レディバードブックス100点セット
 

 

[大芸術家1]レンブラント他

ルーベンス

 ピーター・ポール・ルーベンスは1577年に生れました。彼の家系は、低地帯の一部、現在私たちがベルギーと呼んでいる国にある、アントワープの出身でした。
当時、オランダとベルギーは、ともにスペインの支配のもとにありましたが、人びとは圧制者に反抗しはじめていました。ルーベンスの父親はスペイン人の見張りをぬけて、ドイツへ逃亡しました、ルーベンスが生れたのは、そのドイツのシーゲンという町です。9歳までは両親や兄のフィリップとコロンに住んでいました。1587年に父親が亡くなると、母親はルーベンスたちを連れてアントワープにもどりました。
ルーベンスはアントワープの学校に入り、ラデン語とギリシア語を学びました。母親は、ルーベンスを廷臣にしたいと望んでいましたので、13歳のときに年配の王女マルゲリタ・デ・リーネの近習として宮廷に送りました。この宮廷生活は、すでに絵の才能を表しはじめたルーベンス少年にとって、あまり興味のあるものではありませんでした。
ルーベンスは母親に頼んで宮廷から出してもらい、1591年には、風景画家のトビアス・ウェルヘットに師事することになりました。6か月後には、アダム・バン・ノールトに師事し、その後4年間、アダム・バン・ノールトの粗末ながらも活気に満ちたスタジオで過しました。ルーベンスの3番目の先生は旅行好きのオットー・バン・ビィーンという賢明な人で、ルーベンスは1600年まで、この画家の画室で学びました。

 ルーベンスは目鼻立ちが整い、背が高く金髪の立派な若者でした。ラテン語とギリシア語を知っていて、母国語のフランダル語の他にフランス語、イタリア語、スペイン語も話せました。
1600年、ルーベンスは23歳のとき、偉大な画家たちが住んでいるイタリアへ向かいました。ベニスでマントバ公爵に会い、彼の宮廷画家となりました。その後、ルーベンスとマントバ公爵はフローレンスに旅行をし、ルーベンスは、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ビンチ、ラファエルらの偉大なルネッサンス画家の作品を学ぶことができました。
ルーベンスは、フローレンスでレオナルド・ダ・ビンチの有名な素描 「アンギアリの戦い」を模写しました。後にこのレオナルド・ダ・ビンチの描いた素描は紛失してしまい、ルーベンスの模写したものだけが残されています。ルーベンスは他に、およそ100年前に亡くなったラフアエルの絵も数点模写しました。
やがて、ルーベンスは、マントバ公爵の代理として、国王の贈物をもってスペインへ行きました。絵や馬車、それに6頭の栗毛の馬などを持っていきました。このスペインへの旅は、たえず風雨の吹き荒れるひどい旅で、20日間もかかりました。いくつかの絵は悪天候のために破損してしまいました。
ルーベンスはマントバ公爵のところに8年間滞在しました。そして偉大な画家となり、宮廷生活にも慣れました。1608年に母親が病気になり、ルーベンスは急いで家に帰りましたが、アントワープに着く前に母親は亡くなってしまいました。

 母親が亡くなってから、ルーベンスはイタリアへはもどらずにアントワープに留まりました。スペインとオランダとの戦いで、アントワープの町は荒廃し、オランダ人はシェルド川を閉鎖しましたが、これは交易がほとんどできなくなり、市民の数も少なくなることを意味していました。街路には雑草がおい茂るありさまでした。
アントワープの町の統治者であり後継者となったのは、スペイン王女イザベラと夫のアルベルトでした。2人はルーベンスを歓迎し、500フロリンで宮廷画家の職を申し出ました。ルーベンスはブリュッセルの宮殿ではなく、アントワープに住む条件で申し出を引き受けました。
1609年に、ルーベンスは良家の賢い娘、イザベラ・ブランツと結婚しました。彼女は18歳で、ルーベンスはとても幸福でした。ルーベンスはよくイザベラを描きましたが、そのなかの1つに、2人がともに描かれた絵があり、それには美しく着飾った2人が、彼らの家の庭に咲き乱れるスイカズラの花を背景にして描かれています。
ルーベンスはアントワープの町に立派な家を買い求め、増築しました。彼は低い垣根と植木鉢に木を植えてイタリア式の庭園にしました。また、大きな画室と凱旋門も作りました。その他に、半円形の美術陳列館も建て、収集した彫像を陳列しました。ルーベンスはアントワープで大成功を収め、多くの人びとが画室を訪れました。彼は1日じゅう精力的に仕事をし、疲れると、ときどき馬に乗ってシェルド川の土手を走らせて楽しんだりもしました。

 ルーベンスは、あまりにも有名になりましたので、多くの若い芸術家たちが仕事を求めてきて、1611年には100人ほどの弟子志願の若者を断らなければならないほどでした。
たくさんの絵にルーベンスの名前が記されていますが、その全部をルーベンスが描いたとは考えられません。確実にルーベンスが制作した絵は、大型の絵のための小さな油絵のスケッチだけでした。これを手本にして、弟子たちに大型の油絵を描かせるのが彼のやり方でした。最後の仕上げをルーベンスがして、その完成した絵に名前を記入したのです。
ルーべンスは弟子たちに、鳥や動物、魚、花、また、森や景色や川などを自分の絵の中に描き入れるよう練習させました。弟子のなかのアンソニー・バン・ダイクは、後にイギリスで有名な画家になりました。
ルーベンスは、絵を描きながら、客の接待をしたり、手紙を読んだり、口述筆記をさせるのを同時に進行させたと言われています。「私は、世界でもっとも忙しく、悩みの多い人間である」 と、ルーベンスが言ったのも不思議ではありません。
ルーべンスは自分の絵を銅版や木版にさせて、よりいっそう名声が広がりました。実際の原画を見られない人にも作品が知れ渡ったのです。しかし、ルーベンスと彫刻師との間に紛争が起りました、彫刻師は、ルーベンスの絵のためでなく、自分の彫刻がすぐれているので、複製画が有名になったのだと言い張りました。
ルーベンスは立派な行政手腕の持主でもありましたので、絵で生活できない画家たちに、自分の絵画工房での仕事を用意してやりました。

 当時、フランスやスペイン、それにイギリスとベネルックス三国 (ベルギー・オランダ・ルクセンブルグ) は、お互いに権力争いをしていましたが、戦争になることは避けたいと望んでいました。こんな状況のために、ルーベンスは、画家以外に外交官としての機会に恵まれました。ルーベンスは、謡にも好かれ信用されていましたので、見かけは画家として、実際は自国ベルギーの代表者として諸国を旅行することができました。
ルーベンスは数回パリを訪れ、ルクセンブルグ官殿を飾るために、皇太后の生涯における数場面の絵を描きました。パリではまた、フランスの政治家やイギリスのバッキンガム公爵に会いました。
1622年に、アルベルト総督が亡くなりましたので、イザベラは、よりいっそうルーベンスを頼りにし、貴族の一員として宮廷に迎え入れました。
その後、ルーベンスは外交使節としてスペインへ行きましたが、そのときでさえ絵を描き続けていました。偉大なスペイン画家ベラスケスに会い、2人でマドリッドの郊外にある山へ登ったりしました。ルーベンスは、スペイン王家の肖像画も描きました。
1626年には、ルーベンス夫人のイザベラ・ブランツがベストで亡くなりました。ルーべンスは悲しみを忘れるために政治の仕事に没頭しました、しかし、たびたび廷臣の不実にあい、また息子のアルベルトやニコラスと長い間離れて暮さなければならないさびしさに、ルーベンスは疲れ果ててしまいました、2人の息子を描いた絵は、現在でもロンドンの国立美術館に残っています。

 ルーベンスがイギリスを訪れたことは興味深いことです。当時のべネルックス地方はスペイン国王に統治されていて、ルーベンスは国王の命令でイギリスと大使交換の取りきめに送られたのです。ルーベンスは1年近くロンドンに滞在しました。ルーベンスは、イギリス人は気まぐれ者と思っていましたので、イギリス訪問に対して期待をよせていませんでした。しかし、やがて彼はイギリス人を好きになり、チャールス一世もルーベンスに好意を持ちました。ルーベンスは、ケンブリッジ大学を訪れて、美術修士の称号を与えられました。また、チャールス一世からはナイト爵を授かり、終生イギリス王室の画家として留まるよう説得されました。
ルーベンスは 「聖ジョージと竜」 を描き、国王に寄贈しました。聖ジョージにはチャールス一世の顔が、そして、聖ジョージが竜から救った王女の顔には、国王の妃のへンリエッタ・マリアの顔が描かれています。その絵の背景はテームズ渓谷の景色でした。
ルーベンスはイギリスからもどると、宮殿の 「白の広間」 の天井に9つの大きな絵を描きました。その絵は、ジェームス一世の生涯の物語でした。ルーベンスが天井の大きさをイギリスのフィート単位で正確に計算しませんでしたので、パネルは天井にぴったり合いませんでした。チャールス国王は、この絵の代金支払に長期間かかりましたが、たいへん喜びました。国王は、その広間の絵をローソクの煙で破損してはならないと思い、3年間その部屋で宴会を開くことを禁止したほどでした。

 このころまでには、ルーベンスは外交使節の生活に疲れ、王女イザベラに、アントワープに留まって宮廷画家として働きたいと申し出ました。
ルーベンスは再婚の決心をし、その相手に16歳の娘、ヘレーネ・フールメントを選びました、彼女は絹をあつかう商人の11番目の子どもでした。宮廷生活にうんざりしていたので.ルーベンスはわざわざ素朴な娘を選び、「私が絵筆を取るのを見ても恥しがらない人」 と言っていました。
やがて、イザベラ王女は亡くなり、スペイン国王の弟がベネルックスの総督に選ばれました。新総督がアントワープに到着すると、一般市民は大祝賀会を催して歓迎しました。ルーベンスは、大祝賀会の飾りつけや凱旋門の設計や、儀式用馬車の責任者になりました。新総督が川から市に近づくと満艦飾の船が行列して迎えました。音楽家は楽器を演奏し、人びとは路上で舞い、祝砲が鳴り響き、大寺院の塔の上に花火が打ちあげられました。ルーベンスは、その祝賀会には出席しませんでした。というのは、自分の仕事のために疲れ果て病気になってしまい、新総督が到着したときには、ベッドに伏していたのです。

 ルーベンスはもう廷臣ではありませんでしたが、画家として忙しい毎日を過し、スペイン国王の絵をたくさん描きました。しかし、都市生活に疲れきったルーベンスは、家族といっしょにステーン城に住む決心をしました。ルーベンスが住んでいた大邸宅は、現在でもアントワープの郊外の北部に残っています。ルーベンスは、その地方の領主になり、邸宅の周囲の森や土地を買いとりました。
当時のルーベンスの家は、彼の絵で見ることができます。城には、はね橋や堀や湖、それに農家があります。絵によるとルーベンス邸は谷や丘に囲まれていますが、実際には平坦な土地に建てられていました。ルーベンスはつねに過去を愛し、邸に飾られている絵には、はね橋の前に馬上の騎士を描いた絵があります。
ルーベンスはフェルデナンド総督の宮廷画家でしたが、へレーネ夫人や4人の小さな子どもたちといっしょに郊外にひっそりと住んでいました。晩年には数年間、痛風に悩まされ、手は使えなくなりました。ルーベンスは1640年に亡くなり、末娘はルーベンスが亡くなってから生れました。
ルーベンスの作品は、華麗な色彩と力強い描線で有名です。それはルーベンスの活気に満ちた性格が画風に出ているからです、ルーベンスの肖像画も生気に満ちて描かれています。ルーベンスは、歴史上、偉大な芸術家の一人として今日でも尊敬されています。

 

レンブラント

 レンブラント・バン・ラインは、1606年にオランダのライデンに生れました。その当時は、イギリスではエリザベス一世が亡くなった直後で、シェイクスピアが劇作家として活躍していました。オランダでは、スペインの統治から自由を奪いとるために戦争をしており、平和と繁栄が間近な時期でもありました。
レンブラントは粉屋の息子として生れ、母親はパン屋の娘でした。彼は7人きょうだいの6番目でした。
ライデンの町は、現在でもそうですが、ライン川のほとりにある有名な古い大学町で、レンブラントの部屋の窓からは自分の家の庭の風車が2つ見えました。風車の向うには、はしけがあり、帆船が忙しく行き来する川でした。
レンブラントの子どものころのことは、はっきりとわかりませんが、7歳のときにライデンの小学校に入学し、14歳のときには大学へ入学していました。このようなことは、当時では珍しいことではありませんでした。しかし、やがて、レンブラントは勉学に向いていないと感じ、画家になりたいと両親に願い出ました。
レンブラントの両親は、ライデンのジャコブ・バン・スワネルブルグという画家に、レンブラントを3年間見習として弟子入りさせました。彼はライデンで絵を描くようになりましたが、やがて、1624年にアムステルダムに出て、ライデンの画家よりも見聞の広いすぐれた画家に会いました。画家としてのレンブラントの出発は、このアムステルダムに来てからでした。

 その当時のほとんどの画家は、イタリアに留学して、偉大な芸術家の作品を見ることが習わしとなっていました。レンブラントは一度もイタリアへ行きませんでしたが、アムステルダムの新しい先生の、ピエール・ラストマンからイタリア絵画をいろいろ学びました。
レンブラントは、特に旧約聖書からの宗教画に興味をもちはじめ、強力な光と影による明暗法で絵を描きましたので、レンブラントの作品はすぐわかりました。アムステルダムの人びとをたびたび描き、宗教画の中の人物にも、当時のオランダ人の服装をして描かれているものもあります。
アムステルダムは大都市になり、アントワープに代って北ヨーロッパの新しい主要港となりました。先生のラストマンといっしょに働いてから、レンブラントはライデンにしばらくもどりましたが、まもなく、アムステルダムに帰り、その後はアムステルダムから離れませんでした。
1631年、レンブラントは25歳のとき、有名な絵を描きました。それは 「解剖学講義」 と呼ばれ、トゥルプ博士が、死体の回りにすわっているオランダの医師たちに、死人の腕の筋肉を示している絵です。この 「解剖学講義」 は新方法の集団肖像画でした。以前なら、医師たちは1列に並んでまっすぐ直立している姿で描かれたことでしょう。人びとは、この新しい画家に注目し、レンブラントのところに肖像画を描いてもらうために集まってきました。

 レンブラントは、アムステルダムに住んでいる友人や医者、法律家やユダヤ人の知識人を描く方を好みましたが、このころになると、裕福な人や重要人物の肖像画を描きはじめました。
彼の生涯に描いた多くの自画像を見ればわかりますが、レンブラントは顔立ちのよい若者ではありませんでした。大きな鼻とぶ厚い唇をし、髪はざんばらで、油絵用の筆を服でふいたと言われています。しかし、彼はぜいたくで、立派な服装をするのが好きでした。古い時代の衣装に興味をもち、画室には収集した服がたくさんかけられていました。
アムステルダムに落ち着いたレンブラントは、ウレンボルシュという画商の家に住みました。この画商は、若者に複写させて絵の勉強をさせる学校も経営していました。画商の学校で、レンブラントは画商のいとこのサスキア・ウレン・ボルシュに会いました。サスキアは孤児でしたが、有力な良家の生れでしたので、相当な額の遺産金を残されていました。
1634年に、サスキアとレンブラントは結婚し、とても幸福でした。レンブラントは、美しい東部地方の衣装をつけ、髪には花を飾ったサスキアの絵を描きました。その他にも、自分のひざの上にサスキアを乗せ、酒を飲んで笑っている絵も描きました。
レンブラントは、今では流行画家となり、その作品は高価で売れました。レンブラントとサスキアに必要なものは、立派な家だけでした。

 レンブラントがアムステルダムに買い求めた家は、大部分改築されていますが、現在でも残っています。その家は、アムステル川のほとりにあり、レンブラントとサスキアが住んだときは新築同様でした。
レンブラントは大収集家でしたので、多くの美しい物をせり市で買い求めると、絵の中に描き入れました。洋服はもちろん、よろいやナイフ、サーベル、楽器や他の画家の絵や彫刻板をも買いました。
この所有物は、画家のレンブラントにとっては非常に重要なものでした。レンブラントのかわいがっていた猿が死んだので、その記録を残そうとした話が伝えられています。予備のカンバスがなかったので、レンブラントは、そのとき描いていた金持夫妻の肖像画の中に猿を描き入れようとしたのです。もちろん、その金持夫妻は、猿が生きていようと死んでいようと肖像画に描き入れることを望まず、怒って出ていってしまいました。その後、レンブラントはその絵を仕事部屋の仕切に使いました。
レンブラントの家は、非常に高価でしたので、支払を完全に済ませることができませんでした。絵は高く売れましたし、サスキアの持参金も相当ありましたけれど、レンブラントは、このあと死ぬまで貧乏に悩まされました。

 やがて、レンブラントにたくさんの不幸が舞いこみました。母親が亡くなり、レンブラントには4人の子どもが生れましたが、生後数か月で次々と亡くなり、生き残ったのはたった1人でした。当時は、乳幼児の死亡がたいへん多かったのです。
息子のタイタスが生れると、妻のサスキアは病気になってしまい、1642年に亡くなりました。サスキアは、遺産をレンブラントと子どもに半分ずつ残しました。サスキアの遺言は、もしレンブラントが再婚した場合、レンブラントへの遺産はサスキアの実家へ返すことになっていました。
このような不幸にもめけず、レンブラントはサスキアの亡くなった年に、もっとも有名な作品を描きました。それは 「夜警」 という作品で、これを見るために、今では毎年50万人もの人が、アムステルダムのリークス博物館へ行きます。この絵は、アムステルダムの市民軍の集団を描いたもので、その集団は徐々に軍団的性格を失って、社交クラブのようになっていました。「解剖学講義」 と同じように、レンブラントは 「夜警」 も形式的な集団肖像画にしないで、犬や子どもまでも絵に入れました。各個人は別個に描かれて、絵の中に占める割合によって、それ相当の金額を支払いました。
強烈な光と影のせいもあり、また年月とともに絵が暗くなったこともあって、そのために「夜警」 と呼ばれていますが、実際は昼間の場面です。本来の作品名は 「フランツ・バニング・コック大尉の指揮する民警の行進」 というのです。

 レンブラントは油絵画家として有名でしたが、同時に、おそらく当時もっともすぐれたエッチングの名手でもありました。
エッチングは、彫版と同じように銅板に処理して、その板から数多くの複写ができます。彫版工は鋼鉄の道具を使って、リノリュームを彫るように銅板を彫らなくてはなりません。しかしエッチングは作業がずっと早くできます。まず銅板にワックスかワニスを薄く塗ります、針の先を使って軽く描き、ワックスだけに傷をつけます。それからその銅板を酸につけます。ワックスのはけたところだけが酸におかされ、その部分が腐食されて銅板に描かれるのです。エッチングも彫版と同じ方法で印刷されます。インキをその銅板全部に塗り、その後掃き取りますと腐食された線にだけインキが残ります。これに紙を乗せて押せば印刷されるのです。レンブラントは、この方法で多くの肖像画や風景画、宗教画を作りました。しかし、誰にもこの正確なエッチングの方法を教えませんでしたので、レンブラントが亡くなると、その方法は秘密のままになりました。
レンブラントは風景画にますます興味を示し、アムステル川のほとりを何マイルも絵を描きながら歩きました。彼は新しい建物には興味をひかれませんでした。アムステルダムの新公会堂には目もくれずに、むしろこわされていく古い方の公会堂を描き続けました。また、ペンとインキを使って、古い風車や、こわれた教会を描き、漁師や船頭、農夫を描きこみましたので、当時の日常生活が現在の私たちにもわかります。

 サスキアが亡くなってからも、レンブラントは再婚できませんでした、再婚すれば、遺言により残された遺産を失うことになるためでした。レンブラントの晩年の伴侶は、ヘンドリケ・ストフェルでした。へンドリケは軍曹の娘で、サスキアのように裕福な良家の娘ではありませんでした、彼女は、レンブラント家の家政婦で息子のタイタスの子守をしていました。彼女は、何度もレンブラントの素描や絵のモデルにもなりました。
レンブラントは依然として浪費家で、いろいろな物をたくさん収集し続けていました。家の支払もまだ終っていませんでしたし、1656年までには破産状態になりました。経済的なごたごたは4年間続き、最後には、全財産を売らなければならなくなりました。
数百の絵や素描、その他たくさんの像も含めた全財産の目録が作られました。ヘルメットや胴よろい、石失、それに矢や楯、弦楽器7個と13個の竹製吹奏楽器もありました。レンブラントは、気の毒にも、これらのものすべてと、そしてライオンの皮や鹿角、「47の海の創造物」 などの作品も手離さなければなりませんでした。その他に極楽鳥までありました。
1660年に、レンブラントはとうとう、サスキアを花嫁として迎えた家から離れなければならず、市の反対側にある、ずっと粗末な家に移り住みました。

 会員の経済の業務を支配していた当時のサン・ルカ組合は、レンブラントが自分の絵を売ることを禁止しましたが、タイタスとへンドリケが彼の代理人になって、レンブラントに作品の支払をしました。
レンブラントは、風景画と大がかりな絵の制作は断念しましたが、肖像画を描いたり、弟子に教えることは続けました。人びとは、レンブラントの作品にもはや敬意を払わなくなり、ある人は 「あまり絵の具が厚く塗られているので、絵を床に置くと、鼻で持ち上げられる」 と言ったと伝えられているほどです。60歳になると、自画像でもわかるように、レンブラントは白髪となり、額にはしわが寄って、服装にも気を配らなくなりました。
その当時のほとんどの画家は、宮廷で仕事をし、当世風の絵を描いていましたが、制作に熱中しているときのレンブラントは、世界に君臨する君主にさえも見物させなかったと言われています。
レンブラントは、天からすばらしい才能を与えられた画家でした。そして、彼の明暗法、つまり光と影の扱い方にかけては、彼にまさる人はいませんでした。息子のタイタスが27歳の若さで亡くなると、悲しみに打ち沈んだレンブラントは、その1年後1669年に、亡くなりました。レンブラントの死は、その当時にはアムステルダムではほとんど注目されませんでしたが、現在ではオランダの画家のなかでも、もっとも偉大な画家として認められています。

 

フェルメール

 ルーベンスとレンブラントは、フランドールとオランダの偉大な画家ですが、美術史上には他にも多くの重要な画家がおります。ピーター・プリュ」ゲル(1525‐1569)は農民の生活風景で知られ、アンソニー・バン・ダイク(1599‐1641)はルーベンスの弟子で、肖像画家としてイギリスで有名になりました。フランツ・ハルス(1582‐1666)も肖像画家で「笑う騎馬兵」で有名です。3人の名をあげましたが、17世紀はオランダ絵画の開花期で、その代表的画家の1人がデルフトのヤン・フェルメールです。
フェルメールは1632年に生れました、その年は、レンブラントが「解剖学講義」を描き、 ルーベンスがちょうどイギリスから帰ってきた年でした。フェルメールの生涯については、ほとんど知られていません。フェルメ)ルの日記や手紙は残っておらず、フェルメールに関する記録がわずかに残っているだけです。自画像も描いておりませんので、フェルメールがどんな容貌をしていたかさえ、はっきりとわかっておりません。フェルメールの作品「画室の画家」に描かれている画家は、フェルメールにちがいありませんが.それも背を向けているので、うしろ姿しかわかりません。他の作品に、音楽家が描かれていますが、美術専門家の間では、それがフェルメールの自画像だとされています。
フェルメールの父レニエルは、カーテンや室内装飾用のつづれ織りを作る絹織工でした。居酒屋の「メケレン」と画商も営んでいました。このように父親は‐ さまざまな職業で息子に経済的安定を与え、フェルメールは少年のころから美術の世界に接していたと思われます。

 学生時代のフェルメールについては、何も知られていません。たぶん、父親は自分でデザインしてつづれ織りを作るほどの人だったので、フェルメールに画家としての初等教育を自分でしたことでしょう。フェルメールは、6年間の年季を終えたあと、21歳のときにマスターとなりましたが、誰に師事したかは知られていません。フェルメールの師として名前のあがっている芸術家に、レンブラントの弟子だったカレル・ファブリチアスがいます、というのは、1654年にファブリチアスがデルフトで火薬の爆発で亡くなったとき「彼の芸術は、フェルメールのなかに生き続けるだろう」と言われたからです。そのころのフェルメールは、まだ無名の若い画家でしたので、先ほどの言葉によると、ファブリチアスにもっとも期待されていた弟子であったと思われます。
フェルメ」ルは、23歳のときにカサリーナ・ポルネスと結婚しました。2人は、父親の家に住みましたが、部屋は居酒屋の2階で、織物職場を兼ねてし、て、また画商の仕事もそこで行なわれていました。
2年後に父親は亡くなりましたので、居酒屋と画商の仕事はフェルメールが受けもつことになり、そのため23歳の彼は、他の画家がうらやむような経済的に恵まれた地位にありました。この2つの事業の収入で、フェルメールは家族と、未亡人となった母親のめんどうをみることができたので、気の向くまま絵を描くことができました。
フェルメールの全作品は、静かな気品に満ちたものです。フェルメ」ルの生涯の記録が残っていないということは、彼は偉大な画家でしたが、それほど強烈な個性の持主ではなかったとも言えます。フニルメールは、妻のカサリ」ナと8人の子どもとともに.デルフトの尊敬された市民として、おそらく幸福な家庭生活を過ごしたことでしょう。

 デルフトの町は、ライデンやアムステルダムと同様に、運河と並木道のある古い都市です。また音から陶器で有名な町ですが、この陶器は、音の旅行者が極東地域から持ち帰った青と白の手描きのデザインです。
フェルメールの2つの絵から、300年前のデルフトの町のようすが、はっきりとわかります。その絵の1つは有名な「デルフトの風景」で、運河の向うに町を配し、門番小屋や鐘つき堂、修道院が見える町並や、岸壁につながれたはしけが描かれています。その風景は、オランダ特有の真珠色のような光を浴びて、オランダの町の絵としては、もっとも有名な絵の1つです。もう1つの有名な「デルフトの街路」は、フェルメ」ルが自分の家の窓から描いた絵です。この絵では、石だたみの道の向うに古いレンガ造りの建物があり、白く塗った入口の奥で仕事にかかろうとしている婦人が描かれています。鋪装された歩道と鉛わくの窓にペンキを塗った雨戸、それに時代を経たレンガなどが愛情をこめて描写されています。この2つの絵だけが、フェルメールの屋外を描いた絵です。
デルフトの町は、以前は美術活動の中心地ではありませんでしたが、フェルメールの時代になると、数人の有名な画家が住むようになりました。カレル・ファブリチアス、ポーラス・ポター、ピーター・デ・ホークやヤン・ステーンなどがそうです。フェルメールも、他の画家たちと同様にサン・ルカ組合に加入し、2回も組合長の役を歴任したことは、フェルメールが高く評価されていたからにちがいありません。しかし、このことは、フェルメールの熟達した画商としての信望によるものだろうと思われます、というのは、彼は画家としてはあまり知られていなかったからです。

 イタリアの画家たちは教会の壁に宗教画を描きましたが、オランダやフランドールの画家たちは日常生活の中の光景、すなわち風俗画や肖像画を好んで描きました。フェルメールも、その例にもれず、彼のほとんどの絵は風俗画でした。
フェルメールは、楽器を持ったモデルを描くのが好きでした。リュートを演奏している婦人と、ギターを弾いている若い婦人の2枚の絵があります。その他、音のピアノの一種である小型ハープシコードを演奏している婦人たちを描いた2枚の有名な絵が、ロンドンの国立美術館にあります。また、地球儀を手にした天文学者や、地図といっしょの地理学者の絵も描きましたが、ほとんどの絵は、オランダの主婦が毎日の仕事をしている様子を描きました。彼女たちはし」スを作ったり、手紙を書いたり、真珠を身につけたり、台所で働いていたりしています。
これらの絵は、 フェルメールの画室で描かれたと思われます。光は、左手の高い鉛わくの窓から入り、同じタイルの床や厚いつづれ織りのテーブルクロスがよく描かれています。うしろの壁には、フェルメールの地図がかかっていて一 探険と発見の時代のオランダ人たちと同機に、フェルメールも世界に対して興味を持っていたことがわかります。
フェルメールの絵は、すべて完全に調和した色彩とすばらしい平衡感覚をもち、いくぶん幾何学的な絵でした。物体は、愛憎深く、またきわめて写実的に描写されてし、ますので 「だまし絵」 を連想するほどです。「だまし絵」 とは、物体があまりにも本物そっくりに描かれるので、絵の中の物体がほんとうにそこにあるように、目に錯覚をおこさせる絵のことです。

 フェルメールの素描は、ほんの数枚が現存しています、心地よい絵ではありますが、ルーベンスやレンブラントの華麗な素描とは比べものになりません。
完全無欠な絵を描くために、フェルメールは、「カメラ・オブスキュラ」として知られる装置を使いました。この装置は、箱の前面に穴があり、うしろにはすりガラスのスクリーンのある簡単な器具で、当時多くの画家たちに使用されていました。箱にはフードがついていて、それで画家は頭をおおいます。すると、前面の光景がガラスのスクリーンに映りますので、画家は像の輪か〈を描くことができます。その描いたものを用意されたカンバスに転写したのでした。この方法は、初歩的な装置の型では像はさかさに写ってしまい、作業もむずかしくめんどうだったことと思われます。
フェルメールが使用した装置について正確な記録はありませんが、彼の作品に与えた影響を考えてみたいと思います。次ページの絵は、ガラススクリーンに映った像が、いかに遠近法を誇張しているかをあらわしています。大デープルの向うにいる人物は小さく、床は手前で広がっているように見えます。フェルメールは、色彩と細部描写に熟練していましたので、この構図から立派な作品を作ることができたのです。フェルメールは、全作品に 「カメラ・オブスキュラ」 を使用したかどうか正確にはわかりませんが、このエリザベス二世所有の絵は、この方法で制作されたものであることをあらわしています。

 悲しいことに、フェルメールの絵は、生前にはあまり真価を認められませんでした。1663年にデルフトを訪れた、フランスの貴族のバルタサール・デ・モンコニーの言った言葉がそのことを物語っています。「私は画家のフェルメールに会ったが、彼は自分の絵を持ち合せていなかった。パン屋の家で彼の絵を1枚見て、600フロリンで買った。600フロリンどころか、600ピストルでも高すぎる買物だった」 1ピストルは、スペインの少額硬貨ですが、このデ・モンコニーはフェルメールの作品に対して、どんな評価をしていたかがよくわかります。
当時、フェルメールの絵がほとんど認められなかったことは、今日のわたしたちには信じられないことです。しかし、当時の他の画家の作品と比較してみると、納得がいきます。ほとんどのオランダの風俗画は、絵の価値はまった〈別として、何、かしら事件とか物語性を含んでいて、居眠りしている女中とか、いたずらな子どもを描くなど、貧しさの絶望的状態や生活の他の側面を道徳的に説明していました。フェルメールの絵は、絵の絵画的価値だけに重点を置いていたのです。ブニルメールは、色彩の配置の妙や、さらさらした質感となめらかな質感の対比の美しさを私たちに見せてくれます。フェルメールは、絵をほとんど幾何学的に構成し、構図の一部分を暗くして、他の部分とバランスがとれるように描きました。この方法は抽象主義的で、フェルメールは前衛すぎたため、その当時の人びとに理解されませんでした。
フェルメールの絵が、彼の同時代の人びとの好みに合わなかったもう1つの理由は、カメラ・オブスキュラの効果にあったようです。現在ではこの方法は一般的になっており、私たちはフェルメールの作品を見てもそれほどおどろきません。しかし、当時は問題にされて「効果はめさましいが不自然である」と、ある批評家が言っています。
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フェルメールは、レンブラントがその初期に、ルーベンスが生涯を通して成功の喜びを味わったようには、生存中は認められませんでした。
画商の仕事を続け、その専門家として高く評価されていた記録があります。あるアムステルダムの画商が、プランデンブルグの選帝漢に数枚の絵を高額で売りました。選帝僕は、その値段に疑問を持ち、フェルメールの意見を求めました。その絵を調べたフェルメールは、その絵は価値のないものと選帝僕に言明しました。
1672年に、フランス国王はオランダに宣戦を布告し、フェルメ」ルは商売ができなくなりました。そのため、市場の家から小さな家に引っ越さなければなりませんでした。
フェルメールは、1675年に43歳でなくなりました、残された夫人や8人の子どもたちは破産の状態でした。かわいそうなカタリーナ夫人は、フェルメールの2枚の絵でパン屋にお金を支払い、20枚の絵で女店主に借金を返さなければなりませんでした。最後にはカタリーナはフェルメールの地所をなんとか負債から救うことができました。
フェルメールは40枚くらいの絵を描き残しています。フェルメ」ルの絵は、200年間もの間、忘れ去られていましたが、少なくとも1人だけ認めていた人がいました。その人は、英国学士院の初代会長であったジョシュア・しイノルズ卿で、18世紀のなかこるオランダを訪れ、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」(47ページ参照)を見て、オランダで見たなかで、いちばんすばらしい絵だと断言しています。
フェルメールの才能が認められたのは、19世紀になって、フランスの印象派画家たちが、フェルメールのような考えで絵を描きはじめてからでした。しかし、現在では、フェルメールの絵はたいへんみんなに好まれています。

  フェルメールの作品は割合と少なく、収集家や美術館では、いつでも彼の作品を所有したがっています。1935年から1945年にかけて、フニルメールの作品を偽造したオランダの画家バン・ミーゲレンについてのおもしろい実話があります。
バン・ミーゲレンという画家は、自分の作品を批評家から酷評されて腹を立て、フェルメールの作品を偽造することを思いつきました。いろいろ実験した結果、バン・ミーゲレンは古い絵に特有の非常に堅い絵具を作りあげ、古いカンバスから原画を取り除いて、その上に自分の絵を描きました。フニルメールの使用した青色を準宝石の瑠鞍から作り、黄色地は土と松やにで作ったのです。このようにして作りあげられたフェルメールの偽作に、人びとはだまされて、最初は6万ポンドでロッテルダムのポイマン美術館に買われました。バン・ミーゲレンは、フェルメールの偽作を全部で6枚作り、50万ポンドももうけました。
ナチスの指導者ゲーリング元帥は、バン・ミーゲレンの6番目の「フェルメール」を手に入れました。戦後、ゲーリング元帥の所有物のなかから、この絵が発見され、バン・ミーゲレンは敵に協力した罪で逮捕され、事態は思わぬ方向へ向かいました。バン・ミーゲレンは反逆者であると認めるよりはと、フニルメールの絵を偽造したことを自白したのです。その証拠を見せるためにバン・ミーゲレンは、証人の前でフニルメールの偽作を描いてみせました。バン・ミーゲレンは罰として、1年の刑を申し渡され牢へ入れられましたが、刑を終えて家に帰ってしばらくすると、バン・ミーゲレンは亡くなりました。
この事件は世間を騒がせました、バン・ミーゲレンの偽作は、おそらく絵画史以来、最大の詐欺でしょう。


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