レディバードブックス100点セット
 

 

[大芸術家2]ダ・ビンチ他

レオナルド・ダ・ビンチ

 レオナルド・ダ・ビンチは、1452年にフローレンス(フィレンツェ) の近くで生れました。彼はイタリア・ルネッサンスの偉大な芸術家の一人でした──ルネッサンスとは1300年から1500年にかけておこった、学問・文学・芸術に対する興味の復興や、文化人が古代ギリシアの建築と彫刻に興味を持ちはじめたことをさします。
フローレンスは、イタリアの数多い共和国や都市国家のなかでも、もっとも裕福な都市国家で、美術の寛大な保護者であったメディチ家に支配されていました。当時は、数多くのすぐれた芸術家や工芸家が市中で働いていました。史上もっとも有名な3人の芸術家、レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロとラファエル、16世紀初期に、このフローレンスで制作活動をしていました。
レオナルド・ダ・ビンチの父親は公証人であり法律家で、母親は農家の娘でした。少年のころからしオナルドは大いに自然に興味をもち、よく学校を怠けては郊外を散歩しました。彼は、目につくものは全部ていねいにスケッチしました。
ある日、レオナルドの父親は、1人の農夫から木楯に図案を描いてもらうため、フローレンスへ持っていってくれるように頼まれました。父親は、息子のレオナルドにその楯を与えて、描かせることにしました。レオナルドは、火と毒を吐き出す伝説の怪獣を描くことにしました。モデルにするためにイモリやガ、ヘビ、ウジ、コウモリやバッタなどを集めました。その後、物の腐ったにおいに気づいた父親は、薄暗い部屋に入ると、横に描かれた絵としオナルドの収集した標本を見て、おどろいてしまいました。しかし、落ち着いてから息子の作品をよく見た父親は、息子のすばらしい才能を認めて──その才能を伸ばしてやろうと思いました。

 1466年に、レオナルドの家族はフローレンスに引っ越し、レオナルドは画家のべロッキオの画室で働きました。アンドレア・ベロッキオは熟練した教師でした。彼はもともと金細工人で、レオナルドがはじめて仕事場に訪れたころは30歳くらいでした。生徒のなかには、のちに有名になったボッティチェリやペルジーノもいました。レオナルドは、6年間ベロッキオの弟子として働き、いかに素描や絵を描くかと同時に、銀や青銅の鋳造技術までも勉強しました。
レオナルドの最初の絵は、ベロッキオの作品 「キリストの洗礼」 でみられることを私たちは知っています。レオナルドは、この絵の中の左側の天使を描きました。レオナルドの描いた天使はベロッキオの描いた天使よりも柔和で優雅に描かれ、当時、オランダから入ってきた油絵の新技術を使って描かれています。その絵の残りの部分はテンペラ画でした。ベロッキオは、この弟子の優秀さにたいへんおどろいて完全に絵を描くのをやめ、彫刻だけに専念することにしたとも言われています。レオナルドは、先生のべロッキオに心酔し、他のいかなる画家にも影響されませんでした。徒弟期間が終った後も、べロッキオの家に住んでいました。
1472年にレオナルドはサン・ルカ組合(画家の組合) に加入し、父親はレオナルドのために画室を借りてやりました。この当時のレオナルドは、顔立ちの整った若者で、背が高くすらっとして、金髪はいつも手入れよくカールされていました。レオナルドはまた、孤独を好み、探求心があり、書斎で何時間も過ごしました。とくに、数学と地理に深く興味を持ち、自然界のあらゆる現象に興味を示しました。

 レオナルドは、フローレンスに落ち着いて、成功した画家になったわけではありません。いくつかの依頼はありましたが、ミケランジェロのようにはメディチ家から援助は受けませんでした。1481年に、レオナルドは聖ドネト寺院の祭壇装飾用の 「東方の賢者の崇拝」 の制作にとりかかりました。この作品は、新手法がふんだんに取り入れられましたが、色塗りはされませんでした。
ロレンツォ・デ・メディチは、レオナルドのために、ミラノ公のルドビコ・イル・モロに紹介状を書いて援助しました。1482年に、レオナルドは、自分で作った銀の馬頭形の竪琴を持ってミラノに行きました。ルドビコ公は戦争に熱中していることを知っていましたので、レオナルドは会う前に、軍事技術者として熟練していることを書いた長文の手紙を出しました。しオナルドは、設計した橋や大砲、兵器などを列記し、地下要塞の計画もルドビコ公に話しました。
ミラノ宮廷は裕福で権力がありましたが、芸術家の奨励はほとんどしていませんでした。レオナルドは、画家としてよりも音楽家と祭典の立案者として喜んで迎えられました。レオナルドは、多くの案をルドビコ公に示し興味を持たせようとしました。当時のミラノは、ペストが流行し住民の3分の1以上も死亡していましたので、レオナルドは都市計画についてのおどろくべき現代的な設計を考えていました。衛星都市を作って、人口を分散し、伝染病の予防対策を考え、申し出ました。ゴミ処理と公衆衛生の一環として、流れの速い運河を計画しました。その他にレオナルドは過密都市の対策として現代の設計者が考えるように、2階建ての立体道路さえ考えていました。

 レオナルドはミラノでは絵の依頼があれば歓迎したことでしょうが、実際には偉大な画家としてではなく、舞台設計やユーモアのある冗談を言う人として、重宝がられました。いくつかの肖像画と聖母マリアを描いてから、レオナルドは、現在ロンドンの国立美術館にある有名な 「岩窟の聖母」 の制作に入りました。彼は、あまりにもいろいろな才能にめぐまれていたので、1つの作品が完成する前にすでに別の作品に取りかかりました、そのために、完成した絵は20枚たらずしか現存していません。
ルドビコ公の宮廷で奉仕している間に、レオナルドは2つの計画を実行し、イタリア全土にその名を広めましたが、最初の計画は完成しませんでした。
ルドビコ公は、先祖のフランシスコ・スホルザの巨大な騎馬像を作ることを計画し、90トンの青銅を苦労して集めました。宮殿の中に仕事場が作られ、レオナルドはその制作に取りかかりました。レオナルドは、馬の跳躍や走り方を研究して、骨格や筋肉をかなり詳しく学びました。馬の青銅鋳造技術に心をくだき、4つの溶鉱炉で金属を溶かし、一度に流しこむ計画をたてました。
1493年に、レオナルドが粘土で作った型が、宮殿前に展示され、その偉業はイタリアじゅうに広まりました。しかし、レオナルドにとって不幸なことに、ルドビコ公は、フランスと戦争を始め、高価な青銅は大砲を作るために鋳造工場に運ばれてしまいました。そしてその粘土の型は、後年フランス軍の射手によって、訓練用の標的とて使われ破壊されてしまいました。

 レオナルドは、青銅を失ったことに悲嘆し、またお金の不足に悩みました。レオナルドは菜食主義者で、ワインもほとんど飲みませんでしたので、自分の生活費はそれほどかかりませんでしたが、助手たちに給料を支払わなければなりませんでした。けれども、1495年から1497年の間に、レオナルドは有名な 「最後の晩さん」 を描き、イタリア画壇の指導的画家となりました。
サンタ・マリアのドミニカ教団の修道院から依頼された 「最後の晩さん」 は、長さ30フィート(約9m)、高さ14フィート(約4m) の壁に描かれました。その絵が完成すると、キリスト教界でもっとも有名な絵となり、フランス国王は壁ごとフランスに移したいと思ったほどでした。不幸にも、壁の作りは悪く、レオナルドはぬれたしっくいの上に描く普通のフレスコ画法のかわりに、実験的に油絵のテンペラ画法で制作したのです。そのため、現在 「最後の晩さん」 の保存状態は非常に悪いのです。
レオナルドは、キリストの12人の弟子をくわしく研究し、細心の注意を払って絵の構成をたてました。悪党顔のユダ・イスカリオットに適当なモデルをみつけるために、ミラノの犯罪地帯の街頭を探し回りもしました。修道院の院長は、レオナルドに早く完成するように催促し、レオナルドは半日も絵を眺めて描こうとしないと、公爵に不平不満を訴えました。レオナルドは、絵は庭を掘るようにはいかず、ユダが邪悪に見えるようにするのはむずかしいと、公爵に説明しました。いっそのこと、そのモデルを院長にしてもらいましょうか、とレオナルドが言うと公爵は笑ってしまいました。その後、何の文句も言われずに、レオナルドは制作に没頭できたと言われています。

 レオナルドは、子ども時代から自然に対して深い関心を抱いていました。美しく図解された、7000枚もの詳しく記された覚書が残されています。レオナルドは左ききで、しかも鏡文字でわかりづらくして書いたので、解読するのは困難です。
またレオナルドは、500年も前に前代未聞の人体研究を徹底的にしています。およそ30もの死体を解剖したり、筋肉の動きや血液の循環なども探究していました。
その他に、飛ぶことにも大きな情熱をそそぎました。市場で鳥を買い求め、空に飛ばせてやり、鳥のつばさの動きを観察しました。鳥の飛行に関する覚書は、2つ折りの18枚の紙いっぱいに記入されています。
レオナルドは、数多くの美しい植物図も描き残しました。レオナルドの植物や木の絵は、単なる図ではなく、科学的正確さと芸術的価値のある自然の研究作品でもありました。レオナルドは、熟練した地図制作者でもあり、星にも魅せられていました。太陽と月の大きさも計算しました。実際にはレオナルドの計算は、正確ではありませんでしたが、これは400年以上も前の計算だということを考えれば、無理もありません。
レオナルドは冗談を好み、むずかしい研究の合間に友だちを楽しませる工夫をして、気分転換をしました。あるときなどは、死んだとかげを水銀の中につけました。他のとかげの皮をつけたり、角やひげまでつけたりして、箱の中に入れ、友人たちを恐がせらるために使ったのです。

 レオナルドは、始終新発明を考え続けていたので、多忙でした、実際、彼は世界の偉大な発明家の1人とみなされています。数多くの武器や投石器、はしごや橋の模型を設計しましたが、軍事技術者としての能力を発揮する機会にめぐまれませんでした。レオナルドは、水に興味を持ち、運河を計画し、また現在でも使われている留め継ぎ式の水門は、ダビンチの発明だと信じられています。彼はまた水で動く自覚し時計を作ったりもしました。
ミラノ陥落後、レオナルドはベニスへ行き、トルコの侵入におびやかされていたベニス人のために海防計画をたてました。潜水服や現在の潜水用足ひれによく似た水靴などもデザインしました。また、機雷船や船底に穴をあける道具の制作も計画しました。レオナルドは物事の真髄をとらえる確かな眼をもっていましたが、あらゆる困難を乗りこえて、自分の発明を完成させる忍耐力に欠けていました。
 飛行に関する研究から、レオナルドはいろいろ実験をし、人間は空を飛ぶことができる、と正確に予言しました。木製の類に薄い布地と羽根で飛行機の模型も作りました。言い伝えによると、レオナルドの弟子のソロアステ・デ・ベレトロは、フローレンスの近くの丘の上からその飛行機で飛びましたが、墜落して足の骨を折ってしまったと言われています。
レオナルドは、人間が飛行するには機械の助けが必要だとわかり、ジャイロスコープやヘリコプターを設計しました。パラシュートさえ考えていましたが、レオナルドの考えたパラシュートは、プリズム形で木わくに空気がもらないように布を張りつけたものでした。

 1500年に、レオナルドは20年ぶりにフローレンスへもどりました。今では彼も48歳で、有名人となっていました。流行服を着て召使と馬を連れていました。レオナルドは、この滞在期間中に最後の偉大な絵を制作しました。「聖母と聖アンナ」 の下絵は、フローレンス人に絶賛されましたが、その絵の完成はだいぶあとになりました。このころ、レオナルドは、当時29歳の若い新進の芸術家のミケランジェロと交際しはじめました。やがて、レオナルドとミケランジェロは、公会堂の新会議室の壁に絵を描くよう依頼されました。この話は、ミケランジェロ物語に書かれています。
レオナルドは、最後のフローレンス滞在中に世界でもっとも有名な 「モナリザ」 を描きました。この絵は、おそらく史上もっとも有名な肖像画です。多くの伝説や物語、またオペラの題材にも取りあげられました。「モナリザ」 は、「ラ・ジョコンダ」 あるいは 「微笑みの婦人」 とも呼ばれ、フランシスコ・デル・ジョコンドという年配の貴族の夫人の肖像画です。たいていのフローレンスの婦人たちが肖像画のモデルになるときとちがって、夫人はりっぱな衣装を着ていません。この貴族夫人は黒の簡素な服を着て、髪をベールでおおい、不思議な山を背景にして描かれました。私たちの想像をもっともかきたてるのは、彼女のかすかな謎めいた微笑みです。「モナリザ」 を描いている間、レオナルドは、音楽家や道化師を雇って彼女を楽しませたと言われています。レオナルドは、この絵を死ぬまで手離しませんでした。

 1506年に、レオナルドは、当時ミラノを支配していたフランス国王ルイ七世の宮廷画家および技師になるよう、ふたたびミラノに呼びかえされました。フローレンスの人びとは、レオナルドのミラノ行きを許しましたが、会議室の壁画は完成していませんでしたので、レオナルドは保証金を置いていかなければなりませんでした。
フランス国王に仕えている期間中の1513年から3年間、レオナルドはローマに滞在しました。ローマ法王からは何の依頼も受けませんでしたが、しばらくはバチカンにも滞在しました。そのころはちょうど、ミケランジェロがシスチナ礼拝堂の大壁画を完成し、ラファエルの最盛期でもありました。
レオナルドは、すでに60歳を越え、1516年にはローマを去り遠路フランスに向かいました。新フランス国王フランソワー世は、ロアール流域のアンボアーズにある小さな城にレオナルドを住まわせました。レオナルドは、その城に、信頼できる友としてミラノの画家メルツィを連れていきました。
レオナルドは、たいへん尊敬され、国王もしばしば訪れてきました。国王のめいのために、今度は結婚式の企画をたてたりしました。
1518年に、レオナルドは病気になり、右腕が麻卑してしまいました。自分の葬式には、60人の貧しい人たちにたいまつをかざして行列するように計画し、作品はメルツィに遺言で譲りました。レオナルドは、故郷から遠く離れたアンボアーズの聖フロレンチン教会に埋葬されました。

 

ミケランジェロ

 ミケランジェロは、1475年にフローレンスから64kmほど離れたカプレーセで生れました。父親のルドビコは知事で、貴族の先祖を誇りにしていました。ミケランジェロが生れてすぐ、家族はフローレンスにもどり、ミケランジェロは郊外のセチニャーノで養母に育てられました。セチニャーノは採石場のある町で、世界でもっとも有名な彫刻家になったミケランジェロ少年は、ハンマーとたがねを最初のおもちゃとして遊んだのです。
6歳のとき、ミケランジェロの母親が亡くなり、父親は再婚しました。ミケランジェロはフローレンスに行って、4人の兄弟と住むことになりました。ミケランジェロは、小学校に入学しましたが、それほど熱心な生徒ではありませんでした。彫刻家になる決心をしていたのですが、父親は貴族の子息にふさわしくない職業と考えました、ある日、ミケランジェロがひそかに絵を描いていると、父親にみつかってしかられ、ぶたれました。しかし、結局、父親はミケランジェロの芸術家志望の決心を認めざるを得なくなり、友人に意見を求めました。
ミケランジェロは、ギルランダイオ兄弟の弟子のフランチェスコ・グラナチという若い画家と友だちになり、1488年にはその画室で働くことになりました。
ミケランジェロの偉大な才能はまもなく認められました。ミケランジェロは若い弟子たちがその上で働くための足場を設計しました、それを見て、ドメニコ・ギルランダイオは、自分よりも13歳のミケランジェロの少年の方が熟達していることを認めさせられたのです。

 当時のフローレンスの統治者、ロレンツォ・デ・メディチが彫刻家の学校を開くまで、ミケランジェロは1年間、ギルランダイオ兄弟のところで働いてました。ロレンツォは、ミケランジェロの父親にわが子同様に面倒をみると約束しました。それでミケランジェロは、メディチ家の宮殿に住み、毎月5ダカツ支給されました。ロレンツォの庭園には多くの古い像があり、自由に彫刻の研究ができるよう、ミケランジェロは庭園に入る鍵を与えられました。この名誉ある話を聞いた父親は、ミケランジェロがロレンツォに好意を持たれていることを悟り、新しい服を送って、彫刻家としてのミケランジェロに期待をかけました。
このころから、ミケランジェロのけんか好きが目立ってきました。ミケランジェロの才能をねたんでいた、器用な若い彫刻家のトリニャーノとけんかになったのです。ミケランジェロはトリニャーノに鼻をなぐられて骨を折ってしまいました、そのために、ミケランジェロの鼻は一生曲がったままでした。トリニャーノは、町から離れなければなりませんでした。
1492年に、ロレンツォが亡くなり、ミケランジェロの進歩は悲しいことに中断してしまいました。ロレンツオの後継者から与えられた、たった1つの仕事は、なんと雪だるまを作ることでした。1494年に、メディチ家は没落し、ミケランジェロはフローレンスを離れました。イタリアをしばらくの間旅行した後、ちょっと故郷に立ち寄り、その後ローマへ行きました。ミケランジェロは、そのとき21歳でした。
ローマで、ミケランジェロは、聖ピエトロ寺院にすばらしい彫刻 「ピエタ」 を作り、名声は広まりました、「ピエタ」 というのは、亡くなったキリストを悲しむ聖母マリアを彫ったものです。ある日、ミケランジェロは、自分の彫刻した 「ピエタ」 を、参観人がミラノの芸術家が制作したものと言っているのを開くと、ただちにたがねを手にして聖母マリアの帯に、自分の名前を刻みました。

 1501年に、ミケランジェロはフローレンスにもどると、もう1つの像を作り、いっそう評判を高めました。ミケランジェロの有名な 「ダビデ」 像は、大寺院の近くの広場に百年間も置き去りにされていた大理石に彫刻したものです。重さは約8100kgもありましたので、木わくに吊るされて市公会堂に運ばれました。その距離は短いものでしたが、3日かかりました。彫像が所定の場所に置かれると、市長は鼻が太すぎるとミケランジェロに文句を言いました。ミケランジェロは、足場に登って影像の鼻をけずり取るふりをして、手に隠しもっていた大理石の粉を落としました。彫像の鼻はけずられませんでしたが、市長はだいぶよくなったと満足しました。
ミケランジェロが、フローレンスの市公会堂の新しい会議室の壁画制作を、レオナルド・ダ・ビンチとともに依頼されたのは、このときでした。ミケランジェロは、アルノ川で水浴びする兵士たちを描いた 「カッシーナの戦い」 の立派な下絵 (原画) を描きました。レオナルドは、跳びはねている馬がいっぱいの 「アンギアリの戦い」 の雄大な絵の制作にかかりました。しかし、2人とも完成しませんでした。ミケランジェロの下絵は後に破られてしまい、レオナルドは新手法の壁画を試みました。絵具が乾燥しないので、火をたいて下部をかわかしましたが、上部の絵具が流れ落ちて失敗してしまいました。現在、わたしたちが目にしているこの作品は、他の画家が模写したものです。

 1505年に、ミケランジェロは、偉大な軍人でもあった法王ユリウス二世によってローマへ呼びもどされました、ユリウス二世は、昔の聖ピエトロ教会のあった場所に大寺院を建て、自分の基もそこに作る計画をしていました。
ミケランジェロは、カララに8か月間住んで、墓に使用する大理石の選定と大寺院付近の広場に仕事場を作る準備をしました。その間に、法王の考えが変り、ミケランジェロに大理石代の支払を断り、多忙という名目で会うのを避けました。ミケランジェロは、すでに人夫たちと契約していましたし、大理石は盗人たちに庭からぬすまれましたので、怒ってローマからフローレンスへ帰ってしまいました。
このユリウスの墓の一件で、ミケランジェロは長い間悩まされました。全部で5回も法王と契約をかわしましたが、1545年まで完成しませんでした。最終的に作られた壁は、最初の設計とはだいぶちがい、小さいもので、しかも小さな教会内に建てられました。気の毒にもミケランジェロが 「この墓の制作に束縛されて、私は青年期をむだにすごしてしまいました」 と言っているのも無理はありません。しかし、彼の言葉は必ずしも真実ではなく、墓にはモーゼの影像が彫刻され、世界最高の芸術品となっています。このモーゼの彫像が完成されたときに、ミケランジェロは身を引いて立ち 「なぜ口をきかないのか」 と像に話しかけ、腹立たしそうにハンマーでたたいたと言われています。現在でも、モーゼの彫像の右ひざには、その跡が見えます。

 ミケランジェロは、市の公会堂の絵を完成させることと、「ダビデ」 の像と対になる像を作ることを希望していたのですが、法王ユリウス二世は別の計画を考えていました。1508年に、ミケランジェロは、シスチナ礼拝堂の天井に絵を描くために、ローマに呼ばれました。
この仕事は、ミケランジェロには気のすすまない、とてつもない大事業でしたが、やむなく制作に取りかかりました。ミケランジェロは5人の助手を雇いましたがすぐにやめさせて、1人で4年以上もの長い間苦痛に悩まされながら仕事をしました。足場の上に仰向けに横になって、天井に絵を描かなければなりませんでしたので、絵具は顔に流れ落ちました。彼はあまりにも硬直してしまったために、書類を読むのにも、頭の上に持ってこなくては読むことができないほどでした。法王ユリウスは、ミケランジェロを急がせて、早く完成しなければ足場から落とすと、おどしました。
ミケランジェロは絶望状態でした。フレスコ画法の経験はありませんでしたし、北風が吹くと、しっくいの上にカビがはえました。法王も、やがてミケランジェロをかわいそうに思うようになり、他の画家をつけて仕事をやりやすくさせました。
ミケランジェロは、仕事上のことで、たえず法王と口論しました。聖人たちは金色の衣など着ていなかったと主張して、絵の中の人物に金で彩色することは拒否しました。ユリウスは、神経質なミケランジェロを理解したらしく、金銭を与え、感情的なミケランジェロを寛大に許しました。
シスチナの礼拝堂の天井は、長さが約100mもありました、そこにミケランジェロは天井を9つに仕切って、全部で343人もの人物を描き入れました。この絵は、旧約聖書と神話の中の情景を描いたもので、華麗なる人類の年代譜です。

 1513年に、法王ユリウスが亡くなり、ミケランジェロは彼の墓を完成させることができると思いました。しかし、メディチ家の一員から、法王レオ五世が誕生し、彼はミケランジェロをフローレンスに送って、聖ロレンツオのメディチ教会の正面を作らせることにしました。ミケランジェロは、涙ながらに墓を作る契約中であると言いましたが、むだでした。彫刻家であるミケランジェロは、ユリウスのいいつけで画家になり、今またレオ五世のために強制的に建築家にされたのです。
ミケランジェロは、教会に使う大理石を選ぶために、カララに行くつもりでしたが、その採石場はフローレンスの領地の外でしたので、レオ五世は領内のピエトラ・サンタの新採石場の大理石を使うよう言いました。
そこの大理石は不適当で、運搬のための道路もないと、ミケランジェロは主張しました。結局はミケランジェロには、まぬけとしか思えない男たちといっしょに働かなければならず、道路敷設の監督もしなければなりませんでした。フローレンスに運ばれたのは、なんとたった1個の大理石で、その大理石さえも聖ロレンツィオの教会の外に数年間も放置されたままでした。他の大理石は採石場に残されたままで、ある石は40年間も海岸に置かれました。
ミケランジェロは不幸な人でした。一生独身で通し、いつも家族からお金の要求や不平で悩まされました、また、リューマチと頭痛に苦しめられました。1519年に、レオナルド・ダ・ビンチが亡くなり、1520年はラファエルが続いて亡くなり、ミケランジェロはフローレンスで並ぶもののない偉大な芸術家としてただ1人残されました。

 突然、法王レオ五世が亡くなり、メディチ家からまたクレメント七世が法王となりました。若くして亡くなったメディチ家の他の2人のために、ミケランジェロは墓の設計を依頼されました。1521年から制作に取りかかり、ロレンツオとジウラノ・デ・メディチの像の下方に、寓話的な立派な2組の彫像を作りました。これが、有名な 「たそがれとあかつき」 と「夜と昼」 です。
メディチ家は、バンディネルリという、ミケランジェロよりずっと劣る彫刻家を雇い入れました。クレメント七世の友人が、ミケランジェロが 「ダビデ」 像と対にしようと考えている、ヘラクレスの像をバンディネルリに彫刻させれば、それだけミケランジェロはメディチ家の墓の制作に没頭できるとクレメント七世を説得したのです。クレメント七世は、ミケランジェロがヘラクレスの像のために選んだ大理石をバンディネルリに与えました。その大理石がフローレンスに到着したとき、ロープが切れ、石はアルノ川に沈んでしまいました。市民たちは、無視されたミケランジェロに同情して怒り立ち、大理石はバンディネルリに彫刻されるのをいやがって自分で川に落ちたのだ、と言いました。
このころから、フローレンスは戦争に巻きこまれ、ミケランジェロはべニスに逃げました。彼は反逆者と非難されましたが、フローレンスにもどってくると、市の要塞作りを手助けしました。
1528年には、ミケランジェロの弟が亡くなり、まもなく父親も亡くなりました。クレメント七世もまた死亡し、メディチ家の墓 (メディチ家の墓は、聖ロレンツォ図書館となっています) の制作は中断されました。そして、1534年に、ミケランジェロは永久に生れ故郷を去りました。

 その後、ミケランジェロは、バチカン市国の彫刻家兼建築家に任命されました。1536年から1541年まで、シスチナ礼拝堂の正面の大壁に「最後の審判」を制作することになりました。その壁は油絵用に用意されていましたが、ミケランジェロは、その手法は女性のためのやり方だと軽べつしました。彼はぬれたしっくいの上に水でとし、た顔料で描きました。その制作中、ミケランジェロは足場から落ちて足をけがしました。部屋に閉じこもってしまったので、フローレンスの医師が部屋の窓から入って、ミケランジェロを診察しなければなりませんでした。
「最後の審判」は、キリストが罪人を地獄に送るという復しゅうをしている畏怖を起させる作品です。法王の式部官は、その作品は教会に不向きであると言いました。ミケランジェロはその復しゅうとして、不平を言った式部官を地獄の中に描き角をつけさせ、身体にはヘビがかみついている絵を描きました。
1545年、ミケランジェロは70歳のときに、ようやくユリウス二世の基を完成させました。その後7年間は、バチカンのパウリン教会のフレスコ画に取り組みました。それが完成すると、ミケランジェロはその後、死ぬまで絵筆に触れませんでした。
ミケランジェロは、晩年を建築家としてローマで適しました。聖ピエトロ寺院の再建の監督となりましたが、それは30年前にラファエルがついたのと同じ地位でした。ミケランジェロは17年間一所懸命に働き、彼の建築計画は、死んだ後も変更されずにりっぱに集められました。彼は寺院のドームを15分の1に縮小した木製模型を作らせました。この模型は現在でも残っており、聖ピエトロ寺院の上に現在あるドームとほとんど同じものだということがわかります。

 若いころのミケランジェロは、興奮しやすく、すぐやり返す人でしたので 「恐ろしい人」 として知られていました。しかし、晩年には穏やかになり、友人たちからも愛されました。ミケランジェロには、長患いのおいロレンツォがいましたが、ミケランジェロに迷惑をかけるばかりで、たえずミケランジェロに、その恩知らずを責められていました。
死に近い晩年にミケランジェロは、3つの 「ピエタ」 を彫刻しましたが、いずれも完成しませんでした。現在フローレンスの寺院に、その1つの老人ニコデムスの像がありますが、これがミケランジェロの自画像と考えられています。ミケランジェロは、大理石に傷をみつけ、この彫刻を割りはじめましたが、像は他の彫刻家が救い、完成させました。
昔の彫刻家は、頭に紙を巻いてローソクをはさみ、その光で夜遅くまで仕事をしていました。画家のバサリは、獣脂ローソクよりも、パチパチしない山羊脂ローソクを40ポンド(約18kg)もミケランジェロに寄贈しました。ミケランジェロは、受け取ろうとしませんでしたが、配達人が家の外にローソクを立て火をつけるとおどすと、ついに受け取りました。
ミケランジェロは、30年間ローマに住んでいましたが、フローレンスに埋葬されることを望みました。1564年に、ミケランジェロが亡くなると、おいのロレンツォは、法王が死体を聖ピエトロ寺院に埋葬しないように、ひつぎを盗まなければなりませんでした。ロレンツォがミケランジェロのひつぎをフローレンスに持ち帰ると、大群衆が葬儀のためにサンタ・クローチェの教会の前に集まっていました。ミケランジェロの偉大さは、その長い生涯の間に認められ、現代でも高く評価されています。

 

ラファエル

 ラファエルは、レオナルド・ダ・ピンチやミケランジェロのように、フローレンス生れではありません。彼は1483年にウルビノという中部イタリアの高原都市で生れました。父親のジョバンニ・サンティは、ある程度名前の知れた画家で、イタリアやフランドール絵画をたくさん所有していた、りっぱな宮殿をもつ、ウルビノ公に仕えていました。
ラファエルの少年時代はあまり知られておりません。8歳のときに母親が亡くなり、11歳のときには父親と死別しました。ラファエルが自分の家の壁に聖母子を描いたのは、相当若い時分だったと思われます。父親はラファエルを地方の画家エバンジェリスタ・ミレー夕にあずけ、1495年にはラファエルは有名な画家ベルジーノに会いました。
ベルジーノは、レオナルド・ダ・ピンチと同様に画家/べロッキオの弟子でしたが、ラファエルと会ったときには画家として成功していました。そして、ベルジアとフローレンスに学校を持っていました。ラファニルは、ベルジーノの家に住んでいたかどうかはわかりませんが、17歳のときにはベルジーノの有能な助手になっていました。
1504年ごろまでには、ラファニルは熟達した画家に成長していることがわかっています。「処女マリアの結婚」の絵が描かれたのは、彼が20歳のときでした。その絵は相当な熟練度を示し、ラファニルは堂々と自分の名前と制作年月日を、絵の中にそびえる寺院の前面に記入しました。ラファエルは、当時フローレンスで制作されていた華麗な絵を勉強する必要を悟り、1504年にフローレンスに移りました。

 元首への紹介状を手にして、ラファエルはフロ」レンスに到着しました。その紹介状には、ラファエルは「思慮分別のある、おだやかな人物」と書いてありました。元首は、ピエール・ソデリーニという人で、ミケランジェロの「ダビデ」の像の鼻を批評した元市長でした。
この伝記シリーズで読まれたと思いますが、1504年にレオナルド・ダ・ピンチは「モナリザ」を描き、ミケランジェロとともに新会議室の壁画に取り組んでいました。ラファエルは、フローレンスでその絵を見て、きっと興奮したにちがし、ありません。ラファエルは、とくにダ・ピンチの、柔らかで単純な描き方に感銘を受け、また、群像をピラミッド形や三角形に様成していく方法に注目しました。後に一ローマでミケランジェロのフレスコ画を見て、それにも影響を受けました。その他にも、ペニスにいたことのある僧のフラ・バルトロメオに会って、色彩や遠近画法を学びました。バルトロメオは、イタリアに何人かいた芸術家でもある僧侶でした。
ラファエルは、フローレンスからそう遠くないベルジアをたびたび訪れて、そこで制作を始めた作品を完成しました。ラファエルは「ベルジアにおける最大の画家」とみなされていましたが、フローレンスでは、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ピンチの天才の影に隠れていました。フローレンスでの絵の依頼は肖像画や、人びとが自宅で崇めるための聖母子の絵だけでした。ラファエルは注意深い人で、他の画家から学べるものはすべて学びました。フローレンスで、ラファエルは次第に著名な画家となっていきました。

 1508年に、ラファエルはローマに行きました。ローマ行きの理由はわかりませんが、ダ・ピンチとミケランジェロによって始められた、フローレンスの会議室のフレスコ画の完成を依頼されなかったことに失望して、ローマへ行ったのではないかとも言われています。1509年までに、ラファエルはローマの宮廷画家として雇われていました。
ミケランジニロに長い期間かけて墓を作らせた法王ユリウスニ世は、バチカンのスタンザ・デラ・セナトゥラの部屋の装飾をラファエルに依頼しました。その当時、ローマには、ローマ生れの偉大な芸術家はいませんでしたが、ローマに移り住んだ画家や彫刻家に大きな仕事が任されました。
ラファエルは教養のある人で、イタリア語を知る前にラテン語を学んでいました。肖像画家としてラファエルはローマに行きましたが、やがて億大な物語的画家として認められてきました。ユリウスニ世は、もともと描かれていた壁画には飽きていましたので、ラファエルは立派なフレスコ画の組絵を制作しました。その粗絵のなかで、もっとも有名なものは「アテネの学堂」です。ラファエルの古典的な学問に対する、大きな興味をうかがわせてくれるものです。その絵は、人物と建築を調和させたラファニルの能力を物語っております。ラファエルは堂々たる室内に偉大な古代のギリシア人を群れにした絵を描いたのです。その絵の中の、プラトーはしオナルド、ヘラクリタスはミケランジェロと考えられています。ラファエル自身も、占星家のグループの1人として描かれています。

 ラファエルは、フレスコ画家として、当時シスチナ礼拝堂の天井に取り組んでいたミケランジェロの次に位置する画家となりました。ラファエルはひそかに礼拝堂に連れていかれ、ミケランジェロの絵を見てから作風が変ったと、画家のバザリは言っています。たしかに、その後のラファエルの作風は大胆になり、色彩も豊かになったことは事実です。
ラファエルは、次第にたいへん多忙な画家となりました。法王ユリウス二世のためのスタンザ・ヘリドラスの壁画に、他のシリーズの絵を仕上げた。これらの絵は、軍人であり法王でもあったユリウス二世が、どのようにして神の御加護のもとに勝利を収めたかを示す、軍事的業績を描いたものです。
ラファエルは、たくさんの助手を雇わなければならないほど、たいへん多忙になりました。下絵(原画)を自分で描いてから、それらの助手たちに石工が用意したぬれしっくいに鉄筆で写させました。いったんしっくいが乾燥してしまうと、絵具がつかなくなるので、石工は1日分だけのしっくいを塗るのでした。次に、数人の画家が、助手によってすでに調合された絵具を使って仕事にかかりました。この方法で、ラファエルはたくさんのフレスコ画を完成しましたが、助手にまかせる部分が多くなると、完成した絵はあまりよくはありませんでした。
ローマで、ラファニルは立派な肖像画家となりました。法王レオ十世を描いたすばらしい絵は、レンブラントに称賛されました。ラファエルはルーベンスやバン・ダイクのように形式的な描き方をしないで、写実的に人物を描きました。ローマで描いた聖母は、フローレンスで描いたときよりも、いっそうすばらしい作品となりました。そのなかでも「シスチナの聖母」が最高の作品と言われています。

 1514年に、ラファエルは、後にミケランジェロが就任することになる聖ピエトロ寺院の建築監督に任命されました。建築監督として実際に完成させることができたのは中庭だけでしたが、ラファエルはますます建築に興味を持つようになり、ほとんどの絵は助手にまかされました。
1515年には、古代碑銘の保管者に任ぜられ、古代ギリシア美術に対する興味を深めました。またローマの古代都市の再建計画を立てました。道路計画の長官も兼務していましたので、ダ・ピンチのように都市計画にも興味を示しました。ラファエルは自分のために立派な宮殿を作りましたが、それは残念ながら現存していません。その他にも、市民のためにローマや郊外に別荘を設計しました。
1516年になると、シスチナ礼拝堂の装飾を完成するために、有名なつづれ織りの下絵を描きました。デザインは織工たちが織りやすいように、単純で明確でなければなりませんでしたが、新約聖書のなかの使徒行伝を描写したものです。作品はたくさんの金糸を使用して華麗に織られましたが、金糸は年代を経るうちに黒くなってしまいました。
その後、そのスケッチを発見したルーベンスは、イギリスのチャールスー世国王に献上しましたが、スケッチは小さく切られて何回となくつづれ織り工場で使われました。そのスケッチは、ウィリアム三世時代に復元されました。ラファエルはしオナルドと同様に万能の人で、モザイクから基まで、あるいは舞台装置から調度まで、依頼があれば、どんなものでもデザインしました。

  4世紀半も過ぎた現在、ラファエルの人間像を明確にすることは困難です。結婚したのか、子どもがいたのかさえ記録はありませんし、ラファエルのたくさんの恋愛話も事実かどうかわかりません。機知に富み、みんなに愛された人であることはたしかです。「神様のような人」として知られ、動物さえもこわがらずに、ラファエルに近寄ってきたと言われています。また、ラファエルがローマの家を出るときには、いつも50人もの画家がお供をしたと、バサリは言っています。
ラファエルは教養ある人でしたが、ダ・ビンチやミケランジェロのように自分について書き残しませんでした。彼は、人類の観察者であり、画家としての楽しみは自分の描く人物を風景や、建築様式のなかに調和させることでした。
ラファエルの最後の絵「キリストの変容」は、彼が死んだときには未完成でした。事実、葬式のときにこの絵は棺台の上に飾られました。ラブァエルは、高熱が下がらず、37歳の若さでなくなったのです。友人たちは、たいそう悲しみ、法王レオ十世はラファエルの死のしらせを聞くと「我々のために祈ってください」と言いました。
ラファエルのあとを継いだ画家たちの作品は、後年、平凡で虚栄的になり、質的にも衰退しました。ラファエル、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ピンチのような億大な3人の芸術家が、同じ都市のそれも同時期に制作活動をしていたということは、他に例がありません。


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