レディバードブックス100点セット
 

 

ネルソン

 ネルソンがトラファルガーで戦死したとの報がイギリスに届くと、国じゅうが深い悲しみに包まれ、偉大な人を失ったという思いに満たされました。イギリス全土が偉大な国民的英雄の死をいたみました。ふだんは騒がしい波止場の居酒屋でも、船乗りたちは無言だったり、低い声で話しました。目に涙を浮かべていた人たちも大勢いました。
7人の大公が国葬に出席し、棺は6人もの提督によって運ばれました、一方、何千人もの人びとが、セント・ポール寺院の中の最後の休息地への道筋に並びました。
イギリス人の心の中にこのような感情を起させるどんなものが、ネルソンにあったのでしょうか。
まず、彼が生きた時代は、イギリスにとって非常な不安と危険の時代でした。イギリスはフランスによる侵略の脅威にさらされていたのです。ヨーロッパのほとんど全土が、ナポレオン・ボナパルトの戦略軍の手に落ちてしまっていました。陸上ではどこでもフランス軍は負けを知らず、海上においてのみ、彼らはその好敵手に出会いました。はなばなしい海戦で、いくども彼らを打ち負かしたのは、ネルソンでした。ついには、トラファルガーの海戦において、フランスとスペインの連合艦隊は完全に打ち破られ、ナポレオンのイギリス侵略の機会は永久に失われたのでした。
ネルソンの船乗りとしての生活は、ごく若いときにはじまりました。彼が少年時代を過した家を出て、叔父の船、レーンナブル号に乗り、士官候補生となったのは、わずか12歳のときでした。その船は64門の砲を持ち、チャタムに停泊していました。彼の叔父が警備艦トライアンフ号(これもチャタムを根拠地にしていました) に転任したとき、彼は甥も連れていきました。

 ホレイショ・ネルソンは、ノーフォークのバーンハム村の教区牧師、エドモンド・ネルソン師の五男として、1758年に生れました。
少年が、イギリス海軍の軍艦の一隻の艦長である叔父を持っていたことは幸運でした、彼の権勢がなければ、当時の船における生活は非常につらいものになったことでしょう。彼の叔父が最初にしたことのひとつは、ホレイショを商船に乗せて、西インド諸島への長い航海に送り出すことでした。これは彼に航海の経験を与えるためでした、トライアンフ号のように港に停泊している船に乗っていては、航海の経験を得ることはできなかったでしょう。
彼は航海から帰ってくると、ノア川とロンドンのテムズ川の間を航行するボートの指揮官につけられました。彼は14歳になったばかりでした。

 潮の干満のある河口で航海の巧妙な技術をマスターすることは、若い士官候補生にとって実際的な航海術のよい訓練でした。
次に、彼は船長用のボートのかじ取りとして、北極圏の探険隊に加わることを許されました。その航海の間に、彼は最初の冒険をしたといわれています。船が氷に閉じこめられていたとき、彼は北極熊に遭遇しました、そして、いかにも少年らしく、記念品としてその毛皮を手に入れてやろうと決心したのでした。不運にも、彼のマスケット銃は不発に終り、彼は前進して銃の台尻で熊を攻撃しようとしました。
幸い、彼の苦境を見た人がいて、船から銃が発射されました。熊は立ち去りました、若いホレイショは、お父さんのために熊の毛皮を手に入れたかっただけだと言いながらもどってきました。

 ネルソンの次の航海は、20門の砲を持つシーホース号に乗り組んで、東インド諸島へ行くことでした、しかし、そこにいる間に彼は熱帯病にかかり、故国に送還されました。
彼の病気はとても重く、彼はもう生きようと死のうとどうでもいいという気持になりました。彼自身は次のように言っています 「私は海に投げられたいと思ったほどだった。しかし突然、燃えるような愛国心が私の心に芽生えた。私は叫んだ、私は英雄になるのだ、そして、神を信じて危険をひとつひとつ乗り越えていくのだ」 ネルソンはその決意を死ぬまで持ち続けたのでした。
彼は健康をとりもどすとすぐに、西インド諸島に向かう船に乗船を命ぜられました。彼は今や18歳で、6年間海上勤務をし、そのうち少なくとも2年間は英国軍の士官候補生として勤務したので、1777年4月に海軍大尉に任じられました。
彼の艦長はウィリアム・ロッカーという名の著名な将校で、若い海軍大尉の親友となりました。ネルソンが後年戦いの合図として採用したのは 「フランス人を近づけろ、そうすれば勝てる」 という彼の助言でした。 
ネルソンはその挙動が魅力的であったばかりでなく、熱意、勇気、海軍軍人としての適性も持っていたので、若い将校のなかで格別に目立つ存在でした。
ロッカー艦長に仕えた後、彼は司令長官の旗艦に転任し、1779年6月11日には大佐艦長に昇進しました。
彼は21歳の誕生日まで、あと4か月という若さでした。

 ブリゲート艦の艦長として、ネルソンは中米のスペイン領土に対する水陸両面からの攻撃の際、目立つ役割を果しました。彼は部下を率いて小さなボートで川をさかのぼりました、しかし、ちょうど熱帯雨の時期で、部隊はジャングル戦向きの準備をしていませんでした。黄熱病の犠牲者が多数でました。200人の部下のうち、生き残ったのはわずか10人でした。ネルソン自身も重病となり、健康を回復するために、ふたたび英国に送還されました。
海上勤務にもどると、彼はまず北アメリカで勤務し、次にふたたび西インド諸島に行けとの命令を受けました。これは、ネルソンにとって困難な時期でした。彼の任務は、その島の人びとが、今や独立したアメリカ合衆国の旧植民地者と、彼らがまだ大英帝国の臣民であるかのように貿易しているのを阻止することでした。事実、貿易は双方の国にとって利益があがることでしたので、法律を適用しようとして、ネルソンはほとんどすべての人の不評をこうむりました。
陸上における彼の友人はニーヴィス島のハーバート氏と、彼の姪で5歳の息子を持つ未亡人、フランシス・ネスビット夫人だけでした。女性との交際に飢えていた孤独な若い大佐は彼女と恋に落ち、2年間交際した後、2人は1787年に結婚しました。
そのすぐ後に、ネルソンはイギリスに向けて出港しました、イギリスでは平和が宣言されていて、船は役目を解かれ、彼は減給になり、年50ポンドの給与を支払われることになりました。

 その後6年間の平和な期間を、ネルソンとその家族は、ノーフォーク州の牧師館で過しました。やがて1793年にフランスとの戦争が起ると、ネルソンは艦隊の64門の砲を持つ船アガメムノンの指揮官の地位を与えられ、地中海艦隊に加わるようにと命令されました。
アガメムノン号は左右に各32門の砲を持つ甲板が2つある船でした、そして、戦線にある、より大きな船とも戦えるほど強力でした。それはネルソンが乗った最初の大きな船でした。
地中海における彼の最初の仕事は、当時は独立国であったナポリへ行き、対フランス戦の援助を求めることでした。そこで彼は、はじめて英国大使ウィリアム・ハミルトン卿と、その妻の美しいハミルトン夫人に会いました。彼女は彼の人生の後半生に、重要な役割を演じることになります。
一方、大英帝国は地中海の基地と艦船のための港を緊急に必要としていました、そして、当時フランス軍がおさえていたコルシカ島を占領しようと決定しました。
ネルソンは彼らの要塞を攻撃した際、目ざましい働きをしました、そして、彼がカルヴィーで砲兵中隊の指揮をとっていたとき、フランス軍の弾丸が彼の近くの地面にさく裂したのです。石の破片が彼の顔に当り、彼は右眼の視力を失いました。
片眼を失明したことは、大望を持つ若い海軍大佐にとって大きな打撃でした、しかし、ネルソンはすぐに気を取り直しました。

 翌年早々に、17隻から成るフランス艦隊がコルシカ島を取りもどそうとして、ツーロン港を出港しました。しかし、水平線上に14隻の英国艦隊を認めると、フランス艦隊は針路を変えてツーロン港に逃げこもうとしました。向きを変えようとした際、彼らの最大の艦の1隻サ・イラ号は他の艦と衝突して、マストの一部を折りました。
近くにいた英海軍のフリゲート艦が攻撃をしかけました、しかし、サ・イラ号を曳航していたフランスの大艦に追い払われました。船足の速いアガメムノン号に乗っていたネルソンは、すでに仲間の艦船よりもはるか先に進んでいました、そして、マストが折れたフランス艦に近づくと、砲火を浴びせました。
敵艦から返ってくる砲火を避けようと、自分の艦を非常にじょうずに操りながら、彼は敵艦に次から次へと一斉射撃を浴びせました。ついに400人以上が戦死し、敵艦は軍旗を下ろして降服しました。もう1隻の艦も捕えましたが、残りのフランス艦隊は逃げ去りました。
これはネルソンの最初の艦隊での働きでした、そして、彼の豪勇と成功は戦う大佐としての彼の名声を高めました。
地中海艦隊に新任の司令長官が発令されました。それはジョン・ジャーヴィス提督でネルソンの心にかなった人でした。ネルソンの長所をすぐ認めて、若い大佐を代将に昇進させたのは彼でした。
戦局は英国軍に不利でした、そしてスペインがナポレオン軍に加わっていたので、劣勢の英国艦隊は地中海から撤退しなければなりませんでした。

 エルバ島からの撤退を助けるために後に残っていたネルソンは、大西洋上にいる艦隊の主力に合流しようと航海していましたが、深い霧のなかに入ってしまいました。渦巻くような霧を通して、他の艦の輪郭が英海軍の水夫たちの眼にぼんやりと見分けられましたが、海上から聞えてきた声は、なんとスペイン語ではありませんか!

 スペインの艦隊は港を出て、プレストのフランス艦隊と合流しようと航海していたのです。幸運にも、ネルソンはみつけられることなく彼らの間を通りぬけ、やがて始まる戦いに間に合ってジャーヴィスに合流しました。
27隻から成るスペイン艦隊は、2つのグループに分かれていました、そして、わずか15隻の艦を率いていたジャーヴィスは、敵と平行な戦列を作って一斉射撃を交し合うという、通常の戦法とは異なった戦法を取るべきだと考えました。彼はスペインの2つの小艦隊の間隙に向かって進んで、彼らの艦隊を分断し、2番目の小艦隊が到着しないうちに1番目の小艦隊を圧倒しようと決断したのです。

 そして、海戦史上もっとも注目すべき行動のひとつが起ったのです。ネルソンは74門の砲を備えたキャプテン号上にあって、英海軍のしんがりにいました、そして英海軍の作戦が成功しないうちにスペイン艦隊の2つの部分がいっしょになるだろうと気づきました。
彼は大胆で因習にとらわれない戦術行動をとろうと決心しました。命令もされないのに、軍法会議と汚名の危険を冒して、彼は戦列を離脱して、前進してくるスペイン艦隊の船首を横切るようにキャプテン号を進めました。ただちに艦はスペイン軍の砲火の的になりました。前のトップマストは海に吹き飛び、舵輪は撃ちこわされました、しかし、ネルソンは巧みに船を操り、彼の艦を80門の砲を持つサン・ニコラス号に衝突させることに成功し、2艦はぴったりとつなぎ合されました。
ネルソンは剣を抜き、上船隊を率いて自艦より大きい舷の甲板におりたちました、短い激戦の後、敵艦は降服しました。
煙と混乱のなかで、もう1隻の敵艦、112門の砲を持った巨艦サン・ジョゼフ号が、サン・ニコラス号の向う側にやってきていたのです。サン・ニコラス号が降服したと思うまもなく、上船隊はサン・ジョゼフ号からの砲火にさらされることになりました。
「ウエストミンスター寺院か、栄光ある勝利か」 と叫びながら、ネルソンはサン・ジョゼフ号によじ登りました。彼とその部下がたいへん激しく攻撃したので、スペイン艦の艦長はすぐに降服しました。それは驚異的な勝利でした。敵の2隻の大艦、どちらも彼の艦より大きい艦が、ネルソンとアガメムノン号の水夫によって占領されたのでした。

 故国において、ネルソンの名前は誰の口にものぼりました。彼はロンドンにおいて祝杯の対象となる人物となりました、そしてその業績を認められ、ナイトに列せられ、海軍少将に昇進しました。しかし、彼の行動すべてが同様の成功をおさめたわけではありません。
1797年7月に、彼はスペイン領のデネリフ島に停泊していたスペインの宝船をぶんどろうとして、無分別な遠征をしました。ネルソンは8000人のスペイン部隊と戦うのに1100人の部下を連れていきました、そして、英国軍はサンタ・クルースの要塞からの猛砲火を浴びました。
ネルソンは上陸してはならないという命令にさからって、最後の攻撃に参加しました。戦いの最中に、ネルソンは、ぶどう弾で右腕にひどい傷を負い、右腕を切断しなければならなくなりました。陸上にもどり、妻に看病されて、彼が健康をとりもどすには何か月もかかりました。それはひどい落胆の時期でありました。
彼は自分の生涯もこれで終りだと感じました。「左手だけしかない提督なんてもう考えられない……私は友人たちの重荷となり、祖国の役に立たない人間になってしまったのだ」
しかし、当局は別の考えを持っていました。1798年3月に、今は聖ヴィンセント伯爵となっている司令長官ジャーヴィス提督の要請に応えて、彼は地中海艦隊への赴任を命じられたのです。彼の任務は、ナポレオンがフランス沿岸の地中海の港や北イタリアの港に集めつつあった部隊や艦船の大集団を調査することでした、しかし、激しい嵐でネルソンが乗っていたヴァンガード号のマストが折れ、フランス艦隊は彼に気づかれずに出港してしまいました。重大な問題は──彼らがどの方向に向かったかでした。

 フランス艦隊の探索が続けられました。ナポレオンの艦隊がシシリー島の沖を更に進んでいるのが目撃されたという知らせがネルソンのもとに届きました、そして、霊感のひらめきによって、彼は彼らがエジプトに向かっているのだと考えました。
ナポレオンの想像力に富んだ計画は、エジプトを征服して、中東に英国を苦しめるフランス軍基地を作り、その結果インドから英国を追い払うことでした。それは、ナポレオンの壮大な征服計画に呼応する野心的な計画でした。
英国艦隊は全速力でエジプトに向かいました、そしてその際、補給基地として、マルタ島を確保するために止まっていたフランス軍を追い越してしまったのです。エジプトに到着しましたが、ネルソンがひどくがっかりしたことには、敵のいる痕跡はありませんでした。彼が出港してからわずか数時間後にフランス艦隊がエジプトの沖に現れたことを知らないで、彼はシリア、トルコ、ギリシアの沿岸の探索を続けました。
無益な探索に1か月が費やされました、ネルソンがふたたびエジプトにもどると、フランス艦隊はアレキサンドリアの近くのアブキア湾に停泊していました。1798年8月1日のことでした。

 フランスの提督は彼の艦隊を、砲を海に向けさせ、岸近くの一見難攻不落に見える位置に整列させていました。
夕方で急速に暗くなりつつありましたが、ネルソンはただちに攻撃を開始しました。岸近くの浅瀬をものともせずに、ゴリアテ号のフォリー艦長はフランス軍の戦列のうしろにまわって、背後から彼らを攻撃しました。
他の艦もそのあとに続きました。この大胆な、そして予期していなかった攻撃に、まったく備えていなかったフランス軍は、十字砲火を浴びせられました。
ますます暗くなるなかで、砲火の閃光があたりを照らしました。まもなく、最大の敵艦ラリアント号が火を発し、おそろしい速さで広がるほのおがあたりの光景を赤々と照らしました。午後10時15分にほのおが火薬庫に達し、ものすごい爆発音とともに艦は爆発しました。
ある英国の艦長は、その光景を次のように述べています。「恐ろしい休止と死のような静寂が続き、空高く吹きあげられていたマストや帆げたの残骸が、海中や近くの艦上に落ちた」
逃げ得たフランス艦はわずか4隻でした。ナポレオンは彼の艦隊を失ったばかりでなく、約5000人の軍隊がエジプトに孤立しました。それが中東帝国を建設しようとした彼の夢の終りでした。そして、征服者も結局は不敗ではないということを、動揺していたイギリスの同盟国を含むヨーロッパ諸国に示したのです。

 ネルソンの名声は、ヨーロッパじゅうに鳴りひびきました。ジョージ三世は彼を貴族に叙し、ナポリ王は彼のためにブロンテ公爵家を創設して、シシリー島に大きな (もっとも、一文にもならない) 地所を与えました。
トルコ皇帝は彼に巨大な宝石のついた勲章を与えました、また、彼の肖像画を入れた、ダイヤモンドをちりばめた箱がロシア皇帝から届けられました。
しかし、ネルソンは無傷で戦いに勝ったわけではありませんでした。ぎざぎざの金属片が飛んできて彼の額にあたり、彼は骨にまで達する傷を負ったのです。命には別条ないながら、苦痛を伴う負傷でした。
戦いの後、英国艦隊は修繕と休息のためナポリに向かいました、そこでネルソンはハミルトン一家の客として大使館に滞在するよう招待されました。
ハミルトン夫人はふたたびネルソンに会ったとき、たいへん動揺しました。数年前のほっそりした少年らしい姿はなく、今はただ戦争で受けた傷あとがはっきりと示されていました。額にはぎざぎざの傷がはっきりと残っており、上着にピンでとめられたからっぽの袖は、彼が腕をなくしたことを物語っていました。彼が澄んだ目で彼女をみつめ返したとき、彼女は我を忘れ、手をさしのべて前に進みました……それが、彼らの名前をいつまでもつなける一大ロマンスの始まりでした。
ネルソンがいることに勇気づけられて、ナポリ王は北イタリアのフランス軍を攻略しましたが、その結果大敗を喫しました、そしてネルソンは、ナポリの宮廷をシシリー島に移さなければならなくなりました。それは彼がイギリスにもどる2年前のことでした。

 英帝国が海戦で勝利をおさめたにもかかわらず、ナポレオンはヨーロッパ大陸のほとんど全土を支配していました、そして英帝国は一国だけで戦わなければならなりませんでした。
イギリスの卓越した海軍力を最大限に利用するために、可能なかぎりフランス沿岸を封鎖して、いかなる国籍の船であっても、すべてフランスの港に出入りさせないようにすることが決定されました。
この行動は中立国がフランスと貿易するのを妨げることになり、中立国はそれを憤りました。その結果、ロシア、プロシア(ドイツ北部にあった旧帝国)、デンマーク、スウェーデンは、英国の封鎖を強化しようとする努力に反対する武装中立条約を締結しました。

 英国はフランス、スペイン、オランダと戦争していたので、危険な状態に発展する可能性がありました、そこで、ハイド・パーカー卿を司令官とし、ネルソンを副司令官とする英国艦隊が、バルチック海を封鎖するために派遺されました。
ロシア軍とプロシア軍が援助しにこないうちに、デンマークの艦隊を打ち負かそうという計画が立てられました。しかし、パーカーは慎重な人でした。ただちに攻撃を加えるかわりに、彼はデンマーク軍に同盟から脱退するよう説得しようとして、陸上に使者を送りました。この交渉は失敗に終りました、しかし交渉が続いていた間に、デンマーク艦隊はコペンハーゲン沖の強力な布陣に戦力を集中する時間があったのです。

 パーカー提督は、敵に近づくことが可能なように、ネルソンに船底の浅い艦を預けました、しかしネルソンには、うまい戦略行動の余地がなく、これから始まる戦いが長く、困難なものになるだろうということが明白でした。
英国の小艦隊は12隻の艦から成っていました、しかし、3隻が浅瀬に乗りあげて、戦いは不利に展開しました。他の9隻は戦いを続け、デンマーク軍の反対側に錨を下ろして、砲撃が始まりました。
次から次へと一斉射撃が行われ、すぐに艦隊は大きな雲のような煙にかくれました。デンマーク軍はその砲撃力を増すために、数個の浮き砲台を投錨させていました、そしてネルソンが予見していたとおり、それは激しい砲撃戦となりました。一時、パーカーはネルソンが敗れそうだと思い、艦隊に撤退せよとの信号を送りました。
しかし、ネルソンは戦い続けようと決意していました、そして撤退の命令が届くと、彼は見えない方の眼に望遠鏡を当てて 「私には信号が見えない」 と言いました。
戦いはさらに1時間続き、デンマーク軍はついに持ちこたえられなくなりました、そしてネルソンはこれを見ると、勇敢なデンマーク人はイギリス人の同胞であって、敵ではないという趣旨のメッセージを伝える休戦の旗を掲げました。
それは激しい戦いの末に得た勝利でしたが、大衆の喝采はほとんどありませんでした。しかしながら、新しい皇帝がロシアの王位につき、平和条約がやがて締結されたのです。

 短期間でしたが、フランスとともに平和な時期がありました、しかしナポレオンのあくことのない野望のため、恒久的平和は望むべくもありませんでした。ネルソンは健康を害して故国に帰り、さきに購入しておいたマートンにある地所で静かな田園生活を送りました。
しかし、それも長くは続きませでした。
1803年に戦いがまた始まりました、そして、今は司令長官となったネルソンはヴィクトリア号上に旗を掲げました。彼はふたたび地中海に向かいました、フランスの一大艦隊がツーロン港に停泊していたのです。
見張りと待機の、長いあきあきする時期が続きました。ほとんど2年の間、イギリスの小艦隊は沖を巡航し、ネルソンはめったに艦をはなれませんでした。ついにフランス艦隊はやっとのことで脱出し、イギリス艦隊から逃れて大西洋へと入りました。さまざまな港についた他のフランスとスペインの艦も、出航して、大西洋を越えて西インド諸島に行き、ヨーロッパからイギリスの封鎖軍を引き揚げさせよとの指示を受けました。彼らはそこで合流して一大艦隊を形成し、フランス軍によるイギリス侵略の準備を整えて英仏海峡にもどってくる予定でした。
しかし、やっと逃げられたのはヴィルナーヴの小艦隊だけでした、そしてそれが大西洋を航行し、またもどってくるのを、ネルソンは追跡しましたが、不運にもネルソンは敵影を発見できず、戦術行動をとることもできませんでした。ついにヴィルナーヴと彼の艦隊は、スペインのカディス港に避難しましたが、そこで彼らは発見され、封賞されました。

 最後の決定的な戦いの舞台は整いました、ここで当時のろう艦をくわしく見てみましよう。ネルソンの旗艦ヴィクトリア号のような大きな三層艦は、100以上の砲を持ち、約850人の乗組員を乗せるてごわい戦闘機械でした。
それは長さが226フィート6インチ(約70m)、幅が52フィート6インチ(約16m)で、現代の標準からすると、長さが短く幅が広いものでした。
メインマストは竜骨から215フィートの高さにそびえていました。メインヤ一ド──艦のなかでもっとも長い帆げた──は102フィート4インチの長さがあり、重さ6トンでした。メインヤードの真上にメイントップ、すなわち、戦いの際マスケット銃兵が部署につく一種の台がありました。ここから彼らは敵艦の甲板の上めがけて発砲できたのです。

 どのマストにもトップが取り付けられていました。(ネルソンを殺したのは、リダイタブル号の後トップからのマスケット銃の弾丸でした)
将校の居住部分は船尾にあり、提督は日中の居室と食事室を持っていました。対照的に、水兵は砲列甲板の上につめこまれた状態で生活していました。彼らは砲の間につるしたテーブルで食事をし、甲板の梁からつるしたハンモックの上で眠りました。真中の砲列甲板には炊事室があり、そこには将校や船員たち850人分の料理を作る、鉄のかまどがおかれていました。
ヴィクトリー号は現存しています。それはトラファルガー海戦のときとまったく同じ姿で、ポーツマス海軍工蔽の中に展示されています。

 この断面図は、ヴイクトリー号がいかに深かったかということを示すものです。船体には4つもの主要甲板があり、その上後甲板と船尾甲板の2つがあります。船倉は21フィート6インチの深さがあります。
狭い場所の中での砲声はすさまじいもので、水平たちは帽子やネッカチーフで耳をしっかりとおおっていました。多くの者は永久に聴力を失ってしまいました。負傷者は喫水線より下にある最下甲板に運ばれ、粗雑な手術が薄暗い光の中の不快な雰囲気の中で、可能なかぎり行われました。麻酔薬はラム酒だけでした。軍医の居室、診療室、大工の居室、士官候補生の寝台、火薬庫、ケーブル置場もこの甲板上にありました。
最下甲板の下には、航海用の物資や食糧を貯蔵する船倉がありました。多くの品目のうちのごく一部とその必要量について、ある程度理解できるように、下の表には量がトンで示してあります。
火薬            35トン  水      300トン
弾丸           120トン  牛豚肉   25〜30トン
鉄のバラスト(安定用底商)  600トン  小麦粉     10トン
ビスケット         45トン   豆類      15トン
ビール          200トン   石炭及び木炭  50トン
食料の大部分は木製の樽の中に入れて、湿った風通しのよくない場所に置かれていたので、長期間の航海中の食料の状態は容易に想像できます。
効果的な砲撃は18世紀の海戦の主要な鍵でした。艦船が戦いの位置につくと、戦いは砲撃戦となり、いずれの側も敵艦や要員に最大の損害を与えようとします。この戦術を成功させるには、多くの練習と訓練が必要でした。

 ほぼ15人の水兵が砲の操作の責任を負いました、まず艦の片側を、ついで、艦が針路を変えると、反対側の砲を操作しました。弾丸をこめる手順は次のとおりでした。火薬をつめた布の弾薬筒が砲口につめられ押しこまれます。次に、押えがいれられ、その次に、球状弾、鎮弾、散弾などいずれのタイプの弾丸が使われるにせよ、その弾丸がこめられ、最後にそれらすべてをあるべき場所におさめるための網の押えがおかれます。
次に、砲を突き出せとの命令が出され、横のロープについている水兵が、砲が砲門から突き出るまでロープを強く引きます。起爆剤が火門に注ぎこまれ、砲員長の指示で2人の水兵が、横についている滑車を操作する水兵の助けをかりて、てこで左右に砲を向けて狙いを定めます。
高さを変える必要があるときは、砲尾をあげて、副砲員長が、砲尾の乗っている巨大な木のくさびを調節できるように、ふたたびてこが使われます。砲身を下げるためには、くさびが押しこまれ、砲身をあげるためには、それを望みの高さまで引き出すのです。
砲は火なわ (アルコールか硝酸カリウム液にひたした目のあらい麻の長いなわで、ゆっくりと均一に燃える) か、砲尾についている火打ち石式発火装置で発射されました。発射し終ると、砲身をきれいに拭い、弾薬筒のくすぶっている残りかすを棒の先につけた 「オゥーム(虫)」 で拭きとらなければなりませんでした。

 砲をもっとも有効に使うためには、艦を適切な位置に動かさなければなりません。すなわち、一斉射撃ができるように、敵に側面を向けなければならないのです。前面を敵に向けていると、前甲板の二門のカロネード砲しか使うことができなかったのです。
図は、敵の戦列に向かって進む艦が、それを突破するまでしばらくの間は反撃することもできず、砲撃の的になり、突破すれば、一斉射撃が敵艦に絶大な効果を発揮することになるようすを示しています。

 トラファルガー海戦におけるネルソンの作戦
イギリス艦隊は、フランスの戦列を分断して混乱におとしいれるという意図のもとに、2列縦隊で接近しています。

 2年間休まずに苦しい海上勤務につき、大西洋を往復して実りのない追跡をした後に、ネルソンの小艦隊は、南スペインの沖に布陣していたコリンウッド提督の小艦隊に合流しました。ネルソン自身は、敵を戦いに誘いこむのに失敗したことに落胆して、ヴィクトリー号でイギリスにもどり、以後の進展を待ちました。
それは彼がイギリスで過ごした最後の3週間となったのです。
9月1日に、フリゲート艦ユーライアス号のブラックウッド艦長が、ヴィルナーヴの艦隊がカディズに到着したとの報をもってイギリスに着きました、9月14日に、ネルソンはヴィクトリー号に乗ってポーツマスを出港し、28日に、カディス沖にいたコリンウッドの封鎖艦隊と合流しました。水平線上に港にいるフランスとスペインの連合艦隊のマストが見られました。
ネルソンはイギリス艦隊から熱狂的な歓迎を受けました。ただちに切迫している戦いのための作戦がねられました──それは、ネルソンがハミルトン夫人にあてた手紙の中で 「不敗が保証されていると我々が言っているネルソンの手際」 と述べたものでした。
基本的には、(40ページと41ページに示してあるように) イギリス軍は2列縦隊で敵の戦列めがけて進み、先頭の艦から3分の1のあたりで敵の戦列を突破し、うしろの3分の2に優勢な砲撃を加えようとの作戦を立てました。
その考えは、大胆かつ独創的で敵を混乱におとし入れること保証つきでした。
一方、ナポレオンはフランスとスペインの艦隊に、必要があれば出港して戦うようにと命令を下していました、そして、ヴィルナーブ号はそれに従うしかありませんでした。

 1805年10月21日の朝は、快晴だが深い霧に包まれていました。ヴィクトリー号の一番高い帆桁から、35隻から成るフランス・スペイン連合艦隊がトラファルガー岬の西方数マイルを南を指して進んでいるのが見られました。
ネルソンの作戦にしたがって、27隻から成るイギリス艦隊は戦闘配置につき、一隊はネルソンに率いられ、他の一隊はコリンウッド提督に率いられた2列縦隊となって、敵を圧倒しました。西風は微風で風向きも変りやすく、前進はゆっくりしたものでした。
艦上では、太鼓が行動開始を告げ、砲門のふたが開けられ、砲には弾丸がこめられ、砲門から突き出されました、弾丸を発射するために使われる火なわを入れた桶が置かれ、甲板には砂がまかれ、弾薬が下から持ってこられました、まわりじゅうが大海戦のための行動と準備にわき立っていました。ネルソンがあの有名な信号 「イギリスは全員がその義務を果すことを期待する」 をかかげたのはこのときでした。
イギリス艦が船首を向けて敵に近づいていたので、彼らが敵の戦列を突破して自分たちから一斉射撃を浴びせないうちは、激しい砲撃を受けることは明らかでした。ヴィクトリー号にも何回も砲弾が命中しました。艦は帆や帆柱などにかなりの損害を受け、死傷者もかなりの数にのぼりましたが、ついにブセンタール号とリダウタブル号の間に割ってはいり、そこを進む際に、前者のいかめしい窓にはげしい一斉射撃を浴びせ、艦をすみからすみまで掃射しました。

 74門の砲を持つフランス艦リダウタブル号は、ブセンタール号のすぐ後方を走っていて、ヴィクトリー号の船首に衝突されました。仏艦は右舷に傾き、2隻の艦は帆や帆柱がかみ合って離れなくなりました。
このときまでに、ヴィクトリー号は前トップと後トップ及び主力のトガンマスト(下から3番目のマスト) を失っていました。甲板上では、水兵たちがハンモック際に並んで敵を直射していました。前甲板の68ポンド砲は、敵艦上で攻撃隊を組織しようとしていた水兵たちに絶大な損失を与えました、一方、下の方では、激しい一斉射撃が行われていました、このような短い距離では狙いが外れることはありませんでした。
そうしているうちに、ヴイクトリー号に続いていた他の艦もフランス艦隊の戦列を突破し、戦列を通過する際、一番近くにいた艦を掃射しながら、敵艦と平行に進んでいました。雷のような砲声と熱い雲のような煙が戦いのすさまじさを、まざまざと示しました。
その間じゅう、ネルソンは、提督の略装を着ていましたが、胸には階級章と勲章をつけて、ハーディー艦長や他の人びとと後甲板を歩いていました。
彼らの頭上約40フィートにある、リダウタブル号の後トップ上にいたフランスの狙撃兵が、渦巻く煙の間から、胸に勲章をつけた小さな姿をみつけ、マスケット銃で注意深く狙いました。
弾丸はネルソンの左肩にあたり、致命傷を受けてネルソンは甲板上に倒れました。

  ハーディー艦長が彼の上にかがみこむと、ネルソンは言いました。「ついに彼らにやっつけられたよ。背骨が打ちぬかれた」 彼は、乗組員たちが士気を失わないように、顔にハンカチをかけて、下の傷病者収容室に運ばれ、士官候補生のベッドに寝かされました。彼のまわりには、ろうそくを入れたランタンのかすかな光に照らされた悪臭のする暗がりのなかに、負傷者や死にかけている者たちが横たわっていました。ネルソンの死期が近いことは明らかでした。軍医にできることは何もありませんでした。
戦いはさらに3時間激しく続きました。ヴィクトリー号とデメレール号の間にはさまれたリダウタブル号は、粉砕されて難破船同様でした。643人の全乗組員のうち、522人が戦死したり負傷したりして、リダウタブル号は戦いをやめていました。ヴィルナーヴ提督の旗艦、ブセンタール号も大差ない状態でした。スペインの巨大な旗艦、サンティッシマ・トリニダッド号はマストの大部分を撃ちとばされ、イギリス艦から続けざまに一斉射撃されて、力なく漂っていました。その2隻ともついに軍旗を下ろして降服しました。
イギリス艦も損害を受けずに勝ったわけではありませんでした。敵の戦列に近づいた際、フランス艦から一斉射撃を浴びてひどい損害をこうむった艦もたくさんありました。ヴィクトリー号もロイヤル・ソヴァリン号もマストを失いました、しかし、午後3時までに、ハーディーはネルソンに、敵艦が14、5隻降服したのに、イギリス艦は1隻も失わなかった、と告げることができました。
そこで、偉大な船乗りは輝かしい勝利を知って死にました。彼の最後の言葉は 「よかった──私は義務を果した」 というものでした。


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