レディバードブックス100点セット
 

 

[大芸術家2]ゴッホ他

ゴッホ

 ビンセント・バン・ゴッホは、1853年にオランダのスンデルトで生れました。彼の一生は短く悲劇的でしたが、彼の絵は、おそらく他のどんな画家のものよりも有名でしょう。ゴッホの絵は鮮やかな色彩と力強い筆のタッチを持ち、世界じゅうのいたるところで複製されています。ゴッホの展覧会にはつねに熱心な観客が集まります。
バン・ゴッホの父親は牧師で、母親は絵を描くことや文を書くことが好きでした。ゴッホの生れる1年前に最初の子どもが死産し、両親はたいへん悲しみました。しかし一家は、後に5人の子どもに恵まれました。
ビンセントは、風変りで強情な子どもでしたが、愛憎深い面もありました。自然を愛し、スンデルト付近のかん木のおい茂った荒地や泥炭地をさまよい歩いて、農夫の働いている姿を眺めるのがいちばんの楽しみでした。
バン・ゴッホはいつも絵を描くことが好きで、立派な教育を受けました。11歳になると、セベンブルゲンの学校に入り、2年間そこで学びました。その後の2年間は、チルブルグの学校で過し、15歳のときに家にもどりました。彼は孤独な少年で、頭髪は短く刈り、奥目で前かがみの歩き方をしていました。その当時、彼がいちばん関心をもっていたのは宗教でした。
ビンセントの3人の叔父さんは画商でしたので、ゴッホも画商になることに決めました。1868年にビンセントはハーグでも有名なゴーピルの商会に働きに出ました。

 バン・ゴッホは、オランダで4年間働いてから、複製画の販売のためゴーピルのロンドン支店に勤務を命じられました。ロンドンでは、広い公園を散歩したり、はなやかな人びとと接して生活を楽しみました。このロンドン生活で、ゴッホは年俸90ポンドも与えられて裕福に過ごしましたが、その幸せもあまり長続きはしませんでした。
ゴッホは、クラップハムに下宿して、その家の娘──ウースラ・ロイヤーを愛するようになりました。しかし、すでに彼女は婚約していて、結婚を申し込んだ彼を笑ったのです。これはビンセントにとっては、たいへんなショックで、このため思いやりのある少年から、気むずかしい扱いにくい若者になりました。仕事もうまくいかなくなり、ゴッホはパリ支店に回され、やがて解雇されました。これには、彼は自分が好きでない絵は売ろうとしなかったことも一つの理由でした。
バン・ゴッホ家の人たちは人間への奉仕に熱心で、ビンセントも例外ではありませんでした。彼は聖書の教師になることにし、ラムスゲイトの学校で教職につきました。最初の仕事は未払いの授業料を徴収することでした、当時、学校教育を受けるためには、授業料を支払うことになっていたのです。子どもの家庭を訪れたゴッホは、その貧しさにおどろき、徴収できずに帰ってきましたので、この職も解雇されました。職を失ったゴッホは、学校の先生をしている妹が住んでいるハートフォードシャーのウエリンまで、はるばると歩いていきました。
彼の次の計画は、イギリスの貧しい人たちの牧師か伝道師になることでした。そのために、まずトゥイケンハムのトーマス・ジョーンズというメソジスト派の牧師のところで、しばらく働きました。

 1877年に、バン・ゴッホはオランダにもどり、当時エデンに住んでいた両親の家で暮しました。教会に入ろうと決心し、14か月間、ラデン語とギリシア語を勉強しましたが、結局はこの野心を捨て、ブリュッセルの伝道師の学校に入ることにしました。けれども、ゴッホは声も悪く、身なりもかまわなかったので、これもまた失敗してしまいました。
バン・ゴッホが貧しい人びとに奉仕しようとする最後の努力は、ベルギー南部のポリナジという、たいへん貧しい炭鉱地帯に向けられました。ここでゴッホは小屋に住んで病人を訪問したりしました。すさんだ鉱夫を助けるため、ゴッホは絵を模写してわずかなお金をかせぎました。自分の服や所有物までも与えました。ゴッホは疲労と困窮ですっかりやつれ果て、あまりにもひどいありさまになったので、教会評議会から解雇されました。
27歳になったバン・ゴッホは、美術を通じて人類に奉仕しようと決心しました。彼はフランスの画家ミレーをたいへん崇拝していました。バン・ゴッホの考えでは、ミレーは農民の生活を描いて、キリストの教えを広めたのです。彼は数人の芸術家を訪ね、助言を求めました。そして、その後、何度か美術の訓練を受けようとしました。彼はしばらくいとこのモーブのところで働きました、このいとこは、ハーグでかなり名の知れた芸術家でした。モーブは、石膏モデルから学ぶべきだとバン・ゴッホに言いましたが、バン・ゴッホは彼と口論して、石膏モデルを打ち砕いてしまいました。

 バン・ゴッホは、ふたたび両親のところに帰りました、このとき両親はブラバントのニューネンに住んでいました、未亡人になったいとこに求婚しましたが断られ、二度目の失恋を味わいました。
そのころまでに油絵を始め、ゴッホの絵は上達していきました。当時のゴッホの主題は、彼がこよなく愛した農民の姿で、色は暗く陰気なものでした。彼は、大地に汗を流すこれらの人びとには威厳があると感じていたのです。彼は、自分が描く絵のために、多くの研究をしました。「ジャガイモを食べる人びと」 という絵は、何人かの農夫が夕食の食卓に着いているところを描いたものです。彼は絵について、いろいろな発見をしはじめ、彼の使う色は少しずつ明るくなってきました。
1885年に、父親が亡くなり、バン・ゴッホはアントワープに向かいました。献身的な彼の弟テオは、お金を送ってくれていましたが、それでもバン・ゴッホは画材を買うために食事もへらさなくてはなりませんでした。波はルーベンスの絵を見て、その輝くような色彩に感動し、その後は暗い絵画のスタイルを捨て去りました。
1886年、バン・ゴッホは、もう32歳でしたが、アントワープ学院の生徒になりました。この学院時代も昔気質の美術教師とあいかわらず口論しました。ゴッホは失敗に悩まされ、試験の成績が悪いために13歳の少年たちの初等クラスに落されます。このころまでに、彼はパリに住んでいる弟のテオのところに行くことにしていましたから、自分の試験の成績がどれほどひどいものだったか、知ることはありませんでした。

 バン・ゴッホの弟のテオは、パリでも名の知られた画商で、当時活躍していた印象派画家の保護者でもありました。印象派の画家たちは野外で絵を描き、彼らの描く主題を照らす、光のつかの間の印象をカンバスにあらわそうとしていました。印象派の画家たちは、純粋な色で点描したり、また日本の浮世絵からも影響を受けました。おもにパリ近郊やセーヌ川のほとり、フランス北海岸で制作をしました。
バン・ゴッホは、トゥールーズ・ロートレックやピサロらの、多くの印象派画家と会いました。ゴーギャンとも知り合い、ゴーギャンの作品に心酔し、またセザンヌにも紹介されて、彼から、ゴッホはまるで気違いのように絵を描くと批評されました。
ゴッホは、印象派の手法で絵を描きはじめました。色彩も明るく豊かになり、絵具をぬる筆さばきが速くなりました。無精でいっしょに生活するのはむずかしい男でしたが、ゴッホは元気のよい話し好きになっていました。生真面目さは影をひそめ、ゴッホの絵はあざやかで楽しそうでした。彼は、パリで、200枚もの絵を描き、そのうちの22枚は自画像で、他は静物画の習作や花の絵や風景でした。
2年間で、バン・ゴッホは印象派を越え、印象派を離れました。彼は、絵は瞬間的印象を捕えるだけよりも、もっとすべきことがあると思ったのです。
1888年2月、イル・ド・フランスの穏やかな光にあきたバン・ゴッホは、南フランスのもっと強烈な色にあこがれ、プロバンスのアルルに出発しました。

 アルルに行けば輝く光と色彩を目にすることができるとバン・ゴッホは期待していましたが、実際に到着してみると雪におおわれた風景でしたので、ゴッホの夢は無残に打ちくだかれました。けれども、彼はアルルに落ち着き、後に彼の名を高めることになった、何枚もの絵を描いたのはここでした。
春になると、彼は花ざかりの果樹園を描き、地中海のサン・マリ・デ・ラ・メールを訪れました。ここで、浜辺の漁船を描きました。ラマルテーヌ広場の黄色く塗られた家にいくつかの部屋を借りて、すさまじい勢いで仕事をしました。1年間に200枚の絵と100枚の泰描を描きました。その間に彼は、とうとう独特の画法を作りだし、点描とまっすぐな筆使いで色をぬりました。ラングロアーの運河の橋を4枚描き、麦畑の有名な習作も描きました。バン・ゴッホは黄色を好み、ヒマワリの多くの絵や有名な 「黄色い椅子」 なども描きました
アルルの地元の人びとの肖像画が描かれ、ローリン家の家族がカフェ・ド・ラ・ガールでかわるがわるモデルになりました。ローリン夫人は彼女の赤ちゃんといっしょにモデルになり、ローリン氏は郵便局員の制服を着て描かれました。ローリン氏の息子で黄色い上着を着たアルマンを描いたバン・ゴッホの肖像画は、美術史上でも、もっとも有名な肖像画の一つです。彼はまた、労働者の仕事着を着て、黄色いわら帽子をかぶった自画像も描きました。これほど短期間の間に、これほど数多くの有名な絵が描かれたことは他に例がありません。

 不幸にも、この天分の輝いた時期もそう長くは続きませんでした。孤独なバン・ゴッホは、他の画家をプロバンスに連れてくることを夢みました。彼は毎日弟のテオに手紙を書き、このテオ・バン・ゴッホが資金を用意してくれたおかげで、ゴーギャンがアルルのゴッホのところに来ることができたのです。
ゴッホとゴーギャンは2人とも貧乏で交際をきらい、いっしょに生活することが困難なことはすぐわかりました。ゴーギャンは、アルルの町を小さい町でつまらないところときらいましたし、バン・ゴッホの絵に共感しませんでした。やがて、2人はいさかいを始め、バン・ゴッホはゴーギャンにグラスを投げつけました。それから、彼はカミソリを持ってゴーギャンを通りまで追いかけました。ゴーギャンがホテルに逃げこむと、バン・ゴッホは逆上して自分の耳の一部を切ってしまい、病院に運ばれました。ゴッホは少し回復してから、耳に包帯をしている2枚の美しい自画像を描きました。
病院から退院してまもなく、ゴッホはふたたび病状が悪化して、アルルの人たちは彼をこわがるようになりました。80人の市民が、ゴッホは気が狂っていると署名しました。バン・ゴッホは、プロバンスのサン・レミの病院に自発的患者として入院しなければならなくなりました。彼は、ここでときどき精神異常の発作を起しましたが、制作には支障をきたさない程度でした。付添い人がいっしょならば外出も許され、ゴッホはサン・レミの病院で多くの絵を描きました。
バン・ゴッホの作品は、パリやブリュッセルの画商から注目されるようになりましたが、病状は悪化していて、成功を喜べる状態ではありませんでした。

 病気のために、バン・ゴッホの絵は明るさを失い、画風も変りました。彼は、よじれたり渦巻いたりしているものの姿や、いびつな木々、不吉な空がある風のような景色などを描きはじめました。筆の運びは、爆発するような荒々しいものになり、彼の絵はたいていたった1人の人物がさびしく描かれている以外は何もない、悲しげで空虚なものが多くなりました。あるときなどは、発作の最中に油絵の具を飲んだり、付添い人をアルルから来た警官と錯覚してけとばしたりしました。
1890年になると、バン・ゴッホはかなり回復して、パリに行けるほどになりました。弟とパリで楽しい3日間を過ごした後、パリからあまり遠くないオーブレの村に滞在するために出発しました。オーブレには、多くの印象派画家が制作活動をしていて、そこでゴッホはガシェという医師の看護を受けました。ゴッホは医師や彼の娘を描いたり、回りの田園風景も描きましたが、これらの絵は、乱雑でゆがんでいました。彼の力は次第に衰えていき、ふさぎこんでいるかと思うと急に楽しそうになったりして、酒の量もふえていきました。
弟のテオはいつもバン・ゴッホを経済的に助けていましたが、今ではテオは結婚して子どももいましたので、お金も以前ほど余裕がなくなりました。テオは病弱でもありました。おそらくバン・ゴッホは、弟に迷惑をかけていることに罪悪感をおぼえていたことでしょう。正確には、どういう理由か誰にもわかりませんが、ある日、パリから帰ってきたバン・ゴッホは農場でピストル自殺してしまいました。このとき、彼は37歳でした。
こんなに苦しみの多い精神をもっていたにもかかわらず、ゴッホは絵画史上、もっとも喜びに満ちた絵の何枚かを残しました。

 

ゴーギャン

 ポール・ゴーギャンは、1848年に生れました。父親はジャーナリストで、祖父はオルレアンで食料品店を営んでいました。母親の先祖は興味深い家系です。祖母はペルー貴族の娘で、インカ帝国の国王の子孫と言われていました。祖母は、とても情熱的な人で、女性の権利についての本を書きました。その娘──つまりポールの母親は、貞淑な気立てのやさしい女性でした。
ゴーギャンの生れた年に、家族はペルーに行きました。その旅行中に父親が亡くなりましたが、母親が旅を続け、彼女の家族から温かい歓迎を受けました。ゴーギャンは生れてから7年間、中国人や黒人の召使たちに世話されてぜいたくに暮らしました。ペルーでの生活で、ゴーギャンは異国的な環境や未開の地の人びとの芸術を愛するようになりました。
ゴーギャンは7歳のとき、オルレアンの父親の家族の地所を相続するために、母親とともにフランスへ帰りました。その間に、ペルーの母親の叔父さんが亡くなり、母親に継がれるはずの財産は親せきの人たちに浪費されてしまいました。
ゴーギャンは、フランスの学校に通い、最初はオルレアンの学校で、次はパリの学校で勉強しました。母親は婦人服の仕立屋になりました。ゴーギャンは、木を彫っておもちゃを作るような、夢多い感受性の強い少年でした。学校の成績は、それほど優秀ではなく、海軍に入ろうとして海軍士官学校の入学試験を受けましたが、不合格になりました。

 しかし、ゴーギャンは、3本マストのスクーナー船の見習として採用され、少尉候補生になりました。ゴーギャンは、優秀な船乗りで、将来の画家を思わせるようなきざしは、まったくありませんでした。世界一周の航海に出たり、王室ヨットに乗り組んだりしました。この船は、1870年に、フランスとプロシアの戦争のときに軍艦となり、ドイツ船を数隻も捕獲しました。
1867年に母親が亡くなりましたが、その前に彼女は賢明にも投資家のグスタフ・アロサをゴーギャンの後見人にしていました。アロサは株式仲買人で、芸術の後援者でもありました。アロサには数人の印象派画家の友人がいました。アロサはゴーギャンを株式取引店に入れ、ゴーギャンは事業に興味を持ちはじめました。ゴーギャンは、ひまを見ては絵を収集したり、友人のシャフニネッカーといっしょにルーブル美術館で絵を写したりしました。
1873年、ゴーギャンは、パリで家庭教師をしていたデンマーク人のメッテと結婚しました。株式売買でお金をもうけましたので、2人はりっぱなアパートに住んで裕福に暮しました。
ゴーギャンは、アパートの中に画室を作り、余暇を利用して絵を描きました。また、印象派画家と交際して、彼らの絵をたくさん集めました。ゴーギャンは、ますます絵に熱中して、1876年にはパリの現代美術展覧会に入選しました。他の展覧会にも、印象派画家とともに作品を展示しました。しかし、その当時のゴーギャンは、まだ他の画家ほど技術的には熟達しておらず、また手法についても、完全に彼らに共感していたわけではありません。

 1883年に、株式市場は暴落し、ゴーギャンは大損をしてしまいました。楽天家のゴーギャンは、注意せずに分別のない投資をしたのでした。それからしばらくして、ゴーギャンは辞職しました。そのとき、彼は35歳になっており、5人の子どもの父親でもありました。彼はパリより生活費の安いルアンに、家族を連れて引っ越しました。彼の妻、メッテは、絵を描くのが趣味の株式仲買人と結婚したのであって、この当時、絵ばかり描くゴーギャンに失望しました。それに加えて、ゴーギャンは、彼女に将来の保証はできないというのです。
1884年に、メッテは子どもを連れて、デンマークに帰ってしまいました。ゴーギャンはあとを追いましたが、すぐに義母とけんかになりました。ゴーギャンは、6歳になった息子のクロビスをパリに連れ帰りました。やがてきた冬はひどい寒さでした。ゴーギャンは床の上で眠り、2人はパンと水で生活しました。寒さに悩まされ、息子のクロビスは病気になってしまいました。ゴーギャンは、やむなく広告張りをしてわずかにお金を得て生浩しました。
その間に、ゴーギャンは画家として熟達していきました。印象派の考えには満足できなかったので、そこからは離れました。彼は、絵画というのは、つかの間の瞬間をとらえる以上のものだと感じていました。ゴーギャンは、芸術作品というものは、現実を写し取るとともに、その内にひそむ意味を伝えるべきだと考えていたのです。実際、このゴーギャンの考えは、後期印象派の主目的で、ゴッホやセザンヌも同じ考えでした。

 ゴーギャンは、息子を全寮制の学校に入れて、多くの画家が活動しているブルターニュに移る決心をしました。やがて、ゴーギャンは彼らにかなり影響を与えるようになりました。ゴーギャンの絵に対する考えは、彼らにとって新しいもので、作品も鮮明で力強いものでした。彼は、4度もブレトン郊外を訪れ、もっと異国情緒のあふれている地方に行きたいと思うようになりました。
1887年には、ゴーギャンは、パナマに渡り運河建設の労働者としても働きました。熱病と死のなかで、1日12時間もシャベルで土を掘って働いたのです。彼は熱帯の実に感動しましたが、病気になり、やむなくフランスへ帰されました。ゴーギャンはその帰途、マルティニック島で数枚の絵を描きました。
ゴーギャンは高慢でけんか好きでしたが、人びとは彼の絵を賛美しはじめました。1888年、画商のテオ・バン・ゴッホがゴーギャンの作品の個展を開き成功させました。テオは、兄のビンセントがアルルでゴーギャンといっしょに生活したいと願っていることを知っていましたので、ゴーギャンの陶器のいくつかを買って経済的援助をし、ゴーギャンを兄のところへ行けるようにしました。
ビンセント・バン・ゴッホは、1886年にゴーギャンと会っており、ゴーギャンの作品を賞賛していました。ゴッホは、ゴーギャンと兄弟のようにいっしょに制作活動することを夢みていました。しかし、ゴーギャンの訪問は成功しませんでした。2人は画家としておたがいに助け合いましたが、いつも口論をしました。2人の間では、ゴーギャンが支配的立場に立っていましたが、ゴーギャンは、感情的でだらしのないゴッホに始終いらいらさせられました。とうとうゴーギャンがパリに帰ろうとしたとき、バン・ゴッホはカミソリを手にして追いかけるという光景が引き起されるのです。このあとバン・ゴッホは完全に異常をきたしました。

 バン・ゴッホが発狂した責任を、ゴーギャンに押しつけることはできませんが、ゴーギャンが思いやりにかけていたことはたしかでした。バン・ゴッホが自殺したとき、ゴーギャンはたいそう冷淡で、ゴッホの死を、いいやっかいばらいだと考えたのです。
パリにもどったゴーギャンは、不愉快でおもしろくなく、ふたたび熱帯風景にあこがれはじめました。彼の作品はさらに装飾釣で象徴的になり、黒い線と強烈な色彩を持っていました。ゴーギャンは、マダガスカル島に旅行する資金を集めようとましたが、十分には集まりませんでした。そのうちに、ゴーギャンの保護者であったテオ・バン・ゴッホは病気になり、まもなく有名な兄ビンセントのあとを追って、まもなく亡くなりました。
ゴーギャンは、画商たちにあまり信用されていなかっただろうと思われます。当時、ゴーギャンはこんな言葉で表現されています。「いつも紺色のベレー帽をかぶり、古くなって緑色に変色した、長いベージュの外とうを着ていた。その外とうの下には、絵具のついたジャケットと、濃紺色にブレトン刺しゅうのあるセーターが見えている。ズボンは長すぎて木靴の上にたれさがり、ぶざまな格好だった」
ゴーギャンその人自身は、パリの人たちに感銘を与えなかったかもしれませんが、絵はますます注目されるようになりました。
そのころにはゴーギャンの心は南太平洋にあり、その旅費を集めにかかりました。個展を開いておよそ1万フランの資金が集まりました。6年間も会わず、また、その後一生会うこともなかった子どもたちに別れを告げて、1891年にタヒチ島に向かいました。

 ゴーギャンは、現在、南太平洋の牧歌的絵画の画家とみなされています。ゴーギャンは、島の住民たちが熱帯の植物の間にすわっているところを描いていますが、住民たちのポーズや表情には、神秘的な時間を超越した世界があります。それらの絵はヨーロッパのあわただしい文明社会で見られるよりも、もっと純粋で無邪気な世界の姿をゴーギャンが私たちに示したものです。
不幸なことに、現実と夢は一致しませんでした。最後のタヒチ王が亡くなり、ソサエティー諸島はフランスの管轄下になってしまったのです。ゴーギャンはそこで見たものに幻滅し、ことに俗物的なフランス官僚を嫌いました。ゴーギャンは、原住民の方をずっと好み、彼らの言葉を習い、同じような服装をしました。やがて、ゴーギャンは、その島の主要都市のパピートから南海岸に移りました。そこで、小屋を借りてタヒチ娘といっしょに暮しました。
ゴーギャンは熱心に制作に取り組みましたが、パリの生活が忘れられませんでした。また、故郷にいたときに親しんでいたタバコやぶどう酒も必要でした。タヒチはゴーギャンを悩ますさまざまな問題の解決とはなりませんでしたが、ここに滞在している間に、芸術についての彼自身のゆるぎない結論に至ることができました。ゴーギャンは、画家は自然の力に刺激されて画家自身の感情のままに描くべきものだと考えました。またゴーギャンは、絵を平らな表面と考え、特定の配列の色をぬらなければならないと確信しました。色彩の調和とリズム、装飾性がもっとも重要であると考えたのです。ゴーギャンは、その後の画家に重大な影響を与えました。

 ゴーギャンは、タヒチでは落ち着けず、住民を堕落させるヨーロッパ文化の影響がより少ない、近くのマーケサス諸島に渡りたいと思っていました。彼の健康状況は悪く、1892年には心臓発作で倒れました。翌年、軍用船でフランスに帰りましたが、持ち金はたった4フランしかありませんでした。やがて、叔父さんの1人が亡くなり、遺産の9000フランが手に入りました。
ゴーギャンは、パリとブリュッセルとデンマークで展覧会を開きました。パリの人びとは、ゴーギャンの絵のスタイルを粗野だと思いましたが、かなり興味をひきました。
その後ゴーギャンは、ジャワ人の娘といっしょにサン・ベルシネトロー通りに画室を借りて住みました。黄色で壁を塗り、オノやこん棒やブーメランを部屋に飾りました。この画家は貝ボタンのついた青色の長いフロックコートを着て、はでな服装をしました。緑色と金色のチョッキを着て、灰色のフェルト帽に空色のリボンを巻き、白手袋をしていました。このように目立った服装をしていましたので、ブルターニュを訪れたときに船員は彼を笑いました。ゴーギャンは、その船員たちと大げんかをして、くるぶしを骨折し、その後完全には回復しませんでした。
ゴーギャンがパリに帰ってみると、ジャワ娘は金目の物を全部画室から持ち出して逃げてしまっていました。ゴーギャンは49枚の作品を売り、家族に別れも告げずにタヒチに帰ってしまいました。そして、二度とフランスへもどりませんでした。

 1895年に、ゴーギャンはタヒチにもどりましたが、以前のようにその島を好きになれませんでした、そのうえ、タヒチ島には、電灯がつくようになっていて、ゴーギャンはうんざりしてしまったのです。原住民の地域に家を造って住みましたので、またもやヨーロッパ人社会から敵意を持たれました。その家は、2部屋の原住民の家の形式で──「屋根がココナツの葉でふかれた竹の鳥カゴのようだった」 そうです。
ゴーギャンは、ほんとうの病気にしろ、思いすごしにしろ、いつも病気には苦しんでいましたので、土地の薬剤師に多額の借金をしたそうです。薬剤師は、絵を描いてくれたら借金を帳消しにすると言いましたので、ゴーギャンは、一所懸命制作に励み 「白馬」 を描きあげました。この絵は、ゴーギャンの絵のなかでも多くの人びとに賞賛されているものですが、薬剤師はその絵を見て怒ってしまいました。「馬が緑色をしている!」 と言ったのです。真昼に目を半分閉じて見れば、すべては緑色の光をおびているのです、とゴーギャンは薬剤師に話しました。薬剤師は、どんなときにも目を大きくあけて見られる絵がほしいと言って、その絵を受け取りませんでした。
パリでゴーギャンの絵は売れましたが、それでも経済状態は悪く、一時はタヒチの郵便局で働かなければならないほどでした。ゴーギャンの視力は次第におとろえ、熱病に苦しみ、足も痛くなりました。ゴーギャンは、被害もう想にかかり、自分に来る郵便物が盗まれると想像しはじめ、ゆううつになってけんかをしたり、裁判ざたになったこともありました。自分用の新聞さえ編集しはじめ、そのために絵の制作活動はおろそかになりました。

 1901年になると、ゴーギャンの生活もようやく少し楽になってきました。彼は、とうとうタヒチに芸術的発展の可能性を見出せなくなり、タヒチよりも生活しやすく、景色も荒らされていないマーケサス諸島に移住する決心をしました。タヒチ島での絵がプレトンでの絵よりもすばらしいものであったように、今度のマーケサス諸島での絵は、タヒチ島の絵よりももっとすばらしくなると思ったのです。
画商ボラールは、ゴーギャンの絵をパリで売り、その代金を定期的に送金してくれましたので、ゴーギャンは経済的な心配がなくなりました。ゴーギャンは、照りつける太陽をさえぎるおおいと大きな画室がある家を火山岩の上に建てました。ようやく安楽に生活できるようになったのです。けれども、このマーケサス諸島でも、ゴーギャンは、内気な原住民に大きな影響力を持っていた警官や、カソリックの神父たちとの間にいさかいが絶えませんでした、しかしゴーギャンは、原住民と接するときはつねに親切でやさしく、税金の支払を拒否して、原住民にも支払わないように勧めました。
ゴーギャンは55歳になっていましたが、タヒチの生活で年をとり、湿疹にひどく悩まされました。ゴーギャンは、原住民のシャツを着て、腰には色つきの布をまとい、銀色のバックルをつけた緑のベレー幅をかぶり、金属ぶちのメガネをかけた奇妙な格好をしていました。素足で歩き、足には包帯をたくさん巻いていました。
1903年に、マーケサス諸島は強烈な暴風雨に襲われましたが、ゴーギャンは助かりました。けれども、そのすぐ後に亡くなったのです。けんか好きなゴーギャンの性質はすぐ忘れられましたが、ゴーギャンの絵は死後も残り、現代画の創始者の1人として、その名を残しています。

 

セザンヌ

 ポール・セザンヌは、1839年、南フランスの静かな古い町のエクス・アン・プロバンスに生れました。彼は、ゴーギャンより9歳年上で、バン・ゴッホよりも14歳年上です。セザンヌは、彼らよりも、おだやかな一生を送り、2人より長生きしました。
セザンヌの父親は帽子製造業を営んでいましたが、後に銀行を買い取り、エクスの裕福な市民となった人です。厳格な父親でしたので、セザンヌは父親が亡くなるまで恐れていました。母親は無学な人でしたが絵画に興味を持っていて、セザンヌが偉大な画家のルーベンスやべロネーゼと同名の洗礼名を持っていることを息子に話しました。
ポールは5歳のとき、壁に木炭で橋を描きました。近所の人は、その絵を見て 「おや、これはミラボー橋だね」 と言いました。このように、ポールは小さいときから認められてはいましたが、決して芸術の神童ではありませんでした。学校では優秀で、数学や科学や古典や文学などで優秀賞をもらいました。そのうえに、詩をかき、学校のバンドでコルネットを吹いたりしました。彼は短気な子どもで、一生けんか好きで過ごしました。妹は、そのようなポールの気持を和らげることのできる、ただ1人の人でした。ポールの家族は、エクスの知名人から社会的に認められず、孤立した生活をしていました。けれども、ポールには重大な影響を与えてくれることになる1人の友人がいました。

 寄宿学校の生活が終り、ポールは13歳になるとエクスのブルボン大学に入学しました。ブルボン大学は、エクスで最高の学校で、1級下には後にフランスの偉大な作家となったエミール・ゾラがいました。ボールとエミールは、たいへん仲のよい友だちで、不思議なことに学校で絵の賞を取ったのはエミールでした。
エミールの父親は、町から離れた丘にダムを建設する技術者でした。暑い日には、ポールとエミールは、ダムのうしろの池で水浴びをして過しました。その他にも、2人は長詩を書いたり、狩に行ったりしました。ダムからは、後にセザンヌが成人して、たびたび絵の画題にしたサント・ビクトワール山が見えました。セザンヌの晩年には、水浴びする人びとの絵もよく描きました。
セザンヌは成長していくにつれて、絵を描くことの他はすっかり興味を失ってしまいました。ひまをみつけてはエクスの自由画学校へ通いました。最初、セザンヌは学校の試験に失敗しましたが、後になんとか合格できました。それから、父親を喜ばせるために法律の勉強を始めました。
そのころ、ポールの父親は、エクスの町はずれに、ジャ・デ・ボッファンと呼ばれる大邸宅を買いました。その家は、立派な建物で天井が高く、栗の木の並木道のはずれの野趣豊かな庭園に建っていました。しかし、父親はブドウ園だけにしか興味がありませんでしたので、邸宅はまったく放っておかれたままでした。

 セザンヌは、やがて法律の勉強をあきらめました。エクスの町を歩き回って画家と親しくなり、ジャ・デ・ボッファンの陰気な客間の1つを装飾したりしました。この当時のセザンヌの絵は、未熟で洗練されていませんでした。パリに出て絵の勉強をしたいと思っていましたが、エクスの町を離れるのが不安で、父親も彼を行かせるのをしぶっていました。けれども、友人のエミール・ゾラからパリに来るように催促されて、とうとう父親を説得して、毎月送金してもらうことになりました。
1861年に、セザンヌはパリに行き、アトリエ・スイスへ入りました。当時、学生は名の知れた画家のところで人物画から練習する習慣になっていました、そこで、セザンヌは、エクス出身の画家ビレヌーブのところで、午後学ぶことにしました。
パリに落ち着く最初の試みに失敗して、セザンヌは5か月後にエクスに帰りました。父親の銀行で銀行員になる努力をしましたが、法律と同じように銀行もきらいでしたので、父親はセザンヌを官立美術学校で学ばせようとパリにもどしました。しかし、不幸にもセザンヌは有名な学校の試験に落ちてしまいました。
そのためセザンヌは、ふたたびアトリエ・スイスに入り、午前中はそこで勉強しました。午後になると、ルーブル美術館へ行って模写したりしました。セザンヌは、生涯パリに永住できず、定期的に生れ故郷の静かな太陽あふれる町にもどりました。

 セザンヌの生涯のなかでも、この時期のセザンヌの作品は、彼に失望の他は何ももたらしませんでした。セザンヌは印象派には入りませんでしたが、モネやピサロ、シスレーらの印象派の画家と友人になりました。また、この時期には、オルタンス・フィケという若い女性と交際していましたが、セザンヌは父親が恐ろしくて結婚できませんでした。
1870年、フランス・プロシア戦争が始まると、セザンヌの友人のなかにも、陸軍に入隊した者がいました。モネとピサロはイギリスへ行き、セザンヌは軍隊生活を逃れるために、マルセーヌ近くのレスタクの村へ隠れ住みました。
セザンヌの絵は上達しはじめ、戦争が終ると、バン・ゴッホが亡くなったポントワーズ近くのオーベールの村へ行きました。そこで、セザンヌは、バン・ゴッホの治療にあたったガシェ医師と友人になりました。自分の絵を世に認めてもらうためのセザンヌの努力が続きますが、はじめてパリのフランス・アカデミーの美術展に受け入れてもらったのは、1882年のことでした。
1886年なると、父親が亡くなり、セザンヌは一生経済的な心配をしなくてもすむだけの遺産を受け取りました、そこでセザンヌは、オルタンスと結婚し、子供のポールといっしょにジャ・ド・ボッファンに移り住みました。セザンヌを訪れる人びとは、彼らの目には救いようのない失敗作としか見えない絵をいつまでも描いているセザンヌを見て、気の毒がったということです。
その年に、エミール・ゾラも本を発表し、その本は失敗者の画家を主人公にしたもので、明らかにセザンヌ自身をモデルにしたものでした。セザンヌとゾラの友情は決裂とはいかないまでも、昔の親密さはなくなりました。セザンヌは深く傷つきました。

 セザンヌの絵は次第に人びとの関心をひくようになり、 作品は以前よりもたびたび展覧会に出されるようになりました。けれども、多くの人には、彼の絵が理解できず、冷笑やさげすみに耐えなければなりませんでした。古い型の画家でないバン・ゴッホでさえも、セザンヌの描いた景色はキャンバスのがたつきのせいだと言うありさまでした。それと反対に、ピサロやルノアール、ドガ (彼らはもうすでに一流になった画家たちですが) は、セザンヌの絵をほめちぎり、彼のことを 「洗練された野蛮人」 と呼びました。
セザンヌの制作方法は、非常に興味深いものです。セザンヌは、偶発的な印象や一時的な外観に重きをおきませんでした。そのかわり、目に写ったものを分解して、球体や立方体、あるいは円筒形の基本的な形に構成したのです。このようにして絵を単純化し、完全にバランスのとれた幾何学的な構成にして、その上に最初は中間色を少しずつゆっくりと、徐々に強烈な色を塗っていったのです。セザンヌは、色彩にかけてはすばらしい感覚の持主でした。
セザンヌは絵の効果をあげるために、数限りない苦労をしました。肖像画のモデルは100回もポーズをとらなければなりませんでした。静物画を描くときには完全な構成を作るために、セザンヌは、テーブルかけや果物の位置を整えるのに数時間もかけました。おそらく彼は、リンゴを描いた静物画でもっとも有名な画家でしょう。「私は1個のリンゴでパリじゅうの人をおどろかせてみよう」 と言ったのも当然のことです。
風景画を描くときは、セザンヌの目は土の下の岩の形を求めました。彼の描いた農家は立方体になり、木は円筒形に描かれました。あとになって、立体派画家はセザンヌの考えに従い、新しい絵画の手法が生れました。
この筆が遅く、こり屋で不器用な画家セザンヌは、現代美術にはかりしれしない影響を与え、そして、現在ではセザンヌの絵にはとても高い値がつけられています。

 セザンヌは50歳になったころ、作品が認められはじめ、ようやく画家としても頂点に達しました。モデルを雇うこともできるようになり、「カードをする人びと」 を描くためにエクスの労働者や庭師をモデルに使いました。また馬車を借りて、サント・ビクトワール山の美しい水彩画を描きにいくこともできました。セザンヌの作品は、パリやブリュッセルで展示され、多くの若い画家たちに注目されました。
セザンヌの家庭生活はそれほど幸福とは言えませでした。1886年に結婚した妻は、浪費癖があり、息子は怠け者でした。妻も子どもも静かなエクスの町よりも、華やかなパリの方を好みました。セザンヌは子ぼんのうで彼のもっとも有名な絵の1つに、謝肉祭のカーニバルのとき、息子とその友人を盛装させて描いたものがあります。
タヒチのゴーギャンに売上金を送っていた画商のボラールは、1895年にセザンヌの絵の展覧会を開きました。あいかわらず、大衆はセザンヌの絵を嘲笑してひやかしましたが、専門家はセザンヌを認め、彼の絵を買いました。セザンヌは、おそらく大衆の嘲笑がいやだったのでしょう、その展覧会には出席しませんでした。セザンヌはもう印象派画家たちと会うこともなくなり、後期印象派の画家とも交際しませんでした。バン・ゴッホはすでに亡くなっており、セザンヌは、辛らつにゴーギャンを批評して 「ゴーギャンは、外洋汽船に乗ることに夢中になったんだ。彼は私の絵を理解したことがない。画家ではなく、中国人の像の制作者だからね」 と言いました。

  晩年のセザンヌは健康にすぐれませんでした。糖尿病にかかり、病身にもかかわらず、セザンヌはがんこに制作を続けました。1898年に、年老いた母親が亡くなり、セザンヌはジャ・ド・ボッファンの家を売り払いました。エクスの郊外の眺めのよいところに簡素な画室を建てて住みました。
20世紀初期は、セザンヌにとって成功の絶頂期でした。1900年に行なわれたフランス美術100年祭展に、彼の絵は3点も展示されました。1904年と1905年には、現代美術展に多くの作品が出品されました。
画商たちは、エクスの町を訪れて、セザンヌが近所の人に与えた絵を買いあさりさえしました。ボラールは、セザンヌの2枚の絵が1000フランだと言われた夫婦は、なかなか信じなかったと語っています。夫婦はお金を受け取ると、その夫人はたいそう喜び、絵をしばるひもを提供すると言いました。「このひもは、たいへんよい品で、私たちは普通誰にもあげないのですよ」 と、その夫人は言いました。明らかにセザンヌの絵よりも、ひもの方が価値があると思っていたのです。
セザンヌは孤独な人で、エミール・ゾラとは若いころに友情関係に溝ができていましたが、それでも1903年にゾラが亡くなると、セザンヌは悲しみました。
1906年、セザンヌは写生に出ていたとき、突然大雨に会い、その後重い病気になりました。夫人と息子を呼ぶために電報が打たれましたが、オルタンスはドレスメーカーのところへ行きたくて電報を引出しに隠してしまいました。セザンヌは息子の来るのをむなしく待ち望んでいましたが、ついに息子の顔を見ることもできずに息をひきとりました。
ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌの生涯は苦難に満ち、往々にしてさびしいものでもありましたが、彼らの作品は後世に残り、数多くの人びとに喜びを与えています。


もどる