レディバードブックス100点セット
 

 

シーザー

 ローマ人がブリテン島を征服するずっと以前から、人びとは何百年もの間、これらの島々に住んでいました。彼らのなかにはノルウェーとかデンマークとかの北方の国出身の者もいれば、フランスやスペイン出身の者もいました。
これらの人びとは多くの部族に分かれ、各々がその族長を戴いていました。彼らは村に住み、編み技と土の家、すなわち棒や木の枝をねじり合せ、乾いた粘土でおおった家に住んでいました。これらの家はふつうひと部屋で、アシで屋根をふき、炉の上の天井に穴が開けてありました。採光のための小さな穴にはガラスはありませんでしたから、たいへん寒くすき間風が吹きこんだにちがいありません。
人びとは大部分が農夫で、小麦を栽培し、牛を育てていました。農具は鍛冶屋が青銅や鉄で作りました。鍛冶屋はまた、刀や簡単なよろいも作りました。陶工は家庭で使う鉢や容器を作りました。
男も女も羊毛で作った鮮明な色の服を着て、族長の妻や娘たちは、金の腕輪やネックレスを身につけていました、それらのものは、国のあちこちの博物館で今日でも見ることができます。

 海辺に住んでいたブリトン人は、農夫であると同時に漁師でもありました、彼らはみな川で魚をとりました、川は今よりはずっときれいでした。
漁師たちが使ったボートはかご舟と呼ばれました。かご舟は、今日使われているボートとはまるで違いますが、もっともウェールズの一部では、同じようなボートが今日でも使われています。
ブリトン人のかご舟は、柳の枝を編んで大きな浅いかごのようにしたものです。このかごは外側を獣の毛皮でおおい、松やにとか他の木の樹脂で防水をほどこされました。この小さな舟はとても軽く、猟師は自分の家から湖や川まで、舟をたやすく運ぶことができました。
かご舟は丸くて平らだったので、てんぷくしにくく、荒れた海上でも、今日のボートより安全でした。アイルランドの西岸では、かご舟が大ブラスケット島の人びとによって、今日でもブラスケット湾をわたるのに使われていて、難破した例は一度もないと言われています。

 ブリテン島に住んでいた人びとは、ローマ人がブリテン島を征服するまでは、ヨーロッパ大陸とほとんど関係がありませんでした。ブリテン島とフランスの間の海は、ブラスケット湾よりもはるかに広かったのです。そして、ほんの少数のたいへん勇敢な船乗りたちだけが、ブリテン島で作った品物を売ったり、フランスの当時の呼び名であるゴールの人びとから品物を買ったりするために、その海を渡ったのでした。
やがて、キリスト誕生の55年前に、ローマの偉大な将軍ジュリアス・シーザーが、海を越えて彼の軍団をブリテン島に派遣しようと決めました。
彼がブリテン島をローマ帝国の一部にするつもりであったかどうかは疑問です。たぶん彼は、それが征服するにあたいするかどうか見たいと思っただけだったのでしょう。
シーザーが80そうの船に約1万2000人の兵隊を乗せてブリテン島にやってきたのは、紀元前55年の8月のことでした。彼らは、現在のディールのあたりの沖合に到着しました、しかし、ローマの兵隊は、ブリトン人たちがやりや刀を持ち、戦車もくり出して、ローマ人が上陸したら戦おうと待ちかまえているのを見ると、船から出ようとしませんでした。
すると、第十軍団の旗手が海に飛びこみ、兵隊たちに後に続けと呼びかけました。軍旗がブリトン人に奪われるのを恐れて、兵隊たちは群がって上陸し、ブリトン人は敗れました。

 紀元前55年には、ローマ人はブリテン島にそんなに長くはとどまりませんでした、しかし、その翌年、ジュリアス・シーザーは再びやってきました。こんど彼は、7月に、前よりも多くの軍隊をひきいてブリテン島を征服しようという決意を固めてやってきたのです。
ローマの軍隊は、前年とほとんど同じ場所に上陸し、今日のロンドンに位置するあたりに向かって北西へと進軍しました。ブリトン人は、あるいは戦車に乗り、あるいは徒歩で彼らを攻撃しました、しかし、ローマ人はよりすぐれた武器と甲冑を持ち、はるかによく訓練されていたのです。ブリトン人は彼らの進軍を止めることができませんでした。
シーザーとその軍隊は、ロンドンの少し北にある浅瀬のところでテームズ川を渡り、さらに北西に軍を進めて、カシヴローニ家が守るブリトンの要塞に達しました。これはカシヴローナスと呼ばれる族長が治めるたいへん強力な部族で、彼はブリテン島の東南部の王となっていました。
シーザーの軍隊は、今日我々がセント・オールバンズと呼んでいる町のあたりにあったとりでを占領しました。
カシヴローナスはシーザーに降伏し、彼に人質をさし出しました。これは、シーザーがブリトンの重要人物を何人かローマに連れ帰り、ローマ人が去った後に、もしもカシヴローナスが反逆すれば、その人たちは殺されるということなのです。

 カシヴローナスの敗北の後100年間、ローマ人はブリデン島をほうっておきました。ブリトンの支配者はローマにみつぎものをすることになっていましたが、しばしばみつぎものは送られませんでした。そして、ローマ人はそれを集めるのに軍隊を送るほどの価値はないと思っていました。
やがて西暦43年になると、ローマ皇帝クローディアスは、再びブリテン島全土を征服しようと、4万人の兵士とともにオーラス・ブローチィウスという名の将軍を派遺しました。ブリトン人は迎え撃ちましたが、訓練されたローマ軍隊の敵ではありませんでした。テームズ川の渡河がローマ軍を阻止しましたが、それも長いことではありませんでした、そして、まもなく、ブリテン島の南部はすべて征服されました。
ローマ人はたいへん実際的な国民でした。彼らがブリテン島において最初にしたことは、兵隊や糧食を陸にあげるための港を作り、それを要塞化することでした。これらの港から立派なローマ道路が、長くまっすぐにロンドンへと通じました。
これらの港のひとつはローマ人によってルウトピイアエと呼ばれ、現在リッチボローと呼ばれている町です。ここで現存しているローマ人のとりでの一部と、.ワットリング・ストリートとして知られるローマ道路の始点を見ることができます、ワットリング・ストリートはイングランドを縦断してローマ人がデヴァと呼んでいたチェスターに達しています。

 ローマ人がブリテン島を占領していましたが、屈伏するのを拒否して森や沼地にかくれたブリトンの男女も大勢いました。これらの人びとは勇猛な戦士で、かくれ場所から忍びでて、小さなローマ人のとりでや前哨をよく攻撃しました。そして、ローマ人が増援隊を派遣すると、彼らはふたたびローマ人にはみつからない森の中へと逃げこむのでした。
もっとも勇敢で、かつ、もっとも有名なブリトン人の戦士のひとりはキャラクタカスと呼ばれていました。彼は、可能なところではどこでも人びとを集めました、そしてタキトゥスというローマの歴史家が書いているように 「多くの戦闘に勝利を収めて、ブリトンの他の将軍たちよりも、はるかにその名を高めた」 のです。
徐々にローマ人は、キャラクタカスとその部下を西の方ウェールスの山岳地帯に追いつめました。現在のチャーチ・ストレットンの近くの戦いで敗北すると、彼はヨークシャーのブリガンツと呼ばれるブリトン人部族のもとに逃げ去りました。
しかし、ブリガンツの女王は裏切って彼をローマ人の手に渡しました。彼らは、今なおローマ帝国に敵対して戦っているブリトン人たちの指導者を捕えて、大いに喜びました。

 ローマ人は戦争に勝ったり、新しい国を征服したりすると、いわゆる 「凱旋式」 を行いました。これはローマの街路を行進することで、そのときには勝利を収めた将軍とその軍隊にかっさいを送るため、だれもが歩道に群がりました。
軍隊に加えて、この凱旋の行進には戦いで捕えられた捕りょも含まれていました、彼らの多くは後日殺されるか、奴隷として売られました。敵からぶんどったあらゆる種類の宝物を山と積んだ大きな荷車が、そのショーの一部でした。ラッパのひびき、群衆のかっさいの声、行進する兵士の足音が、大広場にこだましたにちがいありません。
行進の中心人物は、常に勝利を得た将軍でした。彼は征服者の月桂樹の冠をいただき、ぜいたくに飾られた戦車に乗りました。そして、いつも彼のわきには、「忘れてはいけません、将軍、あなたは不死ではありません」 と、ときどき彼にささやきかけるのが務めである奴隷がいました。これは、いくら大群衆にかっさいを送られても、将軍がおごりたかぶらないようにという配慮からでした。
キャラクタカスは、ブリテン島の征服の後に行われた 「凱旋式」 のなかの、主要な捕りょでした。鎖につながれてローマの町並を行進しながら、彼は二度と見ることのない遠い故国をなつかしく思い出したにちがいありません。

 ローマ人は350年にわたってブリテン島にとどまり、その間に多くの町を建設しました。不思議なことに、ロンドンは初期のローマ統治時代には主要な町ではありませんでした。ブリテン島を統治するための最初の首都はコルチェスターでした。
これらの町の多くは、大きいものでした。セント・オールバンズの城壁は周囲が2マイルあり、その面積は200エーカーありました。セント・オールバンズのローマ名はヴェルラミアム、またはヴェルラムでしたが、我々は、後年になってその遺跡に建設されたイギリスの町の名前から、ローマ人の町があったのを知ることが多いのです。おしまいがチェスターとかカスターとなっている近代都市、たとえばドーチェスターとかランカスターなどは、かつてローマ人の町でした、なぜならば、これらの語尾は野営地とか要塞を意味するラテン語、カストラに由来するからです。
大きな町には、大きな半円形の石造りの席を持った屋根のない劇場がたいていありました。ヨークとかカーリアンとかのような、軍団が駐屯していた町は、ローマのコロシアムに似ていますが、それよりは小規模で、土手の上に建てられた円形競技場がありました。ここであらゆる種類の競技が行われ、兵隊たちの軍事訓練が行なわれました。

 ブリトンの部族はローマ人の支配の下で、みんなが静かに落ち着いていたわけでありません。なかには、他の部族よりも戦争好きな部族もいました、そして、これらのうちのひとつは、現在のノーフォークに住んでいた、アイシーナイ族でした。その当時、イングランドのこの地方は沼地におおわれていて、ローマの軍隊は完全にそれを征服できませんでした。
ローマ軍の侵攻の後20年たたないうちに、アイシーナイの人たちは彼らの戦争好きな女王ボウディシアの下で反乱を起しました。彼らはローマの兵隊や収税吏にたいへんひどい取り扱いをうけていたので、存分に復しゅうしようと決心していたのです。
ボウディシアが何千人という戦士たちと、まずローマの町コルチェスターを、そしてその直後に、ロンドンおよびセント・オールバンズを破壊したとき、ローマの軍隊は遠く北ウェールズで戦っていました。これらの町々は灰塵に帰し、そこのすべての人たちは殺されました。
ローマ人たちは最善をつくしました。ローマ軍の十軍団がリンカーンにあり、アイシーナイの反乱の知らせがその指揮官に届くと、彼は2000人のローマ兵とともに南に向かって進軍しました。しかし、ボウディシアはその指揮下に約10万のブリトン人を従えており、ローマ軍は指揮官とわずかの騎馬兵が逃げられただけでした。

 その当時、ブリテン島のローマ人総督は、スートニアスという名の有名な軍人でした。彼はウェールズ人との戦いの最中でしたが、できるだけ早くイングランドにもどってポウディシアとアイシーナイの人たちを攻撃しなければならないと決心しました。
彼は約1万人の訓練をつんだローマ兵を従えていました、そして、ボウディシアはその10倍の兵力を持っていましたが、スートニアスはローマ軍の訓練と規律が彼に勝利をもたらすであろうことを疑いませんでした。
そこで彼はロンドンに向けて進軍し、最初はロンドンを救おうと騎兵隊とともに先行しました。彼はその攻撃に失敗すると、進軍中の彼の軍隊に再び合流しました。
戦闘が、どこで行われたのかはだれにもわかりません、しかし、スートニアスは両側を森に守られた丘の斜面に彼の軍隊を集合させました。ブリトン人は、ローマ人がわなにはまって、そこから出られないのだと思い、彼らを攻撃しようとして2つの森の間に殺到しました。
ボウディシアの軍隊が混み合って武器も使えなくなったまさにそのときに、ローマ人は攻撃を加え、ブリトン人は決定的な敗北を喫したのです。
丘の頂上で、アグリカラという名前の若いローマ人将校が、スートニアスといっしょに戦闘を見守っていました、アグリカラは後年、ブリチン島を治めた最良のローマ人総督となりました。

 ブリテン島がローマ人によって征服されていた時代には、このブリテンの島々に住んでいた人びとはキリスト教徒ではありませんでした。彼らは国内のさまざまな地方で多くの異教の神々を崇拝していました、一地方の神はその部族のいる地域外ではまったく知られないことがしばしばでした。
これらの神は、ディーンの森の狩猟の神ノウデンスとか、ダーラムのウェア川の神コンダディスという名前を持っていました。
人びとの宗教的指導者はドゥルイド僧と呼ばれ、彼らは学問があるばかりではなく、たいへん力も持っていました。ローマ人は彼らがローマに対する反逆心をかきたてるためにその力を使っているのを知り、彼らをみんな殺すべきだと決めました。ドゥルイド僧たちは、ブリテン島の多くの部分をおおっている深い森の中の空地に住み、そこで集会を開いていたので、彼らをみな殺しにすることは、容易なことではありませんでした。
ドゥルイド僧の大部分は、北ウェールズの沖合にあるアングルセイ島に住んでいました。そこで、スートニアスは、ローマ人がモナと呼んでいたアングルセイ島を占領して、ドゥルイド僧の力を永久に抹殺しようと決めたのでした。
これを実行するために、彼はメナイ海峡を渡らなければなりませんでした、彼の騎兵隊は馬で泳ぎ渡り、歩兵はいかだを組んで渡りました。ドゥルイド僧たちは厳しく戦いましたが、みんな滅ぼされてしまいました。

 若い将校アグリカラは、ブリテン島の人びとを治める唯一の方法は彼らと友人になることだと悟りました。
そこでアグリカラはブリテン島を広く旅行し、さまざまな部族出身のあらゆる種類の人びとと会い、彼らと話を交しました。彼は常に彼らがなにを考え、なにを欲しているのかを見いだそうと努めたのです、そして後年、彼がブリテン島の総督に就任したとき、彼は他のどのローマ人よりもブリトンの人びとについてよく知っていました。
ごく最近征服したばかりの人びとと親しくなるのは、ローマ人にとって容易なことではありませんでした、ブリトン人のなかには、ボウディシアがローマ人をブリテン島の外に追い払ってくれることを望んでいる人びとも多かったのです。アグリカラはこのことを認識していました。そして彼がとった方法は、この国の多くの部分をおおっている大きな森へ、ブリトン人のガイドや猟師たちといっしょに狩猟にいくことでした。
これらの森には、熊やどう猛な狼の群れなどの野獣がたくさんいました。これらの野獣は羊や牛にとって危険だったので、ブリトン人はそれらが狩られたり殺されたりするのを見て喜びました。アグリカラがブリトンの人びとをほんとうに知り、理解するようになったのは、1日の狩猟の後で野営のたきびにあたりながらであったことでしょう。

 アグリカラは若い将校として、その軍務を遂行して、約2年間ブリテン島にとどまりました。それから彼はローマにもどり、ローマの慣習に従って、つぎの10年間を、ローマ帝国を統治する法律と方法を学んで過ごしました。
彼がブリテン島にもどってきたとき、彼はもはや若い将校ではなく、統治の技術を知りつくした経験豊かな軍人でした。彼は今や有名なブリテン島駐屯の第20軍団を指揮することになっていたのです。
これは西暦70年のことで、ローマ人がブリテン島に駐留してから約30年たっていました。ブリトン人のなかには、自分たちの国が自由であった時代を忘れ去ってしまったものも多く、彼らにはブリトンの王や隊長によってではなく、ローマから派遺された総督によって統治されることが、至極自然なことに思われました。
ブリテン島にはまだローマの軍隊が3軍団駐留していましたが、今はすべてが平静で、兵隊たちはその大部分の時間をスポーツや円形競技場における競技を楽しんで過しました。
アグリカラは、ローマ人の支配を憎んでいる年輩のブリトン人がまだたくさんいることを知っていました、そして、新しい司令官は、兵隊がその軍務をないがしろにすることを決して許さないことを、第20軍団の兵隊たちはすぐに知ることになります。

 プリテン島は今ではかなり平和でしたが、ローマ人たちはどこかの部族がいつ反逆してもおかしくないことを知っていました。そこで、彼らは多くの地方にとりでを作り、そこに兵隊の小集団を配置しました。
どこからも遠く離れ、丘に囲まれた中の小さなとりでに住むことは、ローマの兵隊たちにとって、たいへん退屈なことだったにちがいありません。
さらに悪いことに、ローマ人たちはイタリアの日光になれていたのです、したがって、ブリテン島北部の長く寒い霧の深い冬は、彼らをたいへんみじめにしたにちがいありません。
ローマの兵隊たちの多くは、南イタリアあるいは近東の出身で、雪や氷になれていませんでした。吹雪が北東から吹き荒れるなかを、ローマ人のとりでの胸壁で歩哨任務につくことを、彼らがどんなに嫌ったことか、私たちにも想像がつきます。
彼らが任務についていないときでも、事情はあまりかわりませんでした。裕福なローマ人がブリテン島南部に建てた家にはセントラル・ヒーティングがあり、窓にはガラスがはいってありましたが、北部山岳地方の小さなとりでには、そのどちらもなかったのです。体がぬれて寒い兵隊たちには、暖をとるための炭火しかなかったのです。

 ローマの兵隊たちは、国のあちこちにある駐屯地のとりでに配置されていただけだと考えるのは誤りです。プリデン島においてしなければならないことはたくさんありました。例をあげれば、ローマ人たちがやってきたときには、ちゃんとした道路はなかったのです。
イギリスの現在の地図を見れば、りっぱな幹線道路がひとつの町から他の町へと、たいてい長くまっすぐに、国じゅうを縦横に走っているのがわかります。たとえば、ドーヴァー海峡の近くからはじまり、ロンドンを経て、国の中心部を通ってチェスターに至る259マイルの長さを持つワットリング・ストリートとして知られる道路があります。これはローマ人によって建設され、今日でもなお使われている道路のひとつです。
ローマ人はどこへ行っても、道路を作りました。彼らが北アフリカや近東ばかりでなく西ヨーロッパも征服したとき、軍団がひとつの場所からつぎの場所へと進軍するための道路が必要だったのです。ローマ帝国の交易も、この道路を通じておこなわれました。
ローマ道路はほとんど軍団の兵隊たちによって建設され、実によくできていました。土が固く突き固められ、粘土と石が3フィートか4フィートの厚さになるように、交互に何層も敷かれました。道路は一番上の層に石を敷くと完成で、排水のために道路の両側に溝が掘られました。

 アグリカラが3度目にブリテン島にもどってきたときは、彼はローマの総督としてやってきました。
彼はローマのガレー船でゴールから海を渡ってきたのでした。ガレー船は50〜60フィートの長さで、両側にオールが並んでいました。オールを漕ぐのは奴隷で、彼らがその席に鎖でつながれていることがしばしばでした。
その船には1つか2つの大きな帆もあり、その帆はたいてい鮮やかな色と模様が染められていました。
アグリカラはブリデン島に着いたとき、36年前オーラス・ブローディウスが作った荷揚げ場とはまるで異なったにぎわう港町を発見したことでしょう。
これはたぶん、私たちがリッチボローと呼んでいるルツピアエの港町であったと思われます。ここでアグリカラは彼の船を停泊させるりっぱな波止場を見たでしょう。この波止場には、貨物やたるや、世界じゅうから送られてきたあらゆる種類の商品が積みあげられていたことでしょう。奴隷、ブリトン人、ローマの兵隊、アフリカから連れてこられた黒人たちが、積荷を動かしたり、クレーンを操作したり、赤いかわらの屋根の石造りの倉庫に品物を入れたりして働いていたことでしょう。
そのまん中には、真ちゅうのよろいや深紅の上着を身につけた兵隊たちが新総督を出迎えるために整列していて、それはにぎやかな光景であったことと思われます。

 アグリカラは西暦78年に全ブリテン島の総督になりました。それから7年間、ブリテン島は後に先にも例を見ないほどよく統治されました。
幸いにも、アグリカラ統治時代のブリテン島に関して多くのことがわかっています、アグリカラの娘と結婚したタキトゥスが、そのことについて本を書いているからです。この本のなかで、彼はアグリカラの統治の仕方についても書いています。つぎは、彼の言葉をローマ人の言語であるラテン語から英語に訳したものです。
「アグリカラは、公の仕事はどんなことでも奴隷の手にゆだねたままに放っておくことはなかった。彼は個人的な好き嫌いに影響されることなく、もっとも忠実であると思われる最良の人物を選んだ。彼はなんでも知っていたが、なかには気づかないふりをして見逃して満足していることもあった。彼は小さな過失は許したが、大きな誤りにはきびしかった。しかも、違反者を常に罰したわけでなく、ざんげすれば、それでよしとしたこともしばしばであった。彼は総督としての最初の年に公正な政治をし、りっぱな法律の下では、ローマ人に反逆するよりは彼らと平和に暮す方が良いのだということを人びとに理解させた」
アグリカラが、ブリテン島を治めた最良のローマ人総督であると考えられたのは、当然のことでした。

 西暦80年までには、イングランドのほとんど全土とウェールズの大部分はローマ人によって征服され、平定されました。しかし、ツウィード川の北のスコットランドの山岳地帯にはピクトとして知られる野蛮な部族が残っていました。
もしも彼らがブリテン島を平和なままにしておくのに満足していたならば、アグリカラもこれらの部族に手をふれないでいたことでしょう。しかし実際はそうではありませんでした。多数のこれら野蛮なピクト族が時おり南下してきたのです。そこでアグリカラは、全軍をひきいて彼らと戦おうと決意しました。
ローマ軍はヨークを出発して、国境を越え、北を指してスコットランドへと進軍しました。彼らは進軍の途中でとりでを作り、そのとりでの中に守備隊を、1、2年はもちこたえられる食物と共に置いていきました。彼らは進撃を続け、その途中でピクト族と戦い、彼らを打ち破りました。
4年の間戦闘は続きました。3年目には、アグリカラの軍隊は、陸にいる軍隊と接触を保ちつつ海岸を進んできたローマ艦隊の支援を受けました。
もしもローマ皇帝ドミディアヌスが、彼の勝利に嫉妬を感じて彼をローマに呼びもどしていなければ、アグリカラがスコットランド全土を征服したことばまちがいないでしょう。

 アグリカラは西暦84年にブリテン島を去り、二度ともどりませんでした。その後325年の間、ブリテン島は、ローマ人の総督によって統治され、ローマの軍団によって守られる、ローマの属国でした。この間、平和な時期が長く続き、ブリテン島は道路や町や村のある文明国となりました。
イングランドの南部には裕福なローマ人やブリトン人の別荘がたくさん建てられました。そういう別荘は大きな農家で、手のこんだ浴室に水道が引かれました。南部ほどひらけていない北部には、このような別荘は少なく、町はツウィード川以北の部族から守るために十分に要塞化されていました。今やアグリカラが去ってしまったので、ピクト族たちは南の平和な土地にふたたび侵入してきたのでした。
ピクト族たちは、ローマ人居留地を襲撃しにくるときだけきたのではありません。ときには、商売をしにやってくることもありました、ローマ人たちは、猟犬やスコットランド産のじょうぶな小馬を喜んで買いました。
ピクト族たちが猛犬を連れ、自分たちも毛皮を着て犬と同じくらいどう猛で毛むくじゃらな様子をし、髪の毛やひげをのび放題にして到着したときには、ローマのとりでの城壁の外ではにぎやかな光景が見られたことでしょう。

 アグリカラがブリテン島を去って38年後に、偉大なローマ皇帝ハドリアンがこの島にやってきました。彼は大の旅行家で、ローマ帝国のどこへ行っても、その国境地帯を強化しました。
その数年前、ブリデン島北部に大反乱が起こりました。スコットランドの国境の南北にまたがって住むカレドニアンとブリガンという2つの大部族が反逆して蜂起し、ヨークに駐屯していた第9軍団を殺りくしたのです。生存者は1人もいませんでした。
その反乱は鎮圧されました、しかしハドリアンは将来ピクト族たちが国境を越えて平和なブリテンに侵入することを、さらに困難にしなければならないと決意しました。そこで彼は、ローマの3軍団 (第2、第6、第20軍団) の兵隊たち約2万人を、ニューカースルからカーライルまで国土を横断する大国境城壁を建設する仕事に従事させました、その長くのびた城壁は今日でも見ることができます。7年かかってその城壁は完成しました。
ハドリアンの城壁は、長さは73マイル、厚さは7〜10フィート、高さは16〜20フィートありました。それは石で作られていて、各々が約4マイル離れているとりでをつないでいたのです。1マイルごとに100人の兵士を収容できる堅固な塔があり、3分の1マイルごとに信号塔がありました。それはローマの辺境警備の要塞のなかで最強のものでした。

 ローマのブリテン占領が続いた間、何十万トンもの商品や軍用物資が、ブリテンの島々とヨーロッパ大陸をつなぐ港町を通りました。
ブリテンのにぎやかな港町は、石の波止場と倉庫を備え、うまく建設されていました。船倉から積荷を陸揚げするために、人力で動かす大きなクレーンがありました、りっぱなローマ道路を通って顧客に品物を輸送しようと、荷馬車も列をなして並んでいたことでしょう。
当時の船は現在では小さく見えることでしょう。それらはもちろん帆船で、風がおだやかなとき走行を助けるために、こぎ手の席もありました。
帆は鮮やかな模様に染められていて、船体そのものも塗料が塗られ美しく飾られていました。彫刻が施され色が塗られた高い船首と船尾は、積荷をおろしている間、石の波止場高くそびえていました。
乗組員たちの肌の色はさまざまで、彼らが話す言語もさまざまだったでしょう。アラビア人、黒人、ギリシア人、フェニキア人、スペイン人、カルタゴ人、ローマ人と、彼らはロンドンからコンスタンチノープルにいたる、あらゆるところから来ていたことでしょう。ブリテンのなかのローマの港は色とりどりで騒がしく、国際的でにぎやかでした。

 城壁の南の平和なブリテンにおいては、何千人もの人びとが、今日と同じように学校へ通ったり、働いたり、家事をしたり買物をしたりして暮していました。
ローマ領のブリトンの小さな町の店は、ふつう、大通りが交差する町の中心にある大広場をとりまいて並んでいました。これらの店には、今日の店のような大きなガラス窓はありませんでした。事実、それらはたいへん簡素で、まったく同じような店が今日でもローマの裏通りには見かけられます。それらは前面の壁に大きな四角の入口のあるふつうの家屋でした。
この入口に石造りのカウンターがあり、そのうしろに店の主人が立っていました。お客は通りに立っていたのです。
店にはあらゆる種類がありました。肉屋やパン屋や乾物屋はもちろんのこと、靴屋やかじ屋や大工や宝石店もありました。仕立て屋や革細工師がカウンターのうしろで働いていたし、いたるところで商人が品物を買ってくれと通行人に呼びかけていたことでしょう。
お客も商人たちと同様に変化に富んでいたと思われます。粗末な羊毛の服を着たブリトン人、深紅の服やよろいを着た兵隊、優雅なドレスやマントを身につけた婦人、トーガをまとった男、短いシャツを着た奴隷などがどこにでもいました。それはにぎやかな光景でした。

 ローマ人の町は、その大きさにかかわらず、社交の中心は浴場を備えた大きな建物でした。浴場はふつう大広場の一角を占めており、温水、冷水の浴室に加えて、法廷や役場や学校や体育館などもはいっていました。
ローマ人たちは身体を清潔にしておくのは良いことだと思っていたのです。彼らはすばらしい浴場を建てて、1日に2、3回風呂に入りました。そして若いローマ人たちは、入浴後はいつも、ボクシングやレスリングやあらゆる種類の運動を練習するために大体育館へ行くのでした。
同時に、ローマ式の体育館は単なる運動のための場以上のものでした。多くの商取引、いわゆる株の売買がそのなかで行われ、ほとんど株式取引所としての働きをしたのです。
この大きな建物の中には、ローマ人が食べ物や飲み物を買うことができる場所もありました。事実、ローマ市民たちは朝浴場へ行って、少しの時間もむだにすることなく、1日じゅう忙しくそのなかで過ごすことができたのでした。

  ブリテン島のなかのローマの町は、常に同じ設計に従って建設されました。まわりを柱廊でとり囲んだ大広場からはじまり、町のその他の通りはチェス盤のようにすべて直角に交差するように作られました。これらの通りに沿って人びとの住む家がありました。
ローマの大広場のなかの建物はすべて白大理石でできていて、イタリアの太陽の光のなかでまぶしく見えたにちがいありません。ここブリテンには、大理石でできている建物はほとんどなかったと思われます。家はたいてい石でできていて、しっくいを塗ったり、ペンキを塗ったりしてあり、屋根は大きな赤いかわらぶきでした。
大通りは、歩道と側溝があって、広くてよくできており、ロンドンやセント・オールバンズのような町では、日中はいつも混雑していたことでしょう。セント・オールバンズはワットリング・ストリートという幹線道路沿いにあり、町のまん中をその道路が通っていました。それで、町の人びとは、町のふつうの往来に加えて、兵隊たちがチェスターに駐留する軍団に合流するために長い行軍に出発したり、ヨークやハドリアンの城壁に向けて出発したりするのを見たのでしょう。
軍団という確実な盾のうしろでブリテンが安全であることを知っていたので、町の人びとは満足し、平和のうちに暮していたにちがいありません。


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