レディバードブックス100点セット
 

 

クレオパトラと古代エジプト

 5000年前、イギリスには石器時代の人びとが住んでいました。当時の人びとのことについては、この本のシリーズの別の本に書かれています。その本では、ほら穴の中で人びとがどんなふうに暮していたか、また石をとがらせた石器で狩をし、その動物の皮をどんなふうに衣服にしたかなどについて、説明されています。
同じころ、イギリスから遠く離れたエジプトには、別の人びとが大都市で生活していました、人びとは、すばらしい寺院を建てたり、りっぱな着物や宝石を身につけていました、また店をかまえた商人や、馬に乗った兵士、法律家もいて、裁判所もありました。
これらの人たちは、エジプト人です、考古学者が、当時の人びとの生活や建物のことを絵や文字で描いた巻物や墓の壁を発見しましたので、私たちは当時の人びとのことをくわしく知ることができます。
当時のエジプト人は、象形文字という不思議な文字を使っていました。この象形文字は絵で書かれたものですが、長い間、考古学者も読みとれませんでした。ところがあるとき、フランスの学者が、ギリシア語とエジプトの象形文字の2つ文字で、同じ1つのことが刻まれている石を発見しました。その学者は、ギリシア語を知っていましたので、象形文字を読むことができたのです。この石は、発見場所の名をとって、ロゼッタ・ストーンといわれています、この石のおかげで、私たちは古代エジプトの象形文字を読むことができるようになりました。

 記録などはすべて、僧侶によって書かれていました、紙はまだ発明されていませんでしたので、パピルスと呼ぶ植物の茎を使っていました。このパピルスから、今、英語で使われているペーパー(紙) という言葉ができたのです。
パピルスの茎を長く薄く切り、並べます。次にそれに交差するように別の細長いパピルスの片を組合せ、マットのように織りあげます。これを水にひたして2つの層を張り合せたあと、平らな石の上で打ちのばすのです。
それを太陽で乾燥させてから、最後に象牙のかけらでなめらかになるまでこすって仕上げるのです。これで使用できました。
このパピルス紙は、つなぎ合されて、巻物のように長くされることがよくありました、私たちが今使っている本のように、とじ合せてはありません。この巻物は、2本の木製の軸で巻いてあり、読むときは片方の軸からもう1つの軸に巻き取るのです。この方法は、今のように本のページをめくるよりも、だいぶたいへんだったことでしょう。
僧侶たちは、色インクや草やわらで作ったペンを使っていました、今までに発見されたパピルスの巻物には、色つきで美しく描かれたものがたくさんあります。

 エジプト人は、すばらしい建築家でした、イギリスでストーンへイジ(巨大な石柱がならぶ遺跡) が建てられるずっと以前に、エジプト人はエジプトの神々のための巨大な寺院をたくさん造っています。このような寺院のいくつかは、今でもエジプトで見られます、たとえばカルナックというところでは、数千年前に建てられた巨大な円柱の大広間が残っています。
エジプト人は、ファラオと呼ばれていた王様の像も彫りました。テーベの近くには、アーメンホテップという名のファラオの2つの巨大な像があります、昔は、朝になって太陽がのぼると、その片方の像から音楽のような調べが聞えてきたと言われています。当時の人たちは、その音楽は像が太陽にあいさつしている声だと考えていたのでしょう。
エジプト全土にわたって、神をあらわした像や、寺院の壁に描かれた壁画が発見されています。これらの神々のなかにはとても変ったものがあります。その1つに、体が人間で頭部がタカのようなものがあります。この神は最初ラーと呼ばれていましたが、のちにはアモン・ラーとして崇拝されました。
ラーは太陽の神で、すべての神の支配者でした。エジプト人は、ラーを、毎日船に乗って東から西へと天空を横切り、ナイルの人びとに光と生命を運んでくる者として、描いております。

 古代エジプトのあらゆる遺跡のなかで、もっともよく知られているものは、カイロの近くのギゼーにある、ピラミッドとスフィンクスです。
大ピラミッドは、巨大な石の建造物で、底面鏡は13エーカー(5.2ヘクタール)、高さはセント・ポール寺院よりも150フィート(約45m)も高いものです。土台は四角形で、その各辺はたいへん注意深く測定され、正確に等しく、誤差はほとんどありません。各辺は内側に向かって傾斜し、頂上で1点にむすばれています。
このピラミッドは、およそ5000年前エジプトを総治していたクフ王が建てたものです。ピラミッドの内部深くにクフ王の埋葬室があり、そこまで行くには長くて狭い通路を通らなければなりません。数千人の奴隷たちが20年もかかって、この巨大な墓の石を切り出して運んだのでした。
ピラミッドと同じく有名なものに、ライオンの体と人間の頭をしたスフィンクスがあります。このスフィンクスは、大ピラミッドの近くにあって、長さは189フィート(約57m)もあり、自然岩を彫って作られたものです。
このスフィンクスは、大ピラミッドが作られる前にすでに作られていたと言われています、しかし、同時に作られたと言うエジプト研究家もいます。
このスフィンクスは、以前には2つの前足の間に寺院があったほど大きいものでした。

 ピラミッドがいかに慎重に作られたかは、もうわかったことでしょう。石工頭は、石の大きさだけでなく、ピラミッドの斜面の角度まで非常に正確に測らなければならなかったでしょう。次ページの絵では、石工たちはひもで石を測っています。
クフ王のピラミッドを作った石材は、ナイル川の対岸から運ばれ、その作業はたいへんだったことでしょう。この仕事をした人たちは、たぶん堅い木で作った長いてこを使って少しずつ持ち上げ、石材の下にローラーを入れて運んだと思われます。そして、数百人の奴隷が、皮を編んだ長い綱でその石を引っぱったのでしょう。
このような方法で大きな像を運んでいる絵が、ズートホテップという地方の統治者の壁の中にあります、また、その像の上には、1人の男が立っていて、奴隷たちが綱を引く合図に手をたたいている絵もあります。
石材は全部、銅ののみで彫られましたが、後には青銅や鉄の道具にとってかわりました。エジプト人は、現在私たちが使っている大きなクレーンや機械を持っていませんでした。しかし、それらの機械を使っても、クフ王のピラミッドと同じ大きさのものを作るのはたいへんなことでしょう。

 古代エジプトの各王朝の統治者のことが、いろいろ伝えられています。数多くの王朝がありましたが、それは普通、同じ1つの祖先を持つ支配者たちが治めていました。ときには、ファラオに後を継ぐ子どもがいない場合や、他種族の統治者がエジプトを征服して新しい王朝を作ったりすることもありました。
その王朝のなかで、もっとも偉大だったのは、第18代と第19代の王朝で、そのときのファラオは、紀元前1650年から前1280年にわたって統治していました。この400年にわたる長期間の王朝は、新王国時代といわれ、その期間はエリザベス一世から現在までの年代に匹敵します。第18代王朝のファラオがはじめて統治したときが、新エジプトの始まりとなっています、というのは、このファラオが、450年もの長い間エジプトを支配していた外国人をエジプトから追放したからです。
これらのファラオのなかで、もっとも偉大だったのは、トウトメス三世でした。トウトメス三世は、西はリビア砂漠から東はチグリス川まで、エジプトに接している地域を征服したのです。戦車に乗って敵をけちらしているこのトウトメス三世の壁画がたくさん残っております。現在、ロンドンのエンバンクメント(と呼ばれるテームズ川のほとり)に建っていて、クレオパトラの針とまちがって呼ばれているオベリスク(頂点がピラミッド形をした石塔)は、実はこのトウトメス三世が作らせたものなのです。

 この2王朝のファラオの多くは、偉大な軍人であり、征服者でもありました。次ページの絵は、ファラオの1人が戦いに勝ってエジプトへ凱旋しているところです。
これらのファラオの墓の壁には、彼らが征服者として戦車に乗り、数百人の捕虜がその後に続いている勝利の絵が数々あります。この捕虜たちは、殺されるか奴隷として売られたりしたのでしょう。一生のほとんどを国王の寺院の壁の建設に使われたにちがいありません。
第19王朝には、 2人の偉大なファラオがいました。1人は、セティー一世です。彼は、カーナックにある円柱の大広間やテーべ近くの王家の谷の岩に、念入りに刻みあげた墳墓を作りました。
もう1人の偉大なファラオは、ラメス二世で、67年の長い間、統治しました、ラメス二世は多くの業績を残しましたが、もっとも顕著なものは、ナイル川から紅海に通じる運河を作ったことです。旧約聖書に書かれている、ジョーゼフを迎え入れ、栄誉を与えたというのはこのラメス二世で、息子のメネフタが王位についていたとき、ユダヤ人はエジプトを出ていったのです。その物語は、聖書の創世記とエジプト記、それに民数記の中で読むことができます。

 ラメスニ世が統治していたエジプトは、巨大で強力な国家で、アフリカや地中海の果ての国々からさえも、その産物がもたらされました。墳墓の絵の中には、象やキリン、ヒョウ、サルなどと共に、たくさんの奇妙な動物が見られますが、これらはみんな、各部族からささげ物として偉大なファラオに送られたものでした。
東方の陸路を通ってインドから貴重な宝石をもたらし、ペルシアからは香料や乳香、香料樹脂が、そして、おそらく中国からも長い小道を通って絹をもたらしたのでしょう。金銀がエジプトの宝庫に流入し、ファラオの墓の中に入れられた供物の豪華さを見れば、古代エジプトの職人たちは、宝石入りの装身具や家具の装飾品を作るのに、比類ない技術を発揮したことがわかります。
征服された国の部族がエジプトに来るときは、町じゅうを行列する習慣になっていました。この行列は、ファラオが人びとに自分の偉大な力を見せるためだったのです。
エジプトの農夫は、ほとんど奴隷と変りありませんでした。農夫たちは、土地といっしょに売買され、当時のエジプトには貨幣がなかったので、彼らには何にも所有物はありませんでした。農夫たちは、かろうじて生きられるだけの物を与えられるだけでした。

 ファラオとその王妃が着た豪華な衣装やみごとな宝石は、農民たちがまとったみすぼらしいボロ布とは天と地ほどの差がありました。壁画には、ファラオや妃が着ていた服装の絵が正確に描かれています、また、上エジプト(カイロ南方からスーダンまでの地帯)は乾燥しているので、現在でも古代エジプトの服や装飾品が保存されており、私たちは実際に見たり手にすることができます。
エジプトでは、人びとはあまり衣類を身につけていません。たいへん暑い国ですから、ファラオでさえも、小さなエプロンのようなものを身につけただけの姿で描かれています。ファラオは、簡単な服装のうめ合せをするために宝石をたくさん身に着け、いろいろな色で塗った首飾りや腕輪をしたのです。
その装飾品のなかで、もっとも興味を引くものは、ファラオが儀式に着用した二重王冠です。初期のころのエジプトは、上エジプトと下エジプトの2つの国に分かれていて、どちらの国もそれぞれ異なった王冠を持っていたのです。数千年前に両国が結合されたとき、この2つの王冠は1つに合されました。
上エジプトの王冠は、白色の高いもので、頂点には球根状の取手がついていて、下エジプトの王冠は、赤色でたいへん奇妙な形をしていました。
次ページの絵は両国が統一された後の王冠です。

 エジプトは、とても豊かな国でしたので、裕福な人びとがたくさんいました。宮廷の貴婦人や大金特の婦人は、仕事をしないで、美しく着飾ることに一所懸命でした。
古代エジプトの長い歴史の間には、流行もいろいろと変りました。現存している化粧台を見ればわかりますが、当時のエジプト婦人は、メーキャップにずいぶん手をかけていたようです。紅が入ったままの紅入れや、眉毛用の墨、パウダー入れ、香料箱、それに美しく装飾された金属の鏡やくしなどを、いまでもロンドンの大英博物館で見ることができます。
現代の女性と同じようにエジプトの婦人たちも、髪の手入れに長い時間をかけていました。しかし、髪を整えるかわりに、エジプトの婦人たちは、髪を短く切って精巧なかつらをつけて、ときおりかつらを変えて変化を楽しんでいました。
次ページの絵は、エジプト婦人が奴隷たちを従えて目のメーキャップをしているところです。この婦人は、目を大きく輝いているよう見せるために、目の下に緑色のアイシャドウをして、眉毛とまぶたを黒く塗っています。婦人の横の化粧台には、乳香や香料樹脂から作った甘い香りのする油のつぼが置いてあります。

 3000年前のラメス二世時代の宴会は、豪華でとてもはなやかなものだったにちがいありません。エジプト人は非常に文化的で、壁画でもわかるように礼儀もたいへんよかったのです。
初期のころのエジプト人は、床の上にすわって食事をしていましたが、紀元前1650年から前1400年代の第19王朝期になると、クッションをおいた椅子にすわり、ハスの花で飾られた小さなテーブルを食卓に使っていました。ぶどう酒の入れ物も花で飾られ、お客たちの髪にもやはり花がつけられました。
ある宴会の説明が残っていますが、その宴会では、10種類の肉料理と5種類の鳥肉料理、それに16種類のパンとケーキが出されたのです。その他にも、あり余るほどの果物やぶどう酒がなみなみと用意されました。これらは、銀製の血に盛られ、小さなパンはいろいろのおもしろい形に作られていました。
食事の間は、演奏家が笛やフルート、それにトランペットやハープを演奏してお客を楽しませました。これらの楽器の多くは、現在でも博物館に残っていますので、数千年前にエジプト人が聞いていた音楽を、私たちは同じ楽器を使って今でも演奏することができます。演奏家やお客たちは、円錐形にした甘い香りのするワックスを頭の上にのせていました、このワックスは溶けて髪の中に流れ落ちるので.した。

 数多くの墳墓の中から、エジプト人が住んでいた土製や木製の家の模型が発見されています、この模型から、私たちは、それらが実際にどんな家であったかはっきり知ることができます。
ほとんどの家は2階建てで、バルコニーにはあざやかな色の日よけがありました。窓にはガラスがないのは、上エジプトはとても暑いところなので、涼しい風が家の中を吹きぬけられるように快適にしてあるのです。屋根は、現在カイロで見られるように、平らでした。
裕福な家には、美しい彫刻や装飾のあるテーブルや椅子が置いてありました。壁には色つきマットが張られ、床にはやわらかな敷物が敷いてありました。家の内外は全部、色鮮やかに塗られ、多くの家には、ヤシやイチジク、ブドウの木やいろいろの花が咲く木が植えられた庭がありました。
貧しい人たちの家は、裕福な人の家とはだいぶちがっていました。ほとんどの家が、太陽で乾燥させた土レンガで作られた1部屋だけの家で、裕福な家のように家具や装飾品はありませんでした。この貧しい人たちの家は、今日のエジプトのどの村でも、まだ見ることができます。たぶん、このような家は、ファラオの時代から現在までほとんど変っていないのでしょう。

 今まで見てきたように、エジプト人は、ピラミッドや墳墓、寺院を作った偉大な建築家です。これらの巨大な建物を造るのに雇われた数千人の人たちの他に、大工、レンガ職人、塗装職人、しっくい職人、それに庭師や装飾家などが、人びとが住むための家を造るために雇われました。
これらの人たちが働いているところの図が、壁画やパピルスの巻物にあります。その絵には、レンガ職人が木わくに土を入れ太陽で乾燥させているものもあります。職人たちは、こういうレンガを使って、厚さ80フィート(約26m)ほどもある壁を作ることもありました。
当時の大工たちは、たくさんの道具を持っていて、現在私たちが使っている、のこぎりやのみのようなものも持っていました。しかし、今日の大工なら簡単に継ぎ合せてしまうところを、当時の大工たちは、数年間も木の枝を整えて目的の角度に育ててから使ったのでした。3本の枝を整えて足にし、中央の幹を切ってすわる部分にし、3本足の腰かけさえ作ったのでした。
陶工やガラス職人、金銀の細工人たちも、熟練した名人でした、この名人たちの作ったすばらしい作品が、世界じゅうの博物館に置かれています。
赤斑石やアメジストのような色つき石は、装飾用としていろいろな用途に使われたのです。

 古代エジプト人は、主として農業に従事していましたが、現在のエジプトと同じように、ナイルの川の水を利用した独得な農業でした。
エジプトは、ナイル川に沿った細長い国で、東西にまたがって不毛の砂漠があります。もしナイル川がなかったならば、エジプトは存在していなかったでしょう。毎年夏になると、中央アフリカに熱帯性の大雨が降り、暑い天候のもとで乾燥しきった耕作地にひくのに必要な水を、ナイル川にもたらしてきました。
ときによって雨が降らないこともあり、そうなるとエジプトは必ずききんに苦しめられるのです。しかし、現在では大きなダムが作られ、雨期の大量の水を貯水でき、ききんの心配はありません。
古代エジプトの農夫たちは、ほとんど仕事の必要がありませんでした。収穫は、ナイル川の洪水しだいだったのです。農夫たちは、土を浅くたがやして種子をまくのですが、ときには農地を耕さずに種子をまいて、そこへブタの群を入れて、そのブタに種子を踏みこませたりさえしました。その後、農夫は何もせず収穫するだけでよかったのです。このようなわけですから、古代エジプト人が、ナイル川を神として祭拝したのも当然なことです。

 ナイル川は、土地を肥沃にしてエジプト人に収穫をもたらしただけでなく、その他の多くの面で役に立ちました。というのは、ナイルはエジプトの主要な交通路でもあり、また、人びとはナイルで漁をして毎日の食糧の大部分である魚を手に入れたのです。
このために、人びとは船が必要でしたので、初期のころからエジプト人は、木の幹をくりぬいてカヌーを作っていました。しかし、ラメスの時代になると、木造船の建造方法を覚えて、大きな三角帆とオールを使用するようになりました。ファラオの墓の中からは、その船の美しい模型が発見されています、それには、位置についたこぎ手と、船尾には大きな櫓を持ったかじ手がいます。
これと同じような船が、現在でもナイル川で見られます。この船は、川を下るときは帆を使い、川をのぼるときは流れに向かって櫓を強くこがなければなりません。
エジプト人は、このような船で漁をしたり、また沿岸で漁をしたりしました。現代でもエジプトでは、ラメス統治時代と同じ方法で、漁をしています。そのやり方は、船から細長い網を半円形に川の中へ投げ入れ、その網の両端は陸地につながれているのです。そして、網の両端を引きあげると、網の中に入った魚が岸へうちあげられるのです。

 文化水準の高くなった第19王朝にはいるころには、エジプト人は他国から輪入しなければ手に入らないものを、たくさん必要とするようになりました。
7000〜8000年前の初期王朝期のエジプトでは、砂漠を越えて、ヌビアと交易するだけで間に合っていました。エジプト人のほとんどは上エジプトに住んでいましたので、海や海外のことはほとんど知りませんでした。
ラメスの時代になって、上エジプトと下エジプトが統合され、ナイル川のデルタ地帯にも人が住むようになりました。これでエジプトは地中海に面することになり、フェニキアの大洋を航行する船やクレタの勇敢な船員たちとも、親しむようになったのです。そして、エジプトの人たちも自分たちの船を作ることにしたのです。
これらの船の模型は、国王の墓の中からよく発見されます。そういった模型は、鮮やかな色で塗られていて、船首には、たいていハスの花の形をした飾りがあります。帆は、砂漠から吹いてくるかすかな風もとらえるために大きな1枚帆になっています。風のないときは奴隷に櫓をこがせるのですが、多くは戦いで捕虜になった人たちです。その船は、ナイル川を航行するという目的のためには、うまく作られた船でした。

 ファラオや高官が死亡したときは、それにふさわしい数多くの儀式が行なわれました。墳墓には、こういう人たちの毎日の生活が精密に描かれていますので、私たちはこの人たちについてくわしく知ることができます。
ファラオの遺体は長い亜麻布で巻かれ、ファラオにふさわしい木の箱に入れられます。これらの箱は大英博物館で見ることもできますが、頭部の部分は精巧に彫刻されて、色鮮やかに塗られています。なかには、薄い純金でおおわれた箱もみつかっています。
この彫刻された箱は、同じように彫刻されたもう1つの箱の中に入れられ、そして3つ目の箱の中に入れられるのです。箱に入れられている間じゅう、僧が神々をたたえる書を読み続け、壁の中にファラオの死体が安置されるまでの準備には70日間もかかりました。
そして、その大きな箱はソリの上に置かれ、奴隷たちがそれを引いていくのです。特別製の船でナイル川を渡って運ばれることもよくありました。
そして最後に、その箱は、ピラミッドか自然岩を掘り抜いた墓の中に入れられ、入口はふさがれるのでした。

 エジプトには、1本の草も木も見えない岩の谷があります。谷の両側は切りたった崖になっていて、砂地には大きな石がごろごろしています。これが、王家の谷なのです。
両側の岩には、ファラオや高官の墓があるのです。これらの壁は、灯油ランプの暗い光で作業者が岩を掘って作ったものでした。それにもかかわらず、墓の壁は非常に巧みに彫刻され、色どられています。
墓の中には、必ず高価な供物が置かれたので、よく盗まれました、ときには、その墓を作った人が盗むこともありました、そこで、王家の谷の狭い入口には、兵士が警備に立たされたのです。エジプト人は盗難予防のために、ファラオの死体をこっそりと他の墓へ移し代えたりもしました。
盗難にあっていない墓をみつけるのはめったにないことでしたが、1922年に、3000年以上も前のままのすばらしい宝物が入った墓が発見されました。それは、若いファラオであったツタンカーメンの墓でした、そして、この発見された数百点の品々の写真が掲載された、すばらしい本が出版されています。

 ツタンカーメンの墓は、まったく偶然に発見されたものです。この基は、他のファラオの壁の下の方にありましたので、上部の墓が盗人に掘り返されたときに、下部の入口が瓦礫で完全に隠されてしまったのでした。
ツタンカーメンの墓が掘り返されたのは、1922年の11月でした。3265年もの間、誰1人として、その中に入った者はいませんでしたので、ファラオといっしょに埋められた宝物は、ほとんど誰にも触れられていない状態で発見されたのでした。
人が死んだ場合、死者はあの世でも、地上で送ったものとまったく同じ人生を送るものとエジプト人は信じていました。そのために、あらゆる必需品が死体といっしょに埋められたのです。ファラオの場合はもちろん、とても豪華に装飾された品々がいっしょに埋められました。家具は金や宝石がちりばめられ、食器や酒杯などは純金で、たいそう美しくデザインされていました。
ツタンカーメンの墓からの宝物は、カイロの博物館にあります、それによって、私たちは、3000年以上も前のエジプト人がどんな生活をしていたか、思いをはせることができます。それらのいくつかは、次ページにのせましたが、全部を示すことできません。この絵を見て、このような物が作られていたとき、イギリスではどのような生活をしていたのか考えてみると不思議な気がします。

 古代エジプト人がどんなに熟練した芸術家であったかは、墓の中の壁画や装飾巻物や家具などを見ればわかります。
エジプト人の美術は、非常に特異なものですから、現代の私たちの目には奇妙に映るかもしれません。それと同時に、エジプト美術は多くの絵の複製を見ればわかりますが、たいへん装飾的なものです。例えば、兵士や奴隷の隊列の1人1人がみな同じように描かれています。また、ほとんどいつも横顔で描かれてもいます、体が正面を向いているときでも、顔だけは横になっていて、目は、つねにまっすぐ前を向いているように描かれています。足は、つねに横向きで、両足とも内側から描かれているのです、これは、たぶんつま先を描かなくてもいいように、そうしたのでしょう。
しかし、エジプト人は、像や遺体を安置する箱である石棺の上に顔を彫刻するときは、たいへん写実的に作りました。
もっとも美しい像の1つに、ネフェルタル王妃の頭部があります。この像は石で作られたもので、写実的に色づけされていて、目はまるで生きているように描かれています。この頭部によって、エジプト人は、もし自然のままに描こうと思えば、描けたことを証明しています。

 エジプトの建築家は、クフ王の巨大なピラミッドを造ったときのように、たいへん正確な測定のもとに建物を造ることができました。というのは、エジプト人は原始的な生活をしていましたが、数学や幾何学を理解していたからです。大英博物館には、数学の問題がいくつか書かれた非常に興味深い巻物が残っています。これらの問題はたいへん実用的なものばかりでした。例えば、畑の面積の測り方とか、図に示されたようなみつばちの巣の形をした穀倉に穀物がどのくらいの量が入るか、などの問題だったのです。
エジプト人は星を研究して、数千年前に暦を作りました、この暦は、現在私たちの使っている暦の基礎になっています。考えようによっては、エジプト人の作った暦の方が、現在の暦よりも実際的かもしれません、なぜなら、毎月の日数が全部同じだからです。
エジプト人も病気になると医者が呼ばれました。呪文と神への祈りと薬草を混ぜ合せたものが治療法でした、当時は現代の薬品などもちろんありませんでしたが、医者は熟練した技術を持っていました。
古代エジプト人の生活は不幸なものではありませんでした。チェスのようなものや、数種の球技もありました。子どもたちはおとぎ話を聞かされ、そのうちの2つ 「シンデレラ」 「40人の盗賊」 の話は、現在の私たちにも引き継がれています。

 古代エジプトといえば、ほとんどの人がクレオパトラを思い出すでしょう。クレオパトラは、たくさんの物語や劇に書かれていますし、シェイクスピアもクレオパトラの劇を書いています。
クレオパトラは、実際には古代エジプトとは、まったく関係ありません。
ラメス時代からおよそ1300年後の紀元前68年に、クレオパトラは生れたといわれています。
この伝記シリーズの他の本で、あなた方はアレキサンダー大王の物語をお読みになったでしょう。アレキサンダーはマケドニア人で、紀元前322年にエジプトを征服した後、部下の将軍だったプトレミーがエジプトの統治者となって、新王朝を発足させたのです。クレオパトラはプトレミーの子孫で、その王朝で最後のエジプト統治者なのです。
クレオパトラは、わずか17歳のときに弟といっしょにエジプト女王となりました、しかし、若い娘のクレオパトラには、国を統治することは簡単ではありませんでした、やがて、クレオパトラは追放されてしまい、シリアに行ってから兵を挙げたのです。クレオパトラの目的は、王位を取り返すことでしたが、ローマ軍を引き連れてエジプトへ来たシーザーが助けてくれました。シーザーとクレオパトラの出会いが、歴史の方向を変えることになります。クレオパトラは弟に王座をわたしましたが、弟が毒殺されてからは、エジプトの単独の統治者となったのでした。

 ジュリアス・シーザーが暗殺されたとき、クレオパトラはローマにいました。クレオパトラは、ローマでは外国人でしたので、ローマ人に好かれませんでした、それでエジプトへ帰ってきたのです。エジプトで、クレオパトラは、ファラオとして豪華な生活をしました。
暗殺されたシーザーのあとは、オクタビアヌスに引き継がれました、オクタビアヌスはシーザーの友人であったマルカス・アントニウスといさかいをし、マルカス・アントニウスはエジプトへ逃亡してしまいました。オクタビアヌスは、ただちにエジプトへ宣戦布告をし、大艦隊を出航させて、アントニウスを打ちほろぼそうと決心したのです。
マルカス・アントニウスもまた大艦隊を持っていましたので、エジプト艦隊と合流したときには、オクタビアヌスよりも大艦隊になりました。アントニウスは、この大艦隊を率いて自信をもって決戦にのぞみました。
アントニウスは、オクタビアヌスよりもすぐれた将軍でしたので、もし陸地で戦えばオクタビアヌスに勝ったかもしれません。しかし、アントニウスは無思慮にも、ギリシアの西海岸の沖合、アクチウムに近いところで対決したのです。この時点でも、アントニウスは、たぶんオクタビアヌスに勝てたかもしれませんが、戦いの最中にクレオパトラの乗っていた船が突然エジプトへ向かってしまったのです、クレオパトラは船に乗って戦いを見守っていました。クレオパトラの他の船も、後を追ってエジプトへ向かってしまい、戦いはエジプト側が負けてしまいました。アントニウスとクレオパトラは、エジプトへ帰りました。

  オクタビアヌスは追撃してアントニウスを殺し、エジプトを征服しようと決心しました。アントニウスは、まだオクタビアヌスを打ち負かすことができたかもしれませんが、フクチウムから逃げ出してきたために、部下から信頼をなくしてしまっていました。
アントニウスは希望を失い、自殺してしまいました、こうして、オクタビアヌスは、アレキサンドリアに進軍しました。ここで、オクタビアヌスは、エジプト宮殿で華麗な生活をしている若くて美しいクレオパトラに会ったのです。
クレオパトラは、たいへん魅力的な賢い女性でしたので、ジュリアス・シーザーとマルカス・アントニウスの2人を、彼女のために戦わせることができました。しかし、オクタビアヌスが自分の言いなりにならないことがわかり、しかもクレオパトラを捕虜としてローマへ連れていくつもりだと知った彼女は、自殺してしまいました。伝説では、クレオパトラは果物かごの中に入れて持ってこさせた毒へびに自分をかませて自殺したと言われています。
エジプトの偉大な文明は、5000年間も続きました、この文明は 「はるかな遠い昔に文明の火をともし、西欧の諸国民に手渡した」 と言われています。ですから、あなたがカレンダーを見るときはいつでも、そのカレンダーは数千年前にエジプトの学者が考え出したものだということを思い出してください。


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