出身の人間として、彼はジョージ2世とイギリスの皇太子との間の音楽的かつ政治的争いの渦中にいました。ヘンデルを破滅させようとして、彼と敵対するオペラ一座が作られました。しかし、彼が結婚式頌歌とオペラ 「アトランタ」 を書いたとき、皇太子は彼の味方になりました。
しかし、陰謀に心を痛めてヘンデルは重病になりました。1737年7月に、彼のオペラハウスは閉鎖されました。ヘンデルは破産してしまいました。エイク・ル・スシャベルで健康を回復すると、彼は負債を整理しにイギリスにもどり、老年のエネルギーを傾けて作曲しました。まず喜歌劇 「サース」 (これが、今日 「ヘンデルのラルゴ」 として知られている調べの出所) が作られ、次にオラトリオが2曲、「サウル」 (荘厳な 「死の行進」 曲をもつ) と「エジプトのイスラエル」(壮大な 「嵐の合唱」 曲をもつ) が作曲されました。
しばらくの間、ヘンデルはリンカーン・イン広場に劇場を借りて、彼の最新作のオペラ 「イメネオとディダミア」 を上演しました。しかし、この間もずっと、彼はまだ敵の攻撃にさらされていました。彼らは、人を雇ってポスターを破らせたり、劇場の外で暴動を起させたりして、劇場の開催期をめちゃめちゃにしました。

 健康を害し、財産も失い、すっかり落胆して、ヘンデルは1741年にオペラを放棄しようと決心しました。オペラのかわりに、彼は宗教音楽に目を向けました。彼はすでに 「サウル」と 「エジプトのイスラエル」 を書いていましたし、オラトリオを何曲か書きました、そのなかには、「ユダス・マカベフス」(これはすべて戦いについて書かれている) や 「ソロモン」「サムソン」 や 「ジョシュア」 があります。しかし、彼の不朽の名作は、聖書に題材をとり、わずか23日間という信じられないほどの短期間に書かれた 「メサイア」 でしょう。
ヘンデルは、この23日間は部屋からほとんど出ませんでした。彼の召使が食事を運ぶたびに、前の食事が手つかずのまま残っているのをみつけるのでした。ヘンデルが 「ハレルヤ・コーラス」 を含む第2楽章を書き終ったとき、彼は目に涙を浮かべて、「私は天国と偉大なる神ご自身をほんとうに眼前に見たと思う」 と言うのを召使は聞きました。
王は堂々とした「ハレルヤ・コーラス」を聞くとたいへん感動し、畏敬の念に打たれて立ちあがりました.それは今日に至るまで聴衆の慣習になっています。
ヴォークスホール・ガーデンの花火大会のために、ヘンデルは 「花火の音楽」 を作曲しました。年来の敵との終ることのない戦いのため、彼は健康を害し、晩年は失明のため、みじめな生活を送らなければなりませんでした。ヘンデルは自ら指揮していた 「メサイア」 の上演中に倒れ、その1週間後に亡くなりました。そして、盛儀をもってウエストミンスター寺院に葬られました。

 

ハイドン

 ヨーゼフ・ハイドンは、1723年にハンガリーとの国境に近いオーストリアの小村ローラウに生れましたが、そこでは、陽気な農民の踊りやフォークソングが至るところで見聞されました。土地を耕したり、粉屋とか大工とか織り手として働いているごく普通の人びとが 「音楽を作る」 生れながらの才能を持っていました。身のまわりを音楽に囲まれていたハイドンが音楽家になったのは、不思議なことではありません。
ヨーゼフは、音楽好きな百姓夫婦の12人の子どものうち、上から2番目の子どもでした。彼の父、マシアス・ハイドンはあらゆる種類の車輪を作ったり直したりしていました。彼はその道の名人でした。晩になると、彼は妻のマリア・アンナが村人と同じ歌をうたうのをハープで伴奏しました。やがて、ヨーゼフもそれに加わりました。
ある日、村人を楽しませるために流しのヴァイオリン弾きがやってきたとき、ヨーゼフはすっかり夢中になり、棒を2本持ってその音楽のまねをしながら、どこへでも彼についていきました。ハイドン家の親戚である小学校長の 「いとこのフランク」 がこの様子を見て、ハイドンに音楽的才能の芽生えを感じとりました。しかし、ヨーゼフの母親は、息子を教会に入れようという考えを持っていました、しかしフランクは彼女を説得して、近くのハインブルグの町にある彼の学校で、ヨーゼフが教育を受けるのを認めさせました。

 ヨーゼフのハインブルグにおける最初の教師であったフランクは、ヨーゼフがもっとも若いときに影響を受けた人物であり、その影響は後々まで続くことになりました。フランクは生徒たちの不まじめを許さない、りっぱな教師でした、そして、ヨーゼフはいうことをきかない罰として、たたかれたこともありました。それでも彼はよい生徒でした、そして6歳のころまでには、もう教会の聖歌隊で歌っており、ヴァイオリンとハープシコードの勉強ではいちじるしい進歩をとげていました。
町の収穫祭のドラマーが病気になったとき、フランクは6歳の彼の生徒ヨーゼフに、その仕事をやらせるほかありませんでした。ヨーゼフは大喜びで、早速古い小麦粉入れの容器をさがし出して、それに布をかぶせてへりをしっかりとめ、2本の棒でそれをたたきながら、誇らしげに家の中を行進しました。彼がその 「太鼓」 をたたくと、ほこりが舞いあがりました、しかし、彼の即興には、みんな感心しました。
その後まもなく、皇室の宮廷作曲家ジョージ・ロイターが新しい合唱隊員をさがしにウィーンからやってきて、ハインブルグを通りかかりました。彼は、ヨーゼフにトリルを歌うように求めました。「だって、いとこのフランクでもそんなことはできないよ!」 と、8歳の少年は叫びました。しかし3度やって、ヨーゼフはトリルを歌うことに成功しました。ロイターは大喜びして言いました 「ブラボー、ヨーゼフ! 私といっしょにウィーンへ行こう」

 若いハイドンは、ハインブルグという比較的遅れた町の外の人びとの生活を、生れてはじめて見ることができたのですが、彼がウィーンで得たものは、有力な人びとと会う機会を持ったことぐらいでした。聖ステファン大会堂の合唱隊のなかでの任務に従事しないときには、ラデン語、宗教、算数、読み書きの初等教育を受けました、また、ヴァイオリンとハープシコードの勉強を続けることもできました。
ロイターはいつも宮廷の楽長としての仕事に忙しすぎて、合唱隊の少年たちには注意を向けませんでした、さらに、彼の2人の助手は、生徒に教えるよりは自分たちの個人的な関心事に専念していました。そこでハイドンは、もしも作曲家になろうとするならば、自分で勉強しなければならないと悟ったのです。他の少年たちが外で遊んでいるとき、ハイドンは小さなハープシコードを持って屋根裏部屋に上がり、一時に何時間も練習することがよくありました。
ハイドンは、ますます作曲したくなりました、しかし、ロイターはまったく励ましてくれませんでした。事実、ハイドンがある日、12部からなる教会音楽を作曲しようとしたとき、ロイターはただ笑って 「君はばかだね。2部でたくさんだろうよ」 と言っただけでした。ハイドンは容易にひるみませんでした、そして寸暇を惜しんで勉強して、次第に作曲の基本的要素を身につけたのです。

 ハイドンは、17歳までステファン大会堂合唱隊にとどまりましたが、声変りしたため、さらに仲間の合唱隊員の弁髪を切ったため、そこを解雇されました。彼は一文なしで、行きどころもないまま通りにほうり出されたのです。
すぐに、彼は他の教会の合唱隊の一員のところに宿をみつけ、しばらくの間、理髪店の手伝いとなって生活費をかせぎました。彼の仕事のひとつはかつらの手入れでした。やがて、彼は古い屋根裏部屋を借りられるだけのお金をなんとかかき集め、その部屋で数人の生徒をとりました。かせいだお金で、彼はクラビコードとエマニュエル・バッハのソナタの楽譜を6つ買いました、そして、それを初期の作曲の手本に使いました。17歳になってまもなく、彼は最初のミサ曲を書きました。
ウィーンじゅうで大成功を収めた、笑劇のための音楽を含むいくつかの有名な音楽を作曲して、ハイドンの名前はよく知られるようになりました。カール・フォン・フルンベルグという名の富裕な貴族が若い作曲家のうわさを聞き、ワイザールにある家のヴァイオリニストとして、彼を雇いました。これは、ハイドンにとって重要な時期でした、なぜならば、彼ははじめて全編成のプロの管弦楽団に自分の作品を演奏してもらうことができたからです。ワイザールで彼は、はじめての四重奏曲と、はじめての交響曲を作曲しましたが、同時に、嬉遊曲とセレナーデ数曲を作曲しています。

 1759年にハイドンは、皇帝の侍従であり枢密顧問官でもあるマキシミリアン・フォン・モルフィン伯爵の作曲家兼音楽監督に任命されました。給料はわずかでしたが、食事と部屋付きで、器楽曲をためす機会もありました。
伯爵家に2年間いた間に、彼はかつてウィーンにいたとき、そこで働いたことがあった理髪店の娘と結婚しました。彼女は、当時28歳であったハイドンより3歳年上で、たいへんなかんしゃく持ちでした。彼女はマリアという名前でしたが、彼女には、音楽と、日常の家事はたえきれないものだったのです。彼らは不幸な結婚生活を2、3年送った後、離婚しました。ハイドンはその後二度と結婚しませんでした。
伯爵が財政的な理由から雇っている人たちの数を減らすことを余儀なくされたとき、ハイドンは不運にも職を失う人びとのなかの1人になりました。しかし、運がよいことに、ハイドンは以前、オーストリアのもっとも裕福な貴族の1人であるアントン・エスデルハージ公爵の注意を引いたことがあったのです。公爵の家の楽長が老齢でしたので、彼はハイドンをウィーンからほど遠くないアイゼンシュッタットにある邸の副楽長として雇ってくれました。ハイドンは非常に満足し、それ以後後死ぬまでエステルハージ家にとどまりました。

 ハイドンがアイゼンシュッタットに行って1年しかたたないうちに、アントン公爵は亡くなりました。公爵の弟ニコラスは、兄よりさらに音楽好きでした、そしてアントンの後を継ぐと、ヴェルサイユ宮殿を接して、おとぎ話にでてくるような風変りな宮殿を建てました。ニコラス公爵はその宮殿をエステルハーズと呼びました。そこには、オペラハウス、あやつり人形の劇場、寺院、あずま屋など、あらゆる種類の建物がありました。宮殿自体には126もの豪華な部屋がありました。
そこでの生活はハイドンにとって無上の喜びでした。彼は公爵と折り合いがよく、年俸782フローリンというかなりの収入を得、まもなく楽長に任命されました。ハイドンは、なにか事があるたびに音楽を書いて、なにか新奇なものを作り出すよう要求されました。劇の演出さえも彼にとって珍しいことではありませんでした。
公爵はエステルハーズの生活がたいへん楽しくて、そこを離れるのをひどくきらい、音楽家たちがウィーンにいる家族に会いに帰るのを許すこともいやがりました。彼らが家族に会いに帰るときだということを公爵に思い出させるために、ハイドンは 「さよなら交響曲」 を作曲しました、その曲の終りに近づくと、演奏家は、1人また1人と演奏を止め、楽器をかかえてステージから去っていくのです。公爵はその意味を悟り、彼らに休暇を与えました。
彼が公爵のために書いた多くの交響曲のなかで、「おもちゃの交響曲」 はもっとも人気のあるものの1つになりました。

 ハイドンはそこでの生活の前半、エスデルハージを遠く離れることはほとんどなかったにもかかわらず、彼の名声は外国まで広がりました。彼はロシアでも有名で、彼はロシア大公のために 「ロシア四重奏曲」 を作曲しました、すると、ロンドンとパリの出版社が彼の作品を出版する名誉を得ようと騒ぎを起しました。1785年に彼は 「十字架上の救世主の七つのことば」 を作曲しましたが、それはスペインのカディス大聖堂の依頼によるものでした。
1790年にニコラス公爵が死んだときには、ハイドンの名前はすでにほとんどヨーロッパ全土に知れわたっていました。ハイドンはやっとエステルハーズの外の生活を自由に見ることができるようになりました。もっとも、ハイドンのもとの雇い主から合せて1400フローリンの年金が支給され、彼が楽長としてその一家に所属していなければならないと規定されていました。
まもなく、彼は興行主サロモンからロンドンに呼ばれました。彼はオペラを1曲と、いくつかの交響曲、その他の作品を書いて多額の報酬を受け、宴会や王の宮廷や音楽家社会で歓迎されました。彼が作った交響曲のひとつが示すように、彼はいつも楽しい人でした。この交響曲のゆるやかな楽章中に人びとが眠らないように、彼はそのなかに不意に大きな音を出す楽節を散在させました。彼はそれを 「驚愕交響曲 」と名づけました、その曲のはじめての上演中、不意打ちを食った多くの人びとにとって、それはまさしくおどろきだったことでしょう。

 イギリスへの何回かの訪問で得たお金で、ハイドンはウィーン郊外の小さないなか家に落ち着き、余生を心静かに過すことができました。彼はいくつかのすばらしい弦楽四重奏曲とミサ曲、さらにオークスフオード交響曲とパリ交響曲で名を高めました、そして、ベートーベンという名の若い音楽家を教えたこともありました。
彼はなお壮大なオラトリオに取り組まなければなりませんでした。その内客は、サロモンがミルトンの 「失業園」 に基く台本を示唆したとき変更されました。これからまず 「天地創造」 (それはヘンデルの 「メサイア」 と、メンデルスゾーンの 「イライジャー」 と肩を並べる) が作曲され、続いて 「四季」 が1801年に作曲されました、そのオラトリオはハイドンの最後の大作となりました。
彼の視力は衰えつつありました。彼は、愛らしい歌を作曲したり、晩になると友人たちを自分のいなか家に招待して、長い人生の思い出ばなしを話して聞かせたりして、晩年を過ごしました。彼はフランスの侵入軍に庭に弾丸を撃ちこまれてから、数日後に亡くなりました。しかし敵軍さえも彼をたたえました、彼の死の直前に、フランス軍の将校が、ハイドンのために 「天地創造」 のなかのアリアを歌い、彼は深く感動しました。晩年、彼は 「パパ」 ハイドンとして愛情をこめて呼ばれました、彼を知る人すべてから、彼は非常に愛されていたのです。

 

シューベルト

 フランツ・シューベルトは、音楽を非常に高く評価している家庭で生れた、たいへん幸福な人たちのひとりでした。ウィーンを世界の音楽の都にした、グルック、ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、ブルックナー、ブラームスらの作曲家のなかで、ただ1人の生れも育ちも生粋のウィーン子でした。シューベルトは、オーストリアの隣の国のハンガリーへ2度小旅行した他は、短い一生のすべてをオーストリアの首都ウィーンで過し、そこで亡くなりました。
フランツの父親は慎み深い校長で、22歳のときに、エリザベスという料理人と結婚しています。やがて、両親には14人の子どもが生れましたが、5人しか育ちませんでした。ぜいたくに生活する余裕はありませんでしたが、シューベルト家はつねに幸福でした。家族の大きな楽しみは、家族全員がいろいろな楽器を演奏したり、歌ったりすることでした。いつも家族で四重奏団を構成し、父親はチェロ、フランツはピアノかビオラ、2人の弟はバイオリンを演奏して、他の家族や友人の訪問客に聴かせました。
シューベルト家では、母親をのぞいて全員がなにかの楽器を演奏できましたが、フランツは6歳になるまでに、バイオリン、ピアノ、ビオラを弾けるようになったので、疑う余地なく、シューベルト家のスターでした。シューベルト家の人たちはみんな、シューベルトがなにか特別のものを持っていることを感じ、父親と長男のイグナツは、音楽に関する知っていることをすべてシューベルトに教えました。

 しばらくの間、フランツは土地の教会のオルガン奏者から音楽教育を受けていましたが、練習は非常に限られたもので、11歳になってはじめて、もっとも重要な音楽教育を受けたのです。父親は、決して豊かではありませんでしたが、資金をかき集めて、皇帝の宮殿礼拝堂の合唱団員を養成する一方、りっぱな一般教育をも受けられる有名なウィーンの聖歌隊学校にフランツをやりました.この学校の生徒の制服は立派なもので、兵士の制服に似ていました。
いたるところに音楽があふれ、フランツにとっては願ってもない環境でした。彼は、学校のオーケストラに加わり、やがて第1バイオリン奏者となりました。彼の仕事の1つは、楽器を管理することで、必要があれば弦の張り替えや調整をするのです。大事な行事の折にはたびたび指揮者の役も引き受けました。ある夏、シューベルトたちが学校の芝生でオーケストラの練習をしていると、通行人が大いに興味をそそられて集まってきましたので、少年たちの練習を見るために、その人たちにいすが用意されたほどでした。
その当時からフランツは、作曲をしていました。彼は作曲をやめたことがありません。私たちの口から容易に言葉がでるように、歌曲やピアノ曲が彼のペン先からあふれるように出てくるのです。しかし、1つだけ欠けていることがありました、それは作曲の先生でした。シューベルトは、対泣法や和声法は一応学びましたが、作曲方法は学んでいませんでした。その当時、シューベルトの作曲方法は、ほとんど独学で身につけたものでした。

 しかしやがて、フランツは、イタリアのオペラ大家アントニオ・サリエリから作曲の授業を受けることができるようになりました、作曲は学校の教科課程にはありませんでしたが、学校はシューベルトのなみはずれた音楽的才能を認め、町へ出かけてサリエリのレッスンを受けられるように手配してくれたのでした。フランツは学期中、町に行ける特権を与えられた、ただ1人の生徒でした。
サリエリの影響は、フランツが16歳のときに作曲した最初のオペラ 「悪魔の楽団」 に表れています。同じ年に 「第1交響曲二長調」 も作曲されました。
休暇になるとフランツは、家に帰って家族の四重奏団で演奏するのが待ちきれませんでした、彼の頭の中は音楽だけでいっぱいだったからです。その後、一家は、他の演奏家を加え、やがてシューベルト家の小さなオーケストラは、ウィーンじゅうに知れ渡りました。
フランツは、とりわけ歌曲の作曲が好きでした。31歳の生涯の間に600以上の歌曲を作っています。実際、彼は後年 「リート(歌曲)の父」 として知られることになります。リートとはドイツ語で歌のことで、シューベルトはドイツ詩人の作品を歌曲にした最初の作曲家として名を成しました。リートは、シューベルトの最初の歌曲 「ハガールの嘆き」 から実際にはじまったと言われており、この歌曲は、たしかにシューベルトの音楽家としての生涯のなかでも画期的な作品です。これは1811年、シューベルトが14歳のときの作品です。

 17歳になると、シューベルトは生活の道を考えなければなりませんでした。音楽に専念したいと思いましたが、現在と同じように当時の音楽家にとっても、それは困難なことでした。そのためにシューベルトは一時、父親の学校で先生になり、児童に音楽と一般科目を教えました、たびたび休日があり、作曲できる仕事の合間の時間がありましたが、シューベルトにとっては気の進まない仕事でした。2つの交響曲と6つのオペラ、数多くの教会音楽とピアノ曲、四重奏曲が1つ、150の歌曲、このおどろくべき多くの曲が、たった1年の間に作られました。シューベルトが18歳のときでした。
父親の学校で2年間先生をした後、シューベルトはフランツ・ホン・ショーバーという金持の若い男に会いましたが、ショーバーは、シューベルトが時間と天分を学校で急駄にしていると考えました。実際、ショーバーはそう信じて、若いシューベルトが作曲に専念できるように無料で食事と衣服を提供しました。
シューベルトは、すでに 「ファースト」 や 「魔王」 を含むドイツの大詩人ゲーデの詩を歌曲にしていましたが、今では経済的な心配もなくなり、すばらしい歌曲やピアノソナタ、第4交響曲や第5交響曲を次々と作曲していきました。シューベルトは自然を愛していましたので、作曲が終ると、午後にはウィーンの美しい郊外に、好んで長時間散歩に出かけたりしました。

 シューベルトは、美術や詩や音楽界に多くの友人を持っていて、いっしょにゆかいに過ごしたり、劇場通いをしたり、田舎に出かけたりパーティーに行ったり、ときには居酒屋やコーヒー店で多くの時間を過したりしました。シューベルトは、人と会うことを楽しみ、18世紀にパリやウィーンのような町で多くの創造的な若者が好んだような生活をしたのです。シューベルトは、つねにパーティーの中心人物で、社交界では 「シューベルトの夜」 として、評判でした。あるパーティーの夜には、彼の歌曲のなかでも、もっとも美しい歌曲 「きけきけひばり」 を請求書の裏に書きました。
数多くの交際仲間のなかには、宮廷オペラの有名な歌手ホグルがいました、ホグルは、シューベルトの歌をパーティーやリサイタルで歌い、ウィーンでのシューベルトの名前をいっそう高めました。ホグルは、1820年の夏、インペリアル劇場で、シューベルトの作曲した喜歌劇 「ふたごの兄弟」 を上演し、もう1つの喜歌劇 「魔法のたて琴」 は2か月後に上演されました。シューベルト自身の演奏会は、たった1回開かれただけでしたが、彼はもう、ウィーンの音楽界で確固たる地位を築いたのです。
シューベルトは背が低く太っていて、21歳のときには身長は5フィート (152.4cm) しかありませんでした。いつも丸くて縁が針金のメガネをかけていて、眠るときでさえ、はずしませんでした。私たちがふつう信じていることと反して、シューベルトはふつうピアノに向かって作曲したことはなく、机の上や、立ったままで作曲しました。

 シューベルトの歌曲は、ホグルや他の歌手の演奏会を通じてウィーンではよく知られていましたが、楽譜はほとんど印刷出版されてはいませんでした。友人たちはなんとかして出版しようと、寄付金を募って、シューベルトの20歌曲を出版できるだけの資金を集めました。出版されると、たくさんの人たちが買い求め、シューベルトは販売に苦労しませんでした。しかし、室内楽曲とピアノ曲の売れゆきはよくなく、交響曲はシューベルトの生存中には出版されませんでした。
出版されなかった交響曲に、死後70年間も日の目を見なかった 「交響曲ロ短調」 があります、この曲は現在 「未完成交響曲」 として知られています。シューベルトは、この交響曲を1822年から作曲しはじめ、以前名誉会員に推された音楽協会に贈呈するつもりでした。しかし他の仕事にじゃまされて、とうとう完成せず──実際には、最初の第2楽章までしか作曲されておりません。後に完成する予定だったようですが、どういうわけか、その後も手をつけませんでした。
現在シューベルトの室内楽曲のなかで、もっとも人気のある曲の1つ、「四重奏曲ます」 を真夜中に作曲しているときに、疲れていたシューベルトは、まちがって砂箱のかわりにインクびんを譜線紙にながしてしまいました。当時は、吸取紙の代用に砂箱を使用していたのです。このしみのついた譜線紙と、それを説明した手紙が現在でも残っています。

 シューベルトは、よく恋をしましたが、結婚はしませんでした。彼の初めての真剣な恋は17歳のときで、相手は彼の作曲した 「ミサ曲ヘ長調」 のソプラノのソロを歌ったテレサ・グロッグという少女でした。シューベルトは、この初恋のことを 「3年間ずっと私は彼女と結婚したいと望んでいました。しかし、私たちの望みを果たせず、2人ともたいへん悲しい思いをしました」 と書いています。後年1824年に、ハイドンが以前楽長をしていたエステルハージ家に、短期間子どもたちを教えにいったとき、そこで今度は娘のカロリーヌを恋しました。
実際、シューベルトは健康な若者らしく何回となく恋をし、失恋しましたが、よく言われているように、失恋の痛手を歌の作曲に向けたという話は事実ではないようです。
シューベルトは、たいへん多作な作曲家で、ときには1日に8曲の歌を作曲したこともあります。感動的な歌曲集 「美しき水車小屋の娘」 を1823年に作曲し、4年後には 「冬の旅」 を作曲しました。シューベルトはまた美しい 「四重奏曲イ短調」 を含む15の弦楽四重奏曲も作曲しました。
数曲のオペラを作曲しましたが、シューベルトは、劇場はいささか苦手でした。しかし、1823年にウィーン劇場で初演された 「ロザムンデ」 はある程度の成功をおさめました。やがてすべてのウイーンの人は、このオペラからのメロディを口ずさむようになりました、現在、私たちのよく知っているのは、その美しい序曲だけです。

  シューベルトとべートーベンは、同じウィーンの町に何年も住んでいましたが、会ったことはありませんでした。ベートーベンはヨーロッパじゅうに知られていましたが、シューベルトはウィーンの音楽を理解する少数の人たちにしか知られていませんでした。シューベルトはもちろんベートーベンをよく知り、尊敬していましたが、ベートーベンの方は、シューベルトの名前さえ知りませんでした。
気の毒にも、シューベルトは友人に連れられてベートーベンに会いにいったとき、シューベルトはこの大作曲家をあまりにも畏怖していたため、ベートーベンが彼に質問すると石のようになり、部屋から逃げ出してしまいました。
最後の大作、深遠な 「第9交響曲ハ長調」 ( 「ザ・グレート」 として知られている) の作曲後、シューベルトは行きつけの宿屋で魚を食べました。その魚はとても食べられたものじゃないと言って、シューベルトは宿屋の主人に皿を押し返しました──その数日後、シューベルトはチフスにかかり寝こんでしまいました。
シューベルトは兄のフェルナンドの愛情のこもった看護を受けましたが、まもなく31歳という短い一生を終えたのです。シューベルトの最後の望みの1つは、1年前に亡くなったベートーベンの近くに埋葬されることでしたが、その望みはかなえられました。
シューベルトは、歌曲、交響曲、オペラや他の音楽を1000曲以上も作曲しましたが、生きている間に受け取った金額は、現在のお金で525ポンドにも満たない額でした。彼が亡くなったときの手書の楽譜の価値は、たった8シリングと6ペンスだったのです。


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